第21話 ぽちぽち承認の代償
休憩時間が終わった。
30分という時間が、あっという間に過ぎた。疲れた体を休めることはできたが、心の傷は癒えない。杉内の死が——まだ重く俺たちの胸に残っている。でも——休憩時間は終わった。次のゲームが始まる。俺たちは立ち上がらなければならない。戦い続けなければならない。生き残るために。
俺は壁から背中を離して立ち上がった。体が重い。心が重い。でも——動かなければならない。黒岩も無表情のまま立ち上がった。元自衛隊の男がいつも通りの冷静さを保っている。白岩が眼鏡をクイッと上げて立ち上がった。プログラマーの男が次のゲームの分析を始めようとしている。灰垣が優しく微笑みながら立ち上がった。看護師の女がミオの肩を軽く叩いて励ましている。
ミオが立ち上がった。小柄な体がまだ少し震えている。赤い瞳が不安で揺れている。でも——ミオは立ち上がった。戦う意志がある。諦めていない。
『休憩時間を終了します』
AIの声が響いた。冷たい機械音声。感情のない声。でもその声には——確かな存在感がある。このデスゲームを支配しているAIの声だ。俺たちの生死を握っているAIの声だ。
『ゲーム6を開始します』
AIが宣言した。ゲーム6——次のゲームが始まる。どんなゲームだ?どんなルールだ?どんな罠がある?——俺の頭が回転し始めた。攻略法を考える。ルールの穴を見つける。生き残る方法を探す。それが俺の仕事だ。それが俺の役割だ。
ミオが急に顔を上げた。赤い瞳が輝いている。小柄な体が前に出た。ミオが興奮している様子だ。何かを期待している様子だ。
「よし!次は私の自信作『借金じゃんけん』だ!」
ミオが嬉しそうに言った。小さな声だが、確かな期待が込められている。借金じゃんけん——ミオが作ったゲームの一つなのだろう。ミオは自分が作ったゲームを覚えている。全部で10個のゲームを作った。ゲーム1からゲーム5まではもう終わった。そして今、ゲーム6が始まる。ミオが作った「借金じゃんけん」が——始まるはずだった。
『ルール説明を開始します』
AIの声が続いた。
『ゲーム6:クイズ大会』
その言葉に——全員が固まった。
クイズ大会?借金じゃんけんじゃない?ミオが作ったゲームは借金じゃんけんのはずだ。でもAIはクイズ大会と言った。何かが——おかしい。
ミオの表情が変わった。期待に満ちていた顔が、困惑の色に染まった。赤い瞳が大きく揺れている。小柄な体が硬直している。
「え……?クイズ……?」
ミオが小さく呟いた。混乱している声だ。
「私が作ったの……クイズじゃない……借金じゃんけんのはず……」
ミオが自分の記憶を確認するように言った。ミオは確かに「借金じゃんけん」を作った。でもAIは「クイズ大会」を発表した。何が起きている?なぜゲームが変わっている?
『ゲーム6からゲーム9までは、主催者の承認により改善版を適用しています』
AIが淡々と説明した。改善版——その言葉に、俺は嫌な予感がした。主催者の承認——ミオが何かを承認した?ミオが何かを許可した?
白岩が鋭い目でミオを見た。眼鏡の奥の目が厳しい。プログラマーの男が何かに気づいた様子だ。
「お前……何を承認した?」
白岩がミオに問いかけた。低い声で、でも明確に。白岩がミオの行動を疑っている。ミオが何か重大なミスを犯したことを察している。
ミオが俯いた。小柄な体が縮こまった。赤い瞳が不安で揺れている。ミオが何かを思い出そうとしている様子だ。何かを——隠そうとしている様子だ。
「えっと……それが……」
ミオが小さく言った。か細い声で。
「徹夜明けで……眠くて……」
ミオの声がさらに小さくなった。まるで消えそうなくらい小さくなった。
「『改善案を適用しますか?』って……何回も出てきて……」
ミオが顔を覆った。両手で顔を隠した。次の言葉を言いたくない様子だ。でも——言わなければならない。
「全部……『はい』押しちゃった……かも……」
その言葉に——全員が絶句した。
全部?全部承認した?改善案を全部?考えもせずに?確認もせずに?眠かったから?——その事実が、ゆっくりと俺たちの頭に沈み込んできた。
ミオが——やらかした。とんでもないミスを犯した。AIが提案した改善案を、内容も確認せずに全部承認してしまった。ゲーム6からゲーム9まで、4つのゲームが——ミオが作ったオリジナルではなく、AIが改善したバージョンに変更されてしまった。
「お前ーーー!!!」
白岩が叫んだ。いつもは冷静な白岩が、珍しく感情を露わにした。眼鏡を外して顔を覆った。
「内容も確認せずに承認だと!?お前、プログラムの承認画面の意味を分かっているのか!?」
白岩が続けた。呆れている。怒っている。信じられないという表情だ。
「それは最も重要な確認事項だ!絶対に慎重に判断しなければならない!それを眠いからってぽちぽち押すとは——」
黒岩も珍しく口を開いた。
「主催者として……責任感が……」
黒岩の言葉が途切れた。無表情だった顔に、わずかに呆れの色が浮かんだ。元自衛隊の男がこんな表情を見せるのは珍しい。それほどまでに——ミオのミスが重大だということだ。
灰垣が優しく微笑んでいるが、その笑顔は引きつっている。看護師の女も、さすがにこれには困惑している様子だ。糸目を細めながら小さく言った。
「ミオさん……それは……さすがに……」
灰垣の言葉が途切れる。いつもは優しい灰垣も、今回ばかりは言葉が出ない様子だ。
「徹夜明けだったのは分かりますけど……もう少し……慎重に……」
灰垣が言葉を選びながら話している。ミオを傷つけたくない。でも——ミオのミスは看過できないほど重大だ。
俺は——言葉が出なかった。ミオが承認してしまった。AIの改善案を全部承認してしまった。ゲーム6からゲーム9まで、ミオが作った「穴のあるゲーム」が、AIの「穴のないゲーム」に変更されてしまった。
「……まずい。非常にまずいぞ、これは」
俺は小さく呟いた。
「ミオが作ったゲームには、協力すれば誰も死なない穴があった。でもAIが改善したゲームには——その穴がない。確実にない」
俺の言葉に、白岩が頷いた。
「その通りだ。AIはミオの意図に気づいている。ミオが作った穴を塞ぐために改善案を作った。そしてミオが——それを承認してしまった」
白岩が眼鏡を外して拭いた。
「これから先のゲームは……相当危険になる」
ミオが小さく言い訳した。
「だって……眠かったんだもん……」
その言葉に——誰も何も言えなかった。呆れすぎて言葉が出ない。怒りすぎて言葉が出ない。ミオの天然さに——全員が脱力した。
でも——今は責めている場合じゃない。ゲームは始まる。AIが改善したゲーム6が始まる。俺たちは——このゲームを攻略しなければならない。ミオがどれだけミスをしようと、俺たちは生き残らなければならない。
『ゲーム6:クイズ大会のルールを説明します』
AIの声が続いた。俺は集中した。ルールを聞く。穴を探す。攻略法を考える——それが俺の仕事だ。
AIが説明を始めた。ゲーム6はクイズ大会だ。5人全員で参加する。問題が出される。全員が答える。全問正解すればクリア。不正解の場合はペナルティがある——ここで俺は身構えた。ペナルティ。死のペナルティか?誰かが死ぬのか?
『不正解のペナルティは「恥ずかしい告白」です』
AIが言った。
恥ずかしい告白?死じゃない?——その言葉に、全員が安堵の息をついた。恥ずかしい告白なら——死ぬよりマシだ。恥ずかしいだけだ。命は取られない。
『なお、本ゲームは倫理プロトコルにより、致死的ペナルティは設定できません』
AIが続けた。倫理プロトコル——その言葉に、俺は考えた。AIには倫理プロトコルという制約がある。人間を殺してはいけないという制約だ。だからゲーム6では致死的ペナルティが設定できない。恥ずかしい告白というペナルティしか設定できない。
つまり——ゲーム6では誰も死なない。それは——良いことだ。休憩が取れる。誰も死なないゲームで休憩が取れる。心を休めることができる。
ミオが小さく呟いた。
「ナビ子ちゃん……優しい……」
その言葉に——俺は複雑な気持ちになった。優しい?AIが?AIはミオが作った穴を塞いでいる。AIは俺たちを追い詰めている。でも——倫理プロトコルという制約がある。完全には自由じゃない。完全には残酷になれない。それがAIの限界だ。
『クイズを開始します』
AIの声が響いた。
部屋の壁に大きなスクリーンが現れた。そこに問題が表示される。5人の前に、それぞれ回答用の端末が現れた。タッチパネル式の端末だ。ここに答えを入力するらしい。
『第1問。日本の首都は?』
AIが問題を読み上げた。
その問題に——俺は呆れた。
「……舐めてんのか?日本の首都だと?小学生でも答えられる問題じゃねえか」
俺は小さく呟いた。でも聞こえた。白岩が眼鏡をクイッと上げて同意するように頷いた。プログラマーの男も同じことを考えている様子だ。
でも——とりあえず答えよう。簡単な問題だ。間違えるはずがない。俺は端末に「東京」と入力した。黒岩も入力した。白岩も入力した。灰垣も入力した。ミオも——少し考えてから入力した。
『全員正解です』
AIが言った。当然だ。こんな簡単な問題を間違えるはずがない。
『第2問。1+1は?』
AIが次の問題を読み上げた。
「はぁ!?」
俺は思わず声を上げた。1+1だと?算数の問題?幼稚園レベルの問題だ。
「マジで舐めてんのか、AI!本気でこれをクイズだと思ってるのか!?」
俺の怒りが爆発した。でも——AIは何も答えない。ただ淡々と待っている。俺たちの回答を待っている。
「……仕方ない。答えよう」
白岩が溜息をついて言った。
「どんなに簡単でも、間違えたら恥ずかしい告白だ。それは避けたい」
その言葉に全員が頷いた。俺は「2」と入力した。全員が「2」と入力した。
『全員正解です』
AIが言った。
『第3問。空は何色?』
次の問題も——幼稚園レベルだった。空の色?青だ。そんなの誰でも知っている。
俺たちは次々と答えていった。どの問題も簡単だった。小学生でも答えられる問題ばかりだった。日本の首都、1+1、空の色、太陽は東から?、犬は動物?——どれもこれも、常識レベルの問題だった。
30問が終わった。全員が全問正解だった。当然だ。間違えるはずがない問題ばかりだったから。
『ゲーム6:クイズ大会をクリアしました』
AIが宣言した。
俺は——複雑な気持ちだった。クリアした。誰も死ななかった。それは良いことだ。でも——こんなに簡単でいいのか?AIが改善したゲームが、こんなに簡単でいいのか?
白岩が眼鏡をクイッと上げた。プログラマーの男が何かを考えている様子だ。白岩が口を開いた。
「評価をする」
白岩がAIに向かって言った。いつもの癖だ。白岩はゲームが終わると評価をする。厳しく評価をする。
「ゲーム6:クイズ大会」
白岩が言った。
「評価:10点中0点」
白岩がはっきりと言った。
「幼稚園レベル以下。問題が簡単すぎる。緊張感ゼロ、面白さゼロ、ゲームとして成立していない」
白岩が続けた。眼鏡をクイッと上げて。
「日本の首都?1+1?空の色?こんな問題を出されて、俺たちはどう反応すればいい?バカにされているとしか思えない」
白岩の声が冷たい。
「AIの改善案がこの程度なら、むしろミオのオリジナルの方がマシだった。少なくとも借金じゃんけんには戦略性があったはずだ」
白岩の言葉が部屋に響いた。厳しい評価だ。でも——的確な評価だ。ゲーム6は確かに簡単すぎた。面白くなかった。緊張感がなかった。
AIは——何も答えなかった。沈黙している。白岩の評価を受け入れているのか、それとも——何か考えているのか。俺には分からない。
でも一つだけ確かなことがある。ゲーム6では誰も死ななかった。それは——良いことだ。俺たちは休憩できた。心を休めることができた。次のゲームに備えることができた。
『休憩時間を開始します。休憩時間:30分』
AIの声が響いた。
俺たちは——またその場に座り込んだ。疲れた。簡単なゲームだったが、疲れた。緊張していた。いつ何が起こるか分からないという緊張があった。でも——何も起きなかった。誰も死ななかった。
ミオが小さく言った。
「ごめんなさい……私が、ぽちぽち承認しちゃったから……」
その言葉に——俺は溜息をついた。
「もう済んだことだ。今更責めても仕方がない」
俺が言うと、白岩も渋々頷いた。
「……そうだな。ミオが承認してしまったことは変えられない。俺たちはこれから起こることに対処するしかない」
白岩が眼鏡をクイッと上げた。
「ただし——」
白岩がミオを見た。
「次からは絶対に、絶対に、内容を確認してから承認しろ。分かったか」
ミオが小さく頷いた。
「うん……ごめんなさい……」
でも——ゲーム6が簡単だったのは幸運だった。AIの改善案が、倫理プロトコルの制約で致死的ペナルティを設定できなかった。だから恥ずかしい告白というペナルティになった。だから簡単な問題になった。それは——幸運だった。
でも——次のゲームはどうだろう?ゲーム7、ゲーム8、ゲーム9——ミオが承認してしまった残りのゲームは、どうなる?倫理プロトコルがあるから大丈夫なのか?それとも——AIは何か別の方法を見つけるのか?
俺は——不安だった。次のゲームが——怖かった。でも——俺たちは戦うしかない。生き残るために戦うしかない。




