第3話 調子に乗った奴から死ぬ
『次の鬼は——楠生蓮』
俺の名前が、呼ばれた。
心臓が、跳ね上がる。
冷たい汗が、背中を伝っていく。
だが、不思議と焦りはなかった。むしろ、これでいい。これで、俺が動く理由ができた。誰に怪しまれることもなく、堂々と発言できる。
天井のデジタル表示が、60から減り始める。
59、58、57——
赤い数字が、俺の残り時間を刻んでいく。
俺は、深呼吸をした。肺の奥まで空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。心臓の鼓動が、少しだけ落ち着いた。
ポケットの中のノートを、一度だけ握りしめる。
このノートに書いてあることが正しければ、全員を救える。
そして。
「おい、全員聞け」
俺は、声を張り上げた。
控室にいる全員が、俺の方を向いた。
佐藤は涙で濡れた顔を上げ、園崎は怯えた目でこちらを見ている。山田は呆然とした表情で、黒岩は無表情のまま俺を見つめていた。白岩だけが、眼鏡の奥の目を細めて、興味深そうにこちらを観察している。杉内は相変わらず無言で、灰垣は穏やかな表情を崩していなかった。田中は腕を組んで、俺の言葉を待っている。
田辺と鈴木の死体が、床に転がっている。
血の気を失った肌。見開かれたままの目。
その光景を視界の端に捉えながら、俺は言葉を続けた。
「このゲームの攻略法を教える」
全員の視線が、俺に集中した。
九人分の目が、俺を見つめている。期待、疑念、恐怖、様々な感情が、その目に浮かんでいた。
50、49、48——
カウントダウンは続いている。だが、俺は焦らない。ここで焦ったら、田辺や鈴木の二の舞だ。冷静に、論理的に、説明する。
「ルールを思い出せ。このゲームは、30分で終わる」
俺は、できるだけ冷静に、分かりやすく説明した。
全員に聞こえるように、はっきりとした声で。
「30分間、鬼を回し続ければいい。順番を決めて、機械的に回す。そうすれば、誰も死なない」
沈黙が、控室を支配した。
誰も、すぐには反応しなかった。俺の言葉を、咀嚼しているのだろう。あるいは、信じられないと思っているのか。
蛍光灯の光が、やけに眩しく感じる。
空調の音が、やけに大きく聞こえる。
誰かが、唾を飲み込んだ。
「ちょっと待ちなさいよ」
最初に口を開いたのは、園崎だった。
壁に背中を預けたまま、俺を睨みつけている。その目には、明らかな疑念が浮かんでいた。眉間に深い皺が刻まれ、唇は引き結ばれている。
「なんでそんなにルールに詳しいの? 怪しいわ」
予想通りの反応だ。
俺は、内心で溜息をついた。こういう奴は必ずいる。論理よりも感情で動く奴。疑うことしかできない奴。
「あなた、主催者の仲間なんじゃないの? 最初からルールを知ってたんでしょ?」
園崎の声が、ヒステリックに響いた。
その言葉に、他の参加者たちの目が揺れる。俺への信頼が、揺らいでいる。
「理屈で考えろ」
俺は、園崎の方を向いた。
感情的になってはいけない。冷静に、論理で返す。
40、39、38——
まだ時間はある。ここで説得できなければ、また誰かが死ぬ。いや、俺が死ぬ。
「さっき、AIが言っただろ。30分で終わりだと」
園崎が、口を閉ざした。
反論できないのだろう。確かに、AIはそう言っていた。全員が聞いていた。
「60秒以内に次の奴を指名すればいい。それを繰り返す。30分間、回し続ければ、全員生き残れる」
俺は、指を折りながら説明を続けた。
「今、残ってるのは9人だ。60秒で1人指名するとして、9人で一周するのに9分。30分あれば、3周以上できる。途中で詰まっても、十分に余裕がある」
「でも……」
「でもじゃねえ」
俺は、園崎の言葉を遮った。
ここで引いたら、全てが終わる。
「田辺と鈴木が死んだのは、パニックを起こしたからだ。名前が出てこなくなった。順番を決めておけば、そんな心配はいらない。次に誰を指名するか、最初から分かってるんだからな」
園崎は、まだ納得していない顔だ。
唇を噛んで、俺を睨みつけている。
だが、他の参加者たちの反応は違った。
「なるほど、合理的だ」
白岩が、眼鏡をクイッと上げながら言った。
その目には、俺への疑念ではなく、純粋な知的好奇心が浮かんでいる。
「順番を決めておけば、誰を指名するか迷う必要がない。60秒あれば、十分に名前を言える。理論上は、誰も死なない」
白岩は、顎に手を当てて考え込んでいた。
「むしろ、なぜ最初からこの方法を思いつかなかったのか。単純な算数の問題だ」
「従います」
黒岩が、短く言った。
相変わらず無表情だが、その目には迷いがなかった。軍人のような、命令に従う姿勢。
「指示をくれるなら、その通りに動きます」
二人の賛同を得て、空気が変わった。
部屋の中の緊張が、わずかに緩んだ気がする。
佐藤が、顔を上げた。涙で濡れた頬を、手の甲で拭っている。
「私も……その方法でいいと思います」
声は震えていたが、意志は感じられた。
「わしも賛成じゃ」
山田が、震える声で言った。
さっきまで俯いていた老人が、俺の方を見ている。皺だらけの顔に、希望の光が宿っている。
「これ以上、誰にも死んでほしくない。田辺さんのこと……わしは一生忘れられん」
杉内も、小さく頷いた。
相変わらず無言だが、賛成の意思表示だろう。おとなしそうなOLの顔に、決意のようなものが見えた。
灰垣は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「いい案だと思います。みんなで協力しましょう」
看護師らしい、落ち着いた声だった。この人は最初から冷静だ。パニックを起こしていない。
残るは、田中と園崎だ。
田中は、腕を組んで考え込んでいた。冷静な目で、状況を分析している様子だ。
「……確かに、理屈は通っている」
田中が、ゆっくりと口を開いた。
「リスクは低い。やる価値はある」
これで、園崎以外の全員が賛成した。
25、24、23——
俺のカウントダウンは、まだ続いている。残り時間が減っていく。
「園崎」
俺は、園崎の名前を呼んだ。
真っ直ぐに、彼女の目を見る。
「お前も協力しろ。でなきゃ、お前だけ死ぬぞ」
「脅すの!?」
「脅しじゃねえ、事実だ」
俺は、園崎を真っ直ぐに見つめた。
ここで妥協はしない。
「お前が協力しなくても、俺たちは順番を回す。でも、お前の名前は呼ばない。そうなったら、お前は一生鬼にならないまま——30分が過ぎる」
園崎の顔色が、変わった。
青ざめた顔に、焦りの色が浮かんでいる。
「それは……」
「分かっただろ。協力しないと、お前だけが損をする。お前だけが、このゲームに参加できないまま終わる」
園崎は、唇を噛んだ。
爪が、腕に食い込んでいる。葛藤しているのが、目に見えて分かる。
しばらく俺を睨みつけていたが、やがて、小さく頷いた。
「……分かったわよ。協力すればいいんでしょ」
不満そうな声だったが、それでいい。
協力さえしてくれれば、感情は関係ない。
これで全員だ。
15、14、13——
俺は、素早く順番を決めた。頭の中で、全員の名前を並べる。
「順番を言う。俺から始めて、黒岩、白岩、佐藤、山田、園崎、杉内、灰垣、田中。この順番で回す。いいな?」
全員が、頷いた。
それぞれが、自分の順番と次の人の名前を確認している。
「今から、黒岩を指名する。黒岩、お前のフルネームを言え」
「黒岩剛です」
黒岩が、即座に答えた。
迷いのない、はっきりとした声。
俺は、天井のスピーカーに向かって言った。
「黒岩剛」
『指名を確認しました。次の鬼は——黒岩剛』
俺の首輪が、一瞬だけ緑色に光った。
解除の合図だろう。首に巻きついていた緊張が、わずかに緩んだ気がした。
そして、俺のカウントダウンが消え、新たに黒岩の60秒が始まった。
60、59、58——
黒岩は、すぐに白岩の方を向いた。
無駄な動きは一切ない。指示通りに、機械的に動いている。
「白岩、フルネームを」
「白岩拓海だ」
白岩が、眼鏡をクイッと上げながら答えた。
「白岩拓海」
『指名を確認しました。次の鬼は——白岩拓海』
次は白岩だ。
白岩は、佐藤の方を向いた。
「佐藤、名前は」
「さ、佐藤美咲です」
佐藤が、緊張した声で答えた。
さっきまで泣いていた女子大生が、必死に自分の役目を果たそうとしている。声は震えていたが、言葉ははっきりしていた。
「佐藤美咲」
『指名を確認しました。次の鬼は——佐藤美咲』
順調だ。
回り始めた。
歯車が噛み合うように、鬼が次の鬼を指名していく。
佐藤から山田へ。山田から園崎へ。園崎から杉内へ。
最初はぎこちなかった。名前を聞いてから指名するまでに、数秒の間があった。緊張で、言葉がすぐに出てこないのだろう。口が乾いて、舌がもつれる。そんな感覚は、俺にも分かる。
でも、段々とスムーズになっていった。
杉内から灰垣へ。灰垣から田中へ。田中から俺へ。
そしてまた、俺から黒岩へ。
一周目が終わった。
全員が、生きている。
「次は黒岩さんですね」
灰垣が、穏やかな声で言った。
誰かが次の人に声をかける。その習慣が、自然と生まれていた。確認し合うことで、ミスを防ぐ。チームワークのようなものが、芽生え始めていた。
「黒岩剛」
俺が指名する。
黒岩が、白岩を指名する。
白岩が、佐藤を指名する。
二周目、三周目、四周目。
時間が過ぎていく。赤いデジタル表示が、少しずつ減っていく。
最初の緊張は、徐々に薄れていった。全員が、自分の順番と次の人の名前を覚えた。声をかけ合い、確認し合いながら、機械的に回し続けた。
「佐藤さん、次は山田さんですよ」
「は、はい。山田太郎さん」
『指名を確認しました』
佐藤の声には、まだ震えがあった。でも、最初に比べれば、ずっと落ち着いている。自信が、少しずつ戻ってきているようだ。
「山田さん、次は園崎さんです」
「うむ。園崎響子さん」
『指名を確認しました』
山田の声は、穏やかだった。
孫に話しかけるような、優しい口調。この老人は、最後まで優しさを失わないのだろう。
「園崎さん、次は杉内さんよ」
「……杉内、杉内真由」
『指名を確認しました』
園崎の声には、まだ不満そうな響きがあった。
でも、協力はしている。それで十分だ。
五周目、六周目、七周目。
気づけば、残り時間は10分を切っていた。
「あと少しだ」
俺は、全員に向かって言った。
「このまま回し続ければ、全員クリアだ」
全員が、頷いた。
疲労の色は見えるが、希望の光も宿っている。あと少しで、この地獄から抜け出せる。
このまま、回し続ければいい。
八周目、九周目——
『残り時間、5分です』
AIの声が、告げた。
あと少し。
あと少しで、全員が生き残れる。
「灰垣さん、次は田中さんです」
「田中健一さん」
『指名を確認しました』
「田中さん、次は楠生さんです」
「楠生蓮」
『指名を確認しました』
俺に戻ってきた。
残り時間は、3分を切っている。
「黒岩剛」
『指名を確認しました』
黒岩から白岩へ。白岩から佐藤へ。
残り2分。
「山田太郎さん」
『指名を確認しました』
残り1分。
「園崎響子さん」
『指名を確認しました』
残り30秒。
「杉内真由さん」
『指名を確認しました』
残り15秒。
杉内が、灰垣を指名しようとした瞬間——
『制限時間終了』
AIの声が、響いた。
『ゲーム1をクリアしました。生存者9名』
静寂が、控室を包んだ。
誰も、すぐには動けなかった。
本当に終わったのか。本当に、生き残れたのか。
そして。
「終わった……」
佐藤が、その場に崩れ落ちた。
膝が床につき、両手を床について、体を支えている。涙が、再び彼女の頬を伝っている。でも今度は、安堵の涙だ。
「助かった……本当に、助かったんだ……」
嗚咽が、彼女の体を震わせていた。
「生き残れた……」
山田が、大きく息を吐いた。
皺だらけの顔に、安堵の表情が浮かんでいる。目尻に、涙が滲んでいた。
「ありがとう……ありがとう……」
園崎は、壁に背中を預けたまま、天井を見上げていた。
何かを噛みしめるように、目を閉じている。唇が、小さく動いていた。祈りの言葉だろうか。
黒岩は、相変わらず無表情だったが、わずかに肩の力が抜けたように見えた。
白岩は、眼鏡をクイッと上げながら、俺の方を見た。
杉内は、小さく息を吐いて、目を伏せた。
灰垣は、穏やかな笑みを浮かべて、周囲を見回していた。
田中は、腕を組んだまま、静かに頷いた。
俺は、床に転がる二つの死体を見つめていた。
田辺と、鈴木。
助けられなかった、二人。
彼らの目は、まだ開いていた。何かを訴えるように、天井を見つめている。
「助けてくれて、ありがとうございます」
佐藤が、俺の方を向いた。
涙で濡れた顔で、必死に笑おうとしている。
「あなたがいなかったら、私たちも……」
「頭が回るのう」
山田が、感心したように言った。
「若いのに、大したもんじゃ。本当に、助かった」
俺は、何も答えなかった。
答える言葉が、見つからなかった。
俺は、二人を救えなかった。ノートを読んでいたのに、最初から動かなかった。様子を見ることを選んだ。その結果、田辺と鈴木は死んだ。
「評価:10点中8点」
白岩が、眼鏡をクイッと上げながら言った。
その目は、俺を真っ直ぐに見つめている。
「判断速度」
8点。
満点じゃない。
「もう少し早ければ、2人とも助かった」
白岩の言葉が、俺の胸に突き刺さった。
分かっている。
俺が最初から動いていれば、田辺も鈴木も死なずに済んだかもしれない。ノートを読んでいたのに、俺は様子を見ることを選んだ。その判断が、二人の命を奪った。
調子に乗った奴から死ぬ。
鈴木がそうだった。余裕をこいて、ギリギリまで待って、結局名前が出てこなくて死んだ。
でも、俺も同じだ。
様子を見よう。まだ動くタイミングじゃない。そう思って、行動を先延ばしにした。その結果、二人が死んだ。
調子に乗っていたのは、俺も同じだったんだ。
「何様だよ」
俺は、白岩を睨みつけた。
苛立ちが、口から出た。自分への苛立ちを、白岩にぶつけている。分かっていても、止められなかった。
「満点じゃないだけ感謝しろ」
白岩が、眼鏡をクイッと上げた。
その顔には、皮肉な笑みが浮かんでいる。
ムカつく奴だ。
でも——白岩の言う通りだった。
俺は、もっと早く動くべきだった。
ノートを読んでいたのに。攻略法を知っていたのに。二人の命を、救えなかった。
「次は、もっと早く動く」
俺は、心の中で誓った。
ポケットの中のノートを、握りしめる。
このノートは、俺に情報を与えてくれる。でも、それを活かすかどうかは、俺次第だ。
情報があっても、行動しなければ意味がない。
田辺と鈴木の死を、無駄にはしない。
次のゲームでは、絶対に——全員を、生き残らせる。
……別に。
あいつらを助けたかったわけじゃない。
生き残る人数が多い方が、俺が生き残る確率も上がる。
9人より7人。7人より5人。人数が減れば減るほど、次に死ぬのが俺である確率が上がっていく。
だから——全員生かす。
俺のために。
俺が生き残るために。
白岩が、俺の方を見ていた。
「……お前、意外と仲間思いだな」
「は? 違う」
俺は、即座に否定した。
「計算だ。生存人数が多い方が、俺の生存率が上がる。それだけだ」
「そうか」
白岩が、眼鏡をクイッと上げた。
その目が、何かを見透かすようだった。
「……なんだよ、その目」
「いや。なかなか面白い奴だと思っただけだ」
ムカつく。
でも——否定はしない。
俺は、仲間思いなんかじゃない。
自分のために動いているだけだ。
床に転がる二つの死体。
田辺の眼鏡が、蛍光灯の光を反射していた。
鈴木の金色のネックレスが、血の気を失った肌の上で、冷たく光っていた。
俺は、その光景を目に焼き付けた。
忘れないために。
同じ過ちを、繰り返さないために。




