第17話 間に合わなかった
【残り時間:00:03:00】
残り3分。山田はまだゴールに辿り着いていない。通路の途中、ゴールまであと15メートル。
俺たちはただ待つことしかできない。誰も動けない。全員が迷路の入口を見つめている。誰も喋らず、息を殺して山田の姿を見つめている。
山田の姿がはっきりと見える。一人で、杖をつきながら一歩ずつ、よろめきながら、倒れそうになりながら、でも前に進んでいる。佐藤はもういない。壁に挟まれて死んだ。山田を守るために。
一歩、また一歩。カツン、カツンと杖の音が響く。その音だけがこの静寂を破っている。
「……頑張れ」
ミオが小さく呟いた。赤い瞳が涙で潤んでいる。小柄な体が震えている。
「頑張ってください……」
灰垣も祈るように言った。糸目がわずかに開いている。穏やかな笑顔は消えていた。不安の色が顔に浮かんでいる。
黒岩は無言で拳を握りしめている。元自衛隊の男が何もできずにいる。白岩は眼鏡を外して顔を覆っている。冷静な男が顔を背けている。杉内は壁に背中をつけてじっと見つめている。無口な男が何も言わない。
俺は——俺は何もできない。ただ見ているだけ。山田が必死に進んでいるのをただ見ているだけ。
【残り時間:00:02:00】
残り2分。あと10メートル。
山田が必死に進んでいる。でも遅い。足がもう動かない。完全に限界を超えている。顔は真っ赤で汗が滝のように流れている。呼吸が完全に乱れている。
「はぁ……はぁ……」
山田の息遣いが聞こえる。荒い呼吸、苦しそうな呼吸。心臓に負担がかかっているのだろう。
山田が一歩を踏み出す。杖がカツンと床に当たる。また一歩、カツン。また一歩、カツン。
遅い。でも止まらない。諦めない。
「山田さん!」
俺は叫んだ。
「あと少しだ!見えてるだろ!ゴールが!」
山田が顔を上げた。老人の目が俺たちを捉えた。涙で滲んだ目。でも、諦めの色はない。まだ、戦っている。
俺は、拳を握りしめた。
何かできないか。
何か、方法はないか。
でも——
何もできない。
ルールは、絶対だ。
「ゴールした者は迷路に戻れない」
首輪が、俺たちを縛っている。
【残り時間:00:01:00】
残り1分。
あと8メートル。
「……間に合わない」
白岩が、呟いた。
顔を覆ったまま、動かない。
声が、震えている。
「まだ……まだ時間はある……」
ミオが、震える声で言った。
でも、誰もが分かっている。
間に合わない。
このペースでは、絶対に間に合わない。
俺は、歯を食いしばった。
何もできない。
ただ、見ているだけ。
こんなに近くにいるのに。
手を伸ばしても、届かない。
山田が、進んでいる。
一歩。
カツン。
また一歩。
カツン。
杖の音が、静かに響く。
その音だけが、時間の流れを刻んでいる。
ゴールが、見えている。
白い床。
明るい照明。
あと少し。
あと少しで、辿り着ける。
でも——
【残り時間:00:00:30】
残り30秒。
「山田さん!!」
俺は、絶叫した。
声が枯れそうだ。
でも、叫ぶのを止めない。
「走れ!! もう少しだ!!」
山田が顔を上げた。老人の目が俺を捉えた。涙が頬を伝っている。
「……すまんのう……」
山田の声が、かすかに聞こえた。
「すまんのう……みんな……」
山田が一歩を踏み出す。よろめく。倒れそうになる。杖で支える。必死に支える。
【残り時間:00:00:20】
残り20秒。
あと5メートル。
「山田さん!!」
ミオが泣きながら叫んだ。涙が頬を伝っている。
「あと少し!! あと少しなんです!!」
山田が足を踏み出す。一歩、また一歩。遅い。でも進んでいる。
【残り時間:00:00:10】
10秒。
あと3メートル。
「来い……来い……!」
俺は、拳を握りしめた。
爪が、手のひらに食い込んでいる。
血が滲んでいる。
でも、痛みなんて感じない。
山田が、進んでいる。
一歩。
また一歩。
ゴールが、すぐそこだ。
手を伸ばせば、届く。
【残り時間:00:00:05】
5秒。
あと2メートル。
「山田さん!!」
全員が叫んだ。
【残り時間:00:00:04】
山田が足を踏み出す。
【残り時間:00:00:03】
杖がカツンと床を叩く。
【残り時間:00:00:02】
あと1メートル。
【残り時間:00:00:01】
山田が最後の一歩を——
【残り時間:00:00:00】
ピーーーーーッ!!
耳をつんざくような音が、部屋中に響いた。
時計の数字が、ゼロを示している。
赤い数字が、点滅している。
『タイムアップ』
AIの無機質な声が、響いた。
『制限時間終了。ゴール未到達者:山田太郎』
山田がその場で止まった。ゴールまであと1メートル。手を伸ばせば届く距離。でも止まった。体が動かない。首輪が作動したのだろう。
「あ……」
山田が声にならない声を漏らした。老人の顔が、絶望に歪んでいる。
『参加者番号7:山田太郎。時間切れにより、死亡処理を実行します』
AIの声が、冷酷に響いた。
「山田さん……!」
俺は叫んだ。でも、届かない。何もできない。
「すまんのう……」
山田が、俺たちを見た。涙が頬を伝っている。でも、微笑んでいた。穏やかな微笑み。諦めではない。感謝の微笑みだ。
「楠生さん……みんな……ありがとう……」
山田の声が、震えていた。
「佐藤さんに……会えるかのう……」
その言葉が、俺の胸を貫いた。佐藤。山田を守るために死んだ女の子。今、山田も——
「美月……すまんのう……爺ちゃんは……」
山田の言葉が、途切れた。
ピッ。
小さな電子音。首輪から発せられた音。
山田の体が一瞬硬直した。そして——ドサッ。老人の体が床に倒れた。動かない。もう動かない。
『参加者番号7:山田太郎。死亡確認』
AIの声が、無感情に告げた。
山田太郎が死んだ。
ゴールまであと1メートル。
手を伸ばせば届いた距離。
でも届かなかった。
静寂が訪れた。誰も何も言わない。全員が山田の体を見つめている。
俺は、膝をついた。
力が、抜けていく。
また、救えなかった。
また、目の前で人が死んだ。
「くそ……くそ……!」
俺は、床を殴った。
拳が痛い。
でも、心の痛みの方がずっと強い。
「佐藤さん……山田さん……」
ミオが、泣いていた。
赤い瞳から、涙が止まらない。
小柄な体が、震えている。
「私のせいだ……私がこんなゲームを……」
「違う」
俺は、言った。
拳を握りしめながら。
「お前のせいじゃない」
D-5のトラップで分断されなければ、8人全員で進んでいれば、山田のペースに合わせて全員で進んでいれば——間に合った。間に合ったはずだ。でもそれは「もし」の話だ。現実は違う。現実は佐藤と山田が死んだ。
「俺のせいだ」
俺は、呟いた。
D-5で壁を押さえる判断。
佐藤と山田を後回しにした判断。
あの判断が、二人を殺した。
「違います」
灰垣が、言った。
糸目を細めて、穏やかに。
でも、その声には力がある。
「楠生さんのせいじゃありません。あの状況で、誰も正解なんて分からなかった」
「……」
俺は、何も言えなかった。
灰垣の言葉が、正しいのか分からない。
でも、今は——
俺は、立ち上がった。
足が震えている。
でも、立った。
「……行くぞ」
俺は、言った。
「ゲーム4は終わった。次のゲームが待ってる」
「次……」
ミオが、顔を上げた。
俺は、頷いた。
「ゲーム5がある。まだ終わってない」
俺は、山田の体を見つめた。
老人の顔は、穏やかだった。
苦しんではいない。
安らかな顔だ。
田中。園崎。佐藤。山田。
4人が死んだ。
11人が、7人になった。
半分以上が、まだ生きている。
佐藤と山田が、死んだ。
この迷路で、二人が死んだ。
佐藤は山田を守って、山田はゴール目前で。
俺は、拳を握りしめた。
これ以上、誰も死なせない。
残りの6人を、全員生き残らせる。
そう誓った。
迷路の出口から、新しい通路が見えている。
次のゲームへの道。
俺たちは、そこへ向かう。
ゲーム4:迷路サバイバル。
終了。
生存者:6人。
死亡者:佐藤美咲、山田太郎。




