01.精霊からの預かり子
慣れ親しんだ森の異変を感じるその瞬間までは、いつもどおりの平凡な一日だった。
夕食を終えて自室に戻り、侍女が私をドレスから寝巻きに着替えさせてくれようとしていたとき、突然、屋敷の裏の森が騒がしくなった。いつもは穏やかな精霊たちが騒いで――いや、悲鳴を上げていた。
「……なに?」
「ミアリエル様!?」
胸騒ぎがして、脱ぎかけのドレスのまま自室を飛び出した。窓の外に広がる森の様子がおかしい。普段は月のない真夜中であっても、私にはほのかに光って見えていた森。なのにその日は闇に覆われ、ぽつぽつと弱々しい光が見えるだけだった。
すれ違う使用人たちは私を見てギョッとするだけで、誰も森に注意を向けていない。
屋敷から出て最初に目にしたのは、森のほうからこちらに向かってくる小さな光。それから、光を追ってくる複数の闇。追われていた精霊が一瞬強く発光し、闇を散らした。地面にひらりと落ちた精霊に急いで駆け寄り、すぐそばに腰を下ろす。その精霊は自分よりさらに小さな、淡く青い微光を連れていた。
「大丈夫!? 手当――なんて、どうしたら」
《いい、の……ミア、この子を、守って……》
それだけを告げ、精霊の姿が世界にとけるようにして消えた。後に残ったのは青い微光と私だけ。どうして、という私の声も闇夜にとけた。
頼りなさげに浮いていた淡い光が、ふわりと私のほうに寄ってくる。守ってと言われても、どうしたら。
「え……?」
青い光が私のお腹のあたりに当たった瞬間、なぜだか愛おしさが胸にあふれた。あたたかいくて、幸せな何か。どうしてこんな気持ちになるのかはわからないけれど、悪いものではない。そんな気がした。
ザアッと嫌な風が強く吹き、顔を上げると、暗い森の中で何かがうごめいているのが見えた。幼い頃からずっと遊んでいたこの森は、いつもあたたかい光に満ちていて、居心地のいい場所だったのに。怖いと思うなんて初めてだ。
座り込んでいた私に、侍女と騎士が駆け寄ってきた。
「ミアリエル様! いったいどうされたのです!?」
「夜の森は危険です。屋敷にお戻りください!」
「でも……っ」
今の状態の森を放置していいの? 我が家には数代に一度、精霊の姿を見られる者が生まれ、彼らの住む森を守ってきた。森に異変を感じた今こそ、役目を果たすときではないの? でも、何をどうすればいいのだろう? 精霊から託された微光を宿したまま、今の森に入るのは危険な気もするし――そうだ、私がやるべきことは、きっと無策のまま森に入ることじゃない。
「アレス。お父様に、火急の用で面会したいと伝えてきて」
「ミアリエル様? 火急の用とは」
「森のことよ! 早く!」
「は、はい!!」
騎士を屋敷に走らせ、侍女とともに屋敷に戻った。事情を説明したら、お父様は屋敷の警備を固めた上で、明るくなり次第すぐに森を調査すると約束してくれた。
私も夜が明けるまでずっと自室で森を注視していたけれど、闇が森から這い出してくるようなことはなく、徐々に異質な空気はなくなっていった。私以外の目には、その夜は何も起きなかったように見えたらしい。青い微光をお腹に預かってから三ヶ月が経っても、森や周囲に異変が起きることもなく、これまでどおりの静かな森がそこにあった。
でも、気のせいでも勘違いでもない。
だってそれ以来、屋敷の周りで精霊の姿を見ることがなくなったのだから。
そのうえ――私は、身に覚えのない妊娠をしたのだから。
◇
私の妊娠が発覚したその日の夜、お父様から書斎に呼び出された。奥の大きな窓からは大きく欠けた月が見える。その月を背に机に座るお父様の左右には、お母様とお兄様が困ったような顔をして立っていた。
「お呼びでしょうか、お父様」
「ミアリエル……『妊娠の理由に、精霊から預かった光以外は思い当たらない』というおまえの話。父も母も、そして兄も、その言葉を信じよう」
「ありがとうございます」
「だが、この家に長く仕える者以外に、その話を信じさせるのは難しい。それはわかるな?」
「はい」
お父様の話は当然だと思う一方で、ついドレスのスカートを握ってしまった。昔ならいざ知らず、今のこの国に精霊の存在を信じる者は多くない。いや、ごくごく少数派と言ってもいい。そのうえ精霊の力で妊娠したなんて話は、どの文献を探しても見当たらないだろう。精霊に関する書や研究記録を集められる限り集めている我が家の者ですら、誰も見聞きしたことがないのだから。
あの夜、脱ぎかけのドレスで森から戻った私を見た使用人も少なくない。精霊の存在を信じていない者たちは私の妊娠について、森で逢引していただとか、最近森に増えている密猟者に襲われただとか、好き勝手な想像をするだろう。
「ミアリエル、領主命令として告げる。しばらく森から離れ、身を隠しなさい」
「そんな……っ! 嫌です。私がここを離れたら、森に異変が起きても誰も気づけないではないですか!」
「聞きなさい。その子が精霊から託された存在であるならば、ウッドリアン家としては、その子を危険から遠ざけることを第一に考えねばならん。子どもが人の子なのか精霊なのかもわからんが、おまえの縁談に差し障っても困るから、他の貴族からは隠しておきたい。納得いかないかもしれないが、呑んでほしい」
「…………」
「ミアリエル、繰り返すが、これは領主としての命だ」
「……わかり……ました」
下唇を強くかみ、視線を床に落とす。お父様の話はきっと正しいのだと、頭ではわかっている。でも、精霊を見ることができるこの目は、森と家族を守るためにあるのだと信じて生きてきたのに、一人だけ森から逃げるだなんて。心の整理もつかないまま、優秀な使用人たちによって屋敷を離れる準備が翌朝までに整えられてしまい、領地の西端にある別荘地に向かうことになった。
その地で生まれた我が子は――新緑のような髪と、春空のような青い瞳という、人の世ではありえない容姿をもつ子どもだった。
それなのに、我が子を抱いた瞬間、胸を満たしたのは戸惑いではない。まるで遠い昔に別れた誰かを、もう一度この腕に抱きしめたかのような、強烈な懐かしさと愛おしさ。
その感情の正体を私が知るのは、出産から五年を過ぎてからのこと。




