第15話 D-5トラップ
俺たちは、さらに迷路を進んでいた。
残り時間は、あと30分を切っている。
ゴールは、もうすぐそこのはずだ。
数列トラップを通過してから、俺たちは順調に進んでいた。
トラップはあったが、ノートの情報で回避できた。
全員が、まだ動ける。
でも、疲労は蓄積している。
特に、山田だ。
「はぁ……はぁ……」
山田の息遣いが、どんどん荒くなっている。
杖を突く手が、震えている。
佐藤が、常に山田の腕を支えているが、それでも山田のペースは遅い。
「次は右だ」
俺は、ノートを確認しながら指示を出した。
黒岩が、右の通路に進む。
壁には、「D-4」という文字が刻まれていた。
「あと少しだ」
俺は、全員に向かって言った。
「D-5を通過すれば、ゴールまで一直線だ」
参加者たちの顔に、わずかな安堵の色が浮かんだ。
白岩は、眼鏡を拭きながら、冷静に頷いている。
灰垣は、糸目を細めて笑顔を見せている。
杉内は、無言だが、無事だ。
ミオは、赤い瞳を不安そうに揺らしながら、俺の後ろをついてきている。
でも、油断はできない。
ノートには、D-5に最大のトラップがあると書いてあった。
「壁が動く。2人以上で押さえること」とだけ書いてある。
詳細は不明だ。
次の角を曲がると、目の前に巨大な通路が現れた。
幅5メートル、高さ3メートルほどの広い空間。
今までの通路とは、明らかに違う。
右側の壁には、巨大な石の板が埋め込まれている。
灰色の石。表面には、無数の傷が刻まれている。
何度も動いた痕だろうか。
不気味な静けさ。
空気が、重い。
「待て」
黒岩が、手を上げた。
全員が、一斉に足を止める。
「これは……」
黒岩が、壁を指差した。
よく見ると、壁の石板には、溝のような線が刻まれている。
壁と石板の間に、わずかな隙間がある。
可動式だ。
「動くのか」
白岩が、眼鏡をクイッと上げた。
しゃがみ込んで、壁を観察している。
「恐らく、何かのトリガーで壁が動く。そして——」
白岩が、床を指差した。
床にも、溝がある。
レールのような溝。壁が移動するためのレールだ。
右から左へ、通路を横断するように伸びている。
「壁が閉まって、通路を塞ぐ」
俺は、言った。
ノートに書いてあった通りだ。
D-5トラップ。壁が動くトラップ。
2人以上で押さえなければ、通過できない。
「どうやって通過する」
白岩が、聞いた。
眼鏡の奥の目が、真剣だ。
「2人以上で押さえる」
俺は、ノートを確認しながら言った。
ノートには、「2人以上で押さえること」とだけ書いてある。
詳細は不明だ。実際にやってみなければ、分からない。
「壁を押さえている間に、他のメンバーが通過する」
「2人だけで、壁を押さえられるのか」
白岩が、疑わしそうに言った。
壁を見上げている。高さ3メートル、幅5メートル。
相当な重さだろう。
「試してみるしかない」
俺は、ノートをポケットにしまった。
他に方法はない。
「黒岩、俺と一緒に壁を押さえる。お前ら、俺たちが壁を押さえている間に通過しろ」
「了解」
黒岩が、頷いた。
元自衛隊の男。体力には自信があるはずだ。
俺と黒岩は、石板の前に並んで立った。
壁の石板に、手を当てる。
冷たい感触。ザラザラとした表面。重そうだ。
石の匂いが、鼻をつく。
「行くぞ」
俺が、通路に足を踏み入れた。
その瞬間——
カチッ。
小さな音がした。
床の圧力センサーが、反応したのだろう。
ゴゴゴゴゴ……
地響きのような音が、響いた。
壁が、動き始めた。
ゆっくりと、確実に、通路を塞ぐように左へ迫ってくる。
石板が、レールの上を滑るような音。
ガリガリと、不気味な音を立てている。
「押さえろ!」
俺は、壁に体重をかけた。
全身の力を込めて、壁を押し戻す。
黒岩も、隣で壁を押している。
壁の動きが、少し遅くなった。
でも、完全には止まらない。
ゆっくりと、じわじわと、壁は迫ってくる。
力を込めれば込めるほど、腕に負荷がかかる。
筋肉が悲鳴を上げている。
「早く通過しろ!」
俺は、叫んだ。
このままでは、腕が持たない。
「白岩、お前が最初だ!」
「了解」
白岩が、走り出した。
眼鏡を押さえながら、全速力で。
俺と黒岩が押さえている壁の間を、素早くすり抜ける。
壁の隙間は、まだ1メートルほどある。
白岩の細い体が、余裕で通過する。
無事に反対側に到達した。
「次、灰垣!」
「はい!」
灰垣が、走った。
糸目を細めて、笑顔のまま。
穏やかな表情で、壁の間を走り抜ける。
壁の間を、軽々と通過する。
あの穏やかな見た目からは想像できない身軽さだ。
「杉内!」
杉内が、無言で走った。
細い体が、壁の間をすり抜ける。
足音だけが、通路に響いた。
「ミオ!」
「は、はい!」
ミオが、走り出した。
小柄な体が、必死に走っている。
黒赤のウルフカットが、風に揺れている。
赤い瞳が、恐怖で揺れている。
ミオが、壁の間に差し掛かった。
壁の隙間は、もう80センチほどしかない。
壁が、じわじわと迫っている。
ガリガリと、石が擦れる音が響いている。
「急げ!」
俺は、叫んだ。
腕が限界だ。もう持たない。
ミオが、最後の力を振り絞って走った。
小柄な体が、全速力で駆け抜ける。
壁の間を、ギリギリですり抜ける。
黒いパーカーの袖が、壁にこすれた。
ビリッ、と布が裂ける音がした。
無事に反対側に到達した。
「はぁ……はぁ……」
ミオが、床に座り込んで、息を切らしている。
赤い瞳が、涙で潤んでいた。
怖かったのだろう。
小さな体が、震えている。
「大丈夫か」
白岩が、ミオに声をかけた。
「だ、大丈夫……多分……」
ミオが、震える声で答えた。
まだ、恐怖が残っているようだ。
「次、佐藤と山田!」
俺は、叫んだ。
「佐藤!山田さんを支えて、急げ!」
「分かりました!」
佐藤が、山田の腕を取った。
必死に、山田を支えている。
佐藤の目には、涙が浮かんでいた。
山田を失いたくない。その思いが、佐藤を突き動かしている。
「山田さん、急ぎましょう!私、山田さんを失いたくないんです!」
佐藤が、山田を引っ張っている。
必死に、必死に。
でも、山田の足は重い。
もう、動かない。
「すまんのう……」
山田が、杖を突きながら歩き始めた。
一歩、また一歩。
でも、遅い。
あまりにも遅い。
老人の足は、もう限界だった。
顔は真っ赤で、汗が止まらない。
呼吸が、完全に乱れている。
心臓に、負担がかかっているのだろう。
壁の圧力が、強くなってきた。
俺の腕が、震えている。
筋肉が、悲鳴を上げている。
もう、限界が近い。
黒岩も、歯を食いしばって壁を押さえている。
額に、汗が滲んでいる。
「限界が近い……!」
俺は、叫んだ。
腕が、今にも折れそうだ。
壁の重さが、どんどん増していく。
「山田さん、急いで!あと少しなんです!」
佐藤が、悲鳴のような声を上げた。
山田の腕を引っ張っているが、山田の足が動かない。
「はぁ……はぁ……すまん……もう……」
山田が、立ち止まった。
杖にもたれかかって、動けなくなっている。
顔は真っ赤で、汗が滝のように流れている。
呼吸が、完全に乱れている。
「山田さん!」
佐藤が、悲鳴を上げた。
山田の肩を揺さぶっている。
「お願いです!あと少しなんです!あと少しだけ!」
「すまんのう……足が……もう……動かん……」
山田の声が、震えている。
老人の体力は、完全に尽きていた。
70歳を超えた体に、この迷路は過酷すぎた。
「限界です……!」
黒岩が、叫んだ。
声に、苦痛が滲んでいる。
「もう、押さえられません……!」
黒岩の腕が、限界に達している。
元自衛隊の体力でも、この重さは限界だ。
両腕が、ブルブルと震えている。
壁が、さらに迫ってくる。
じわじわと、容赦なく。
もう、隙間は50センチもない。
「佐藤!山田!早く!」
俺は、必死に叫んだ。
でも、山田は動けない。
床にへたり込んでいる。
「クズオさん!」
白岩が、壁の向こうから叫んだ。
眼鏡の奥の目が、焦っている。
「あなたたちも早く!壁が閉まります!」
「駄目だ!山田が……!」
俺は、歯を食いしばった。
壁の圧力が、どんどん強くなる。
腕が悲鳴を上げている。
もう、これ以上は無理だ。
「楠生さん!」
灰垣が、壁の向こうから叫んだ。
糸目が開いている。珍しい。
「私も押さえます!」
「駄目だ!」
俺は、叫んだ。
「壁に挟まれる!戻るな!」
でも、壁はもう限界だ。
俺と黒岩だけでは、もう押さえられない。
隙間は、もう30センチほどしかない。
人一人、通れるかどうかという幅だ。
「もう……無理だ……!」
黒岩が、壁から手を離した。
限界だった。
腕が、完全に力を失っている。
俺も、壁から手を離す。
腕が痺れている。力が入らない。
その瞬間——
ゴゴゴゴゴ……
壁が、一気に閉まり始めた。
止められない。
加速していく。
凄まじい速さで、壁が迫ってくる。
「佐藤!山田!早く!」
俺は、叫んだ。
最後の希望を込めて。
でも、声は虚しく響くだけだ。
「山田さん!」
佐藤が、山田の腕を引っ張った。
必死に、必死に。
でも、間に合わない。
壁の隙間は、もう30センチほどしかない。
「すまんのう……佐藤さん……もう、ワシは……」
山田の声が、震えていた。
諦めの色が、浮かんでいる。
「いやです!山田さん!」
佐藤が、泣きながら叫んだ。
その瞬間——
佐藤が、山田を後ろへ突き飛ばした。
全力で。
渾身の力を込めて。
「えっ——」
山田の体が、後ろへよろめいた。
壁から離れた場所——通路の奥へ倒れ込む。
「佐藤さん!」
山田が、顔を上げた。
壁との隙間に、佐藤が立っている。
隙間は、もう人が通れる幅じゃない。
「山田さん……生きて……」
佐藤が、微笑んだ。
涙を流しながら、穏やかに微笑んだ。
「佐藤!」
俺は、叫んだ。
手を伸ばした。
でも、届かない。壁がある。
壁が、完全に閉まった。
グシャッ……
嫌な音が、響いた。
骨が砕ける音。肉が潰れる音。
壁と壁の間に、佐藤が——
「佐藤さん……! 佐藤さん……!」
山田が、壁の向こう側から叫んでいる。
杖を落として、壁を叩いている。
しわくちゃの手で、石の壁を叩いている。
返事はない。
もう、返事はない。
『参加者番号6:佐藤美咲。死亡』
AIの無機質な声が、響いた。
「嘘じゃ……嘘じゃ……佐藤さん……なんで……ワシなんかを……」
山田の声が、壁越しに聞こえた。崩れ落ちる音がした。
壁の向こうで、70歳の老人が泣いている。
佐藤美咲。22歳。看護師。
いつも山田のそばにいて、山田を支えていた。
優しい女の子だった。
人の命を救いたいと言っていた。
——山田を、救った。自分の命と引き換えに。
「くそ……」
俺は、拳を壁にぶつけた。
痛い。でも、心の痛みの方がずっと強い。
また、救えなかった。また、目の前で人が死んだ。
「山田さん!」
俺は、壁に向かって叫んだ。
「聞こえるか!」
「……聞こえる……」
山田の声が、壁越しにかすかに聞こえた。
「佐藤さんが……ワシを……ワシなんかを……」
山田が、嗚咽を漏らしている。
「佐藤さんの犠牲を無駄にするな!」
俺は、叫んだ。
「生き残れ!時間内にゴールしろ!」
壁の向こうから、しばらく返事がなかった。
でも、やがて——杖を拾う音が聞こえた。
「……すまんのう……みんな……」
山田の声が、震えている。
「A-7に迂回路がある!」
俺は、壁に向かって叫んだ。
D-5で壁に阻まれた場合、A-7から迂回できる。
距離は長いが、トラップがない安全なルート。
「そっちから回ってくれ!俺たちはゴールで待つ!」
「……分かった」
山田の声が、壁越しに聞こえた。
弱々しいが、意志のある声だ。
「必ず……ゴールで……」
「ああ。待ってる」
壁の向こうで、足音が遠ざかっていく。
山田が、迂回路へ向かっている。一人で。
佐藤がいない。もう、支えてくれる人がいない。
杖だけを頼りに、一歩ずつ。
俺は、壁に背中をつけた。
佐藤が死んだ。山田は一人で迂回路へ向かった。
7人が、6人と1人に分かれた。
こんなことになるとは、思わなかった。
「大丈夫か」
黒岩が、俺の隣に立った。
腕をさすっている。壁を押さえていた腕が、痛むのだろう。
「ああ」
俺は、頷いた。
気持ちを切り替える。今は、前に進むしかない。
「A-7の迂回路なら、ゴールまで行ける。時間はかかるが……」
ノートに書いてあった。
A-7の迂回路は、距離は長いが、トラップがない。
ゆっくり進めば、老人でも通過できる。
——はずだ。
佐藤がいない。支えてくれる人がいない。
70歳の足で、一人で、間に合うのか。
「行くぞ」
俺は、立ち上がった。
腕の痛みは、まだ残っているが、動ける。
黒岩も、腕をさすりながら立ち上がった。
「俺たちは、ゴールで待つ」
6人で、ゴールを目指す。
クズオ、黒岩、白岩、灰垣、杉内、ミオ。
白岩は、眼鏡を拭きながら、冷静に状況を分析している。
灰垣は、糸目を細めて、笑顔を保っている。でも、その笑顔は少し固い。
杉内は、相変わらず無口だが、前を向いて立っている。
ミオは、赤い瞳を潤ませて、俯いている。
佐藤が死んだ。山田は、一人で迂回路を来る。
全員で、ゴールで合流する。
——できるのか。
俺は、走りながら考えていた。
山田は70歳だ。佐藤がいない。支えてくれる人がいない。
迂回路は長い。一人で、間に合うのか。
「楠生さん」
白岩が、横から声をかけてきた。
走りながら、眼鏡をクイッと上げている。
「山田さんは、大丈夫でしょうか」
「……分からない」
俺は、正直に答えた。
「迂回路にはトラップがない。ゆっくり進めば、ゴールに着ける。でも——」
「時間内に、間に合うかどうか」
白岩が、俺の言葉を継いだ。
「佐藤さんがいれば、支えられた。でも、一人では……」
「……ああ」
俺は、頷いた。
佐藤の犠牲。山田を押し出して、自分は壁に——。
その犠牲を、無駄にしてはいけない。
残り時間はあと20分。ゴールまでもうすぐだ。迷路の出口が見えてきた。光が差し込んでいる。
でも胸の奥に不安が残っている。山田は間に合うのか。迂回路は長い。70歳の足で、一人で、間に合うのか。
田中のように。園崎のように。佐藤のように。また誰かが死ぬのか。
俺は歯を食いしばった。答えを見つけなければならない。全員で生き残る答えを。




