第10話 自己犠牲という名の敗北
『着席を確認します』
AIの声が、部屋に響いた。
冷たい、機械的な声。感情のない声が、俺たちの運命を告げようとしている。
俺は、田中を見つめていた。
田中は、椅子から数メートル離れた場所で、静かに立っている。
腕を組んで、俺を見つめている。
椅子に座る気がない。座ろうとしていない。
なぜだ。なぜ座らない。
「待て! 二人で座れるんだ!」
俺は、叫んだ。
声が裏返っていた。心臓が、激しく鼓動している。
「なんで座らねえんだよ! 二人で座れるって言っただろ!」
俺の声が、部屋中に響いた。
他の参加者たちが、俺と田中を見ている。
黒岩と白岩は、一つの椅子に座ったまま、この状況を見守っている。
灰垣と杉内、佐藤と山田も、それぞれの椅子で固まっている。
全員の視線が、俺と田中に集中していた。
田中は、俺を見つめていた。
その目には、悲しみと決意が混在している。後悔はない。迷いもない。
「若い奴が、生き残れ」
田中の声は、穏やかだった。
まるで、子供を諭すような声だった。
「お前には、まだ未来がある。俺は、もう四十を過ぎた。十分に生きた」
「そういう問題じゃねえ!」
俺は、田中に向かって歩き出した。
腕を掴んで、椅子に引きずっていこうとした。
「二人で座れたんだ! 誰も死ななくて済んだんだ!」
田中は、俺の手を振り払った。
静かに、でも確実に。
「家族がいるんだ、山田さんには」
田中が、言った。
山田の方を見ながら。
「孫がいるって言ってた。孫の顔が見たいって。俺は——」
田中は、俺に向き直った。
「俺は独り身だ。妻も子供もいない。俺が死んでも、誰も悲しまない」
「そんなの——」
俺の声が、詰まった。
田中の目を見ていると、何も言えなくなった。
その目には、覚悟があった。揺るがない、確固たる覚悟が。
「さっき、家族がいるって言っただろ」
俺は、絞り出すように言った。
以前、田中は俺に言った。妻と子供が二人いる、と。家族のために生き残る、と。
あの言葉は、嘘だったのか。
「妻と子供が二人いるって。家族のために生き残るって——」
「嘘だ」
田中が、静かに言った。
その声に、後悔はなかった。
「嘘をついた。お前に信用してもらうために。家族がいる人間の方が、必死に生き残ろうとするだろう。お前も、そういう人間を信用するだろうと思った」
「……」
俺は、言葉を失った。
田中は、最初から俺を騙していた。家族がいるという話は、嘘だった。
俺に協力してもらうための、方便だった。
でも——それなら、なぜ今、死のうとしている。
協力を得るために嘘をついたのなら、生き残ろうとするはずだ。
「悪かったな」
田中が、微かに笑った。
「でも、お前の案は正しかった。あのまま全員が自分に投票していれば、誰も死なずに済んだ。お前は、頭が回る」
「だったら——」
俺は、田中に手を伸ばした。
「だったら、お前も生き残れよ! 椅子に座れ! 二人で座れるんだ!」
田中は、一歩後ろに下がった。
俺の手が、空を切った。
『着席確認完了』
AIの声が、響いた。
『椅子1:黒岩剛、白岩拓海。着席確認』
『椅子2:灰垣アヤ、杉内真由。着席確認』
『椅子3:佐藤美咲、山田太郎。着席確認』
『椅子4:楠生蓮。着席確認』
俺の名前だけが、単独で呼ばれた。
田中の名前は、呼ばれなかった。
『未着席者:田中健一』
AIの声が、淡々と告げた。
『田中健一は、椅子に座っていません。処刑対象です』
処刑対象。
その言葉が、俺の胸に突き刺さった。
「田中!」
俺は、叫んだ。
「まだ間に合う! 俺の椅子に座れ! 二人で——」
「楠生」
田中が、俺の言葉を遮った。
静かな声だった。
「若いの、あんたは頭が回る」
田中は、俺を真っ直ぐに見つめていた。
その目には、信頼の色が浮かんでいた。
「最後まで、生き残れよ」
「田中——」
「他の奴らのこと、頼んだぞ」
田中が、微かに笑った。
穏やかな、諦めの笑みだった。
『処刑を実行します』
AIの声が、冷たく響いた。
田中の首輪が、赤く光り始めた。
ピピピピピ——
電子音が、部屋に響く。
「田中!」
俺は、田中に向かって走り出した。
首輪を外そうとした。手で掴んで、引きちぎろうとした。
だが、首輪は外れない。金属の冷たさが、俺の手のひらに伝わってくる。
「無駄だ」
田中が、穏やかに言った。
「ありがとな、楠生。あんたのおかげで、俺も少しは役に立てた」
「何言ってんだ——」
俺の声が、震えていた。
「お前は死ぬ必要なかったんだ! 二人で座れたんだ!」
田中は、何も答えなかった。
ただ、穏やかな目で俺を見つめていた。
首輪の光が、さらに強くなった。
ピーーーーー——
長い電子音が、部屋に響く。
そして——
首輪から、複数の針が射出された。
細い、銀色の針。致死量の毒が仕込まれているのか、それとも神経を麻痺させる薬物か。
田中の首筋に、針が突き刺さる。
ぷすっ、という小さな音が聞こえた気がした。
「……」
田中の体が、硬直した。
目が、大きく見開かれる。
体が、わずかに震えた。
そして——
田中は、その場に崩れ落ちた。
ドサリ、という重い音が、部屋に響いた。
俺の目の前で、田中が倒れた。
目は開いたまま。口は、わずかに開いている。
穏やかな表情のまま、動かなくなった。
さっきまで話していた男が、物体に変わった瞬間。
田辺の時も、鈴木の時も、園崎の時も見た。
でも、田中の死は、違った。
田中は、俺を信頼してくれた。俺と協力しようとしてくれた。
なのに——
「田中……」
俺は、田中の死体を見つめていた。
膝をついて、田中の顔を覗き込んだ。
もう、何も見えていない。もう、何も聞こえていない。
さっきまで、俺と話していた。さっきまで、俺に笑いかけていた。
それが、もういない。
「なんでだよ……」
俺の声が、震えていた。
喉が締め付けられるように痛い。
「攻略法を教えたのに……二人で座れたのに……」
涙が、頬を伝っていた。
いつの間にか、泣いていた。
借金まみれのクズが、他人のために泣いている。
自分でも、おかしいと思った。でも、涙は止まらなかった。
「なんで、死ぬ方を選ぶんだよ……」
誰も、答えなかった。
田中は、もう答えられない。
永遠に、答えられない。
俺は、拳を床に叩きつけた。
ゴッ、という鈍い音が響いた。
痛みが、手のひらに走った。
皮膚が裂けて、血が滲んだ。
でも、心の痛みには及ばない。
体の痛みなんて、田中を失った痛みに比べれば、何でもない。
「くそ……くそっ……」
俺は、床に伏せたまま、呻いていた。
攻略法はあった。全員が助かる方法はあった。
なのに、田中は死んだ。
自分から、死を選んだ。
「自己犠牲、か」
白岩の声が、聞こえた。
俺の隣に、白岩が立っていた。
眼鏡をクイッと上げながら、田中の死体を見下ろしている。
「田中さんは、自分の命を捨てて、山田さんを救おうとした。二人で一脚に座れば全員助かると分かっていながら、あえて座らなかった」
白岩の声は、相変わらず冷静だった。
感情を排除した、分析の声。
「山田さんは高齢だ。体力も衰えている。次のゲームで、生き残れるかどうか分からない。田中さんは、それを考えたんだろう。自分が死ねば、山田さんが確実に1ゲーム生き延びられる、と」
「分かってる……」
俺は、顔を上げた。
白岩を見上げながら、言った。
「分かってるんだよ……田中の考えは、理解できる……でも……」
でも、納得できない。
田中は、死ぬ必要がなかった。全員助かる方法があったのに、わざわざ死を選んだ。
「作戦は正しかったです」
黒岩が、俺の反対側に立っていた。
無表情だが、その声にはわずかな感情が混じっている。
黒岩なりの、慰めなのかもしれない。
「楠生さんの作戦は、完璧でした。二人で一脚に座れば、全員助かった。田中さんが従わなかっただけです。楠生さんのせいではありません」
「……ああ」
俺は、頷いた。
黒岩の言う通りだ。作戦は正しかった。全員が二人で一脚に座れば、全員助かった。
田中が、従わなかった。
田中が、自分から死を選んだ。
俺のせいじゃない。俺は、全員を救おうとした。
でも——それでも、田中は死んだ。
「攻略法があっても、人の意思は変えられない」
白岩が、眼鏡をクイッと上げながら言った。
冷静な、分析の声。でも、そこにわずかな感情が滲んでいるように聞こえた。
「お前は、『助ける』ことはできる。攻略法を教えて、全員が助かる方法を提示することはできる。でも、『従わせる』ことはできない。他人の決断を、強制することはできない」
「……」
俺は、何も答えられなかった。
白岩の言葉は、正しい。
俺は、攻略法を教えることはできる。全員が助かる方法を、提示することはできる。
でも、それに従うかどうかは、本人の意思だ。
俺には、強制する力がない。
園崎は、俺の案に従わなかった。自分に投票せず、俺に投票した。結果、死んだ。
田中は、俺の案に従った。二人で一脚に座れば全員助かると、理解していた。
でも、従わなかった。自分の意思で、死を選んだ。
園崎と田中。二人とも、俺の攻略法に従わなかった。
でも、理由は全く違う。
園崎は、俺を信用しなかった。俺の案を、疑った。
田中は、俺を信用していた。俺の案が正しいと、分かっていた。
それでも、従わなかった。自分よりも、他人を優先した。
「自己犠牲という名の敗北、か」
俺は、呟いた。
「田中は、自分が負けることで、山田を救おうとした。でも、それは——」
俺は、言葉に詰まった。
それは、敗北だ。全員が助かる方法があったのに、あえて一人だけ死ぬ方を選んだ。
美しい選択かもしれない。尊い選択かもしれない。
でも、俺には——敗北にしか見えない。
「田中さん……」
佐藤の声が、聞こえた。
佐藤は、灰垣に支えられながら、田中の死体を見つめていた。
涙が、頬を伝っている。顔がくしゃくしゃに歪んでいる。
「なんで……なんで死んじゃったの……」
佐藤の声は、悲鳴に近かった。
灰垣が、佐藤を抱きしめている。「大丈夫、大丈夫」と、優しく言いながら。
でも、灰垣の目にも、涙が光っていた。
山田は、椅子に座ったまま動けなくなっていた。
田中が、自分のために死んだ。その事実が、山田を打ちのめしている。
皺だらけの顔に、涙が伝っていた。
両手で顔を覆って、肩を震わせている。
「田中さん……わしのために……」
山田の声は、か細かった。
嗚咽で、声が途切れ途切れになっている。
「なんで……なんでじゃ……わしのような老いぼれのために……」
山田は、自分を責めていた。
田中が死んだのは、自分のせいだ、と。
俺は、山田に声をかけようとした。でも、何を言えばいいか分からなかった。
田中は、山田を救うために死んだ。それは事実だ。
でも、山田のせいじゃない。田中が、自分で選んだんだ。
杉内は、壁に寄りかかって、無言で震えていた。
園崎の死に続いて、田中の死。
彼女の精神は、限界に近いのかもしれない。
目は虚ろで、焦点が合っていない。現実を、受け入れられないでいるようだった。
『ゲーム3終了。生存者7名』
AIの声が、部屋に響いた。
『休憩時間を開始します。休憩時間は30分です』
休憩時間。
また、30分の休憩が与えられる。
その間に、次のゲームの準備をしなければならない。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
膝が、震えていた。
田中の死体を、見下ろした。
穏やかな表情のまま、横たわっている。
「次は……」
俺は、呟いた。
声が、まだ震えていた。でも、決意は固まっていた。
「次は、もっと強く説得する」
白岩が、俺を見た。
眼鏡の奥の目が、俺を観察している。
「強く説得しても、従わない奴は従わない。田中さんがいい例だ」
「それでも」
俺は、白岩を見つめた。
目を逸らさずに、はっきりと言った。
「死なせない。もう、誰も死なせない」
田辺、鈴木、園崎、田中。
四人が死んだ。
田辺と鈴木は、俺が介入する前に死んだ。仕方なかった。
園崎は、俺の案に従わなかった。自業自得だ。
でも、田中は違う。田中は、俺を信頼してくれた。俺の案に賛成してくれた。
なのに、死んだ。自分から、死を選んだ。
それが、悔しい。それが、許せない。
「次のゲームでは、全員を救う」
俺は、言った。
「田中のような犠牲は、二度と出さない」
白岩は、何も言わなかった。
ただ、俺を見つめていた。
その目に、何が映っているのか。分からない。
賛同か。諦めか。それとも、別の何かか。
俺は、ポケットからノートを取り出した。
次のゲームの情報を、確認する。
田辺、鈴木、園崎、田中。
四人が死んだ。残りは、七人。
俺、黒岩、白岩、佐藤、山田、杉内、灰垣。
まだ、ゲームは続く。
まだ、死は終わらない。
でも——
もう、誰も死なせない。
次のゲームでは、全員を救う。
田中のような犠牲は、二度と出さない。
俺は、ノートのページをめくった。
ゲーム4:迷路サバイバル。
次の戦いが、始まろうとしていた。




