影の令嬢は、氷血公爵の"宝石"となる
アレクシス殿下の高らかな声が、シャンデリアの輝きを弾いてホールに響き渡る。
「エリアーナ・フォン・クライネルト! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
(来た。……とうとう、来たわね、この日が)
わたくしは、床に視線を落としたまま、静かにその言葉を受け止めた。
長い銀髪がさらりと頬を撫で、表情を隠してくれる。いつもかけている度の強い眼鏡のせいで、周囲の嘲笑うような視線も、少しだけぼやけて見えた。
(いや、ぼやけていても分かるわ。あの宰相の息子、口が耳まで裂けそうじゃないの。そんなに面白い? 人の不幸は蜜の味ってやつかしら。だとしたら今日のこの場は、あなたにとって最高級の蜂蜜でしょうね。糖尿病にならないよう、お気をつけあそばせ)
「エリアーナ! 聞いているのか!」
金切り声に近い殿下の声に、わたくしはゆっくりと顔を上げた。
目の前には、金色の髪を輝かせ、正義の執行者を気取ったわたくしの婚約者――いえ、〝元〟婚約者、アレクシス第二王子殿下。
その腕の中には、可憐な小鳥のように震えるイザベラ男爵令嬢が抱かれている。桜色の髪に、潤んだ大きな瞳。誰もが守ってあげたくなるような、完璧なヒロインだ。
(それに比べてわたくしは、陰気で地味な〝影の令嬢〟。悪役にふさわしい配役ってわけね。ご丁寧にありがとう)
「……殿下。婚約破棄の理由を、お聞かせ願えますでしょうか」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦だった。
殿下は、まるで汚物でも見るかのような目でわたくしを睨みつけ、イザベラの肩をさらに強く抱きしめた。
「理由だと? よくもそんなことが言えたものだ! 貴様はこのか弱きイザベラに嫉妬し、彼女のドレスを切り刻み、階段から突き落とそうとした! その罪、万死に値する!」
(万死。ずいぶん大きく出たわね。わたくし、いつの間にそんな大悪党になったのかしら。だいたい、このわたくしが、この運動音痴で、針を持つより本を読んでいたいわたくしが、そんなアクロバティックな嫌がらせをできるとでも? 少し考えれば分かるでしょうに)
イザベラ嬢が、殿下の胸に顔をうずめてしゃくり上げる。
「うっ……わたくし、何もしていないのに……エリアーナ様、どうして……」
(あら、見事な演技。アカデミー賞主演女優賞を差し上げたいわ。涙のタイミングも完璧よ。でもね、イザベラ嬢。あなたが自分でドレスの裾を少しだけ切り裂いて、わざと階段の一番下で大げさに転んで見せたこと、わたくし、知っているのよ。あなたの侍女が、わたくしの侍女にこっそり自慢していたから)
だが、そんな真実を誰が信じるだろうか。
皆が信じたいのは、「可憐な少女を虐げる、嫉妬に狂った悪役令嬢」という分かりやすい物語だ。
わたくしの父、クライネルト伯爵が青い顔で一歩前に出る。
「殿下! な、何かの間違いでは! 娘のエリアーナが、そのようなことをするはずが……」
「黙れ、伯爵!」
アレクシス殿下は一喝する。
「これが証拠だ!」
殿下が合図をすると、衛兵が銀の盆に乗せたものを運んできた。
それは、小さなハサミ。そして、イザベラ嬢のドレスと同じ桜色の布の切れ端。
「貴様の部屋から出てきたものだ。これでもまだ、しらを切るつもりか!」
(……ああ、やっぱり。あのハサミ、わたくしが刺繍の糸を切るために使っていたものだわ。先日なくなったと思ったら、こんなところにあったのね。ご丁寧にどうも。用意周到なことで)
言い訳は、もはや意味をなさない。
父は顔面蒼白になり、母は扇で顔を覆って小さく嗚咽を漏らしている。
彼らが心配しているのは、わたくしの身ではない。このスキャンダルによってクライネルト家が被るであろう不利益だけだ。
わたくしは、ずっと前から知っていた。
この家には、わたくしの居場所なんて、どこにもないのだと。
(いいわ。もう、どうでもいい)
諦めが、氷のように心を覆っていく。
もう疲れた。
愛されようと努力するのも。
期待に応えようと頑張るのも。
〝影の令嬢〟と囁かれ、存在しないかのように扱われる日々に、耐えるのも。
「……何か言うことはないのか、エリアーナ」
殿下の声には、勝利を確信した者の傲慢さが滲んでいた。
わたくしは、眼鏡の奥から、静かに彼を見つめ返した。
そして、ゆっくりと口を開く。
「ございません。殿下のお望み通り、この婚約、謹んでお受けいたします」
(さあ、好きなだけやればいいわ。断罪でも追放でも、何でもしてちょうだい。これ以上、あなたたちの茶番に付き合うのは、時間の無駄だから)
わたくしのあっさりとした返答が意外だったのか、ホールがわずかにどよめいた。
アレクシス殿下も一瞬目を見開いたが、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「ふん、罪を認めたと見えるな。よかろう! エリアーナ・フォン・クライネルトは、本日をもって王家との関わりを一切禁ずる! 修道院へ入り、その罪を生涯かけて償うがいい!」
修道院。
それは、貴族社会からの完全な追放を意味する。
父と母が、息を呑むのが分かった。
(修道院、ね。まあ、静かでいいかもしれないわ。面倒な社交も、陰口も、作り笑いもない世界。本がたくさん読めるなら、それも悪くない)
わたくしが、すべてを受け入れて頭を下げようとした、その時だった。
「――実に、面白い」
低く、静かで、それでいてホール中の誰もが聞き逃すことのできない声が、響き渡った。
その声は、すべてのざわめきを、まるで氷で凍らせるかのように一瞬で静まらせた。
皆の視線が、声の主へと注がれる。
玉座の脇、一段高い貴賓席。
そこに、一人の男が足を組んで座っていた。
夜の闇を溶かしたような漆黒の髪。血のように赤い瞳。彫刻のように整った顔立ちは、人間離れした美しさをたたえているが、その瞳は絶対零度の光を宿し、誰も寄せ付けない。
ゼノン・ド・ヴァルキュリアス公爵。
王弟にして、この国最強の魔導師。
その冷酷無比な性格から、〝氷血公爵〟と畏れられる人物。
(……なぜ、この方がここに? 確か、領地の視察で王都を離れていたはずでは)
ゼノン公爵が、ゆっくりと立ち上がる。
その場の空気が、張り詰めていくのが肌で感じられた。
アレクシス殿下でさえ、その威圧感に顔をこわばらせている。
「こ、公爵閣下……い、いつの間にご帰還を……」
公爵は、殿下の言葉など聞こえていないかのように、その赤い瞳で、まっすぐにわたくしを見つめていた。
まるで、魂の奥底まで見透かすような、鋭い視線。
わたくしは思わず身を縮こませた。
(な、なんなの……? わたくし、何かしたかしら? いえ、この方とはほとんど面識もないはず。いつも遠くから、その氷のような美貌を拝見するだけだったのに)
公爵は、優雅な足取りで階段を降り、わたくしたちの方へ歩いてくる。
コツ、コツ、と大理石の床を鳴らす彼の靴音だけが、不気味に響いた。
そして、わたくしの目の前で、ぴたりと足を止める。
見上げるほどの長身。その影に、完全に飲み込まれてしまう。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
(近い、近いわ! というか、何!? この人、何を考えているのか全く読めない! 赤い瞳が怖い! 吸い込まれそう!)
公爵は、わたくしを値踏みするように上から下まで眺めると、ふっと、かすかに口の端を上げた。
それは、笑みと呼ぶにはあまりにも冷ややかな形だった。
「第二王子、アレクシス」
ゼノン公爵が、静かに殿下の名を呼ぶ。
「貴殿は、今、この女を修道院へ送ると言ったか?」
「は、はい! さようでございます! この女はイザベラを傷つけようとした大罪人。それが相応の罰かと!」
アレクシス殿下は、公爵の威圧に押されながらも、必死に声を張り上げた。
「ほう。相応の罰、か」
公爵は面白そうにそう繰り返すと、再びわたくしに視線を戻した。
「クライネルト令嬢」
「……はい」
わたくしは、か細い声で返事をする。
「お前は、本当にその小娘を階段から突き落とそうとしたのか?」
問いかけられて、わたくしは唇を噛んだ。
ここで「いいえ」と言ったところで、信じてもらえないことは分かっている。
むしろ、往生際が悪いと、さらに罪を重くされるだけだ。
(……もう、どうにでもなれ)
わたくしは、覚悟を決めて、公爵をまっすぐに見上げた。
「……真実が何であろうと、もはや意味はございません。殿下がそうおっしゃるのでしたら、それがすべてなのでしょう」
心の声ではない。
初めて、自分の意志を、ほんの少しだけ乗せた言葉。
その瞬間、ゼノン公爵の赤い瞳が、ほんのわずかに見開かれたように見えた。
そして、次の彼の言葉は、ホールにいる全員の度肝を抜くものだった。
「――ならば、その罪人、俺が貰い受けよう」
「……は?」
アレクシス殿下の間抜けな声が、静寂に響いた。
わたくしも、父も母も、イザベラ嬢も、周囲の貴族たちも、皆が皆、耳を疑った。
(……え? いま、なんて? もらい、うける? 何を? 誰を? ……わたくしを?)
混乱するわたくしをよそに、ゼノン公爵はアレクシス殿下に向き直り、有無を言わせぬ声で言い放った。
「いいか、王子。この女の婚約は、お前が破棄した。つまり、今この瞬間から、彼女は自由の身だ。その女を、俺が妻として迎え入れる。何か文句でもあるか?」
妻、として。
その一言が、雷鳴のようにわたくしの頭の中で轟いた。
(つ、妻!? 奥さん!? ワイフ!? ど、どういうこと!? この〝氷血公爵〟が、この〝影の令嬢〟のわたくしを!? なぜ!? メリットが一つもないどころか、デメリットしかないのでは!? これは何かの罠? それとも、わたくしが知らない間に、公爵に何かとんでもない無礼を働いていたとか……!?)
わたくしの脳内が大パニックに陥っている中、アレクシス殿下が真っ赤な顔で叫んだ。
「なっ……何を馬鹿なことを! 叔父上、ご冗談でしょう!? こんな、こんな地味で、嫉妬深い女のどこがいいと言うのですか!」
その言葉に、ゼノン公爵の纏う空気が、さらに温度を下げた。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
「地味? 嫉妬深い?」
公爵は、心底不思議そうに首を傾げた。
「お前には、そう見えるのか」
そして、彼はゆっくりと手を伸ばし、わたくしの顔にかかっていた銀髪を優しく耳にかけた。
突然のことに、びくりと肩が震える。
「俺には、見えているが」
公爵は、そう呟くと、わたくしの眼鏡をそっと外した。
急に鮮明になった視界に、彼の完璧すぎる顔が間近に迫る。
血のように赤い瞳が、まっすぐにわたくしを射抜いていた。
「――磨かれる前の、極上の宝石が」
その言葉と、すべてを見透かすような瞳に、わたくしは息を飲むことしかできなかった。
これが、絶望のどん底に突き落とされた〝影の令嬢〟と、人の本質を見抜く力を持つ〝氷血公爵〟との、奇妙な出会い。
そして、わたくしの人生が、思いもよらぬ方向へと大きく舵を切り始めた、すべての始まりだった。
馬車がヴァルキュリアス公爵邸の重厚な門をくぐった時、わたくしはまだ夢の中にいるような心地だった。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った車内で、わたくしの向かいに座るゼノン公爵は、窓の外を流れる景色に目を向けたまま、一言も発しない。
(気まずい……! 気まずすぎるわ、この空気! 何か話すべき? いえ、何を? 『本日はお日柄もよく』……って、わたくし、ついさっき国中の貴族の前で婚約破棄されて断罪されたばかりじゃないの! 最悪のお日柄よ!)
わたくしの脳内会議が紛糾している間にも、馬車は広大な庭園を抜け、白亜の城と見紛うばかりの壮麗な屋敷の前に静かに停止した。
先に降りた公爵が、無言で手を差し伸べてくる。彫刻のように美しい、節くれだった大きな手。
わたくしは一瞬ためらった後、おそるおそるその手に自分の指を重ねた。ひんやりとした彼の体温が、緊張で汗ばむわたくしの肌に心地よかった。
「ようこそ、ヴァルキュリアス公爵邸へ。ここが今日から、お前の家だ」
家、という言葉の響きに、胸がちくりと痛んだ。
クライネルト伯爵家では、ついに得ることのできなかった温かい場所。この、氷のように冷たい空気を纏う人の隣で、それが見つかるというのだろうか。
屋敷の中は、外観の壮麗さを裏切らない、贅を尽くした空間だった。けれど、どこか美術館のようにしんと静まり返っていて、人の暮らす温かみは感じられない。
出迎えた侍女長らしき初老の女性に、公爵は短く命じた。
「アンナ、彼女の部屋を。一番陽当たりの良い部屋を使わせろ。それから、必要なものはすべて揃えてやれ。彼女は俺の客人であり――未来の公爵夫人だ」
「……っ!」
未来の公爵夫人、という言葉に、アンナだけでなく、控えていた使用人たちの間にさざ波のような動揺が走るのが分かった。
わたくし自身、心臓が喉から飛び出しそうになるのを必死でこらえた。
(み、未来の公爵夫人!? さっきも『妻に』とかおっしゃっていたけれど、本気だったの!? 社交辞令とか、その場しのぎの気まぐれとかじゃなくて!? なぜ!? WHY!?)
アンナは、さすがは公爵家に長年仕える侍女長と言うべきか、すぐに驚きを顔から消し、恭しく一礼した。
「かしこまりました、ゼノン様。……奥様、こちらへどうぞ」
〝奥様〟という呼びかけに、背筋がぞわぞわする。
案内された部屋は、天蓋付きのベッドに、猫足の豪奢なソファ、そして窓の外には手入れの行き届いた薔薇園が広がる、まるでおとぎ話に出てくるお姫様の部屋のようだった。
クライネルト家で与えられていた、屋根裏の物置のような部屋とは天と地ほどの差がある。
(……落ち着かない。全くもって、落ち着かないわ。こんな素晴らしい部屋、罰が当たりそう)
しばらくして、夕食の準備ができたと呼びに来たアンナに連れられ、だだっ広い食堂へ向かう。
長いテーブルの端と端に、わたくしと公爵がぽつんと座る。執事が黙々と料理をサーブする音だけが、やけに大きく響いた。
(気まずい、再び! こんなに離れていたら、会話するにも叫ばないといけないじゃないの! というか、そもそも会話がない!)
耐え難い沈黙の中、わたくしがスープに口をつけた、その時だった。
「……エリアーナ」
不意に名前を呼ばれ、びくりとスプーンを取り落としそうになる。
「な、なんでございましょうか、公爵閣下」
「ここではゼノンと呼べ。いずれそうなるのだから」
「そ、それは……」
(ハードルが高い! いきなり名前呼びなんて、そんな親しい間柄じゃないでしょう、わたくしたち!)
わたくしの内心の叫びを知ってか知らずか、ゼノン公爵は赤い瞳でわたくしをまっすぐに見つめ、こう言った。
「あの場で、なぜお前を拾ったか、不思議に思っているだろう」
「……はい。正直に申し上げて、全く」
わたくしは頷いた。最大の疑問だ。
彼はふ、と息を吐くように笑った。氷の彫像が、ほんの少しだけ表情を緩めたように見えた。
「簡単なことだ。お前の心の声が、実に愉快だったからだ」
「――ぶっ!」
思わず、口に含んだスープを噴き出しそうになった。
幸い、寸でのところで飲み込んだけど、激しくむせてしまう。
「ごほっ、げほっ! ……い、今、なんとおっしゃいました……?」
「だから、心の声が愉快だったと、そう言った」
(…………は?)
時が、止まった。
わたくしは、目の前の絶世の美貌を持つ公爵と、自分の耳を交互に疑った。
こころの、こえ……?
(え? え? 聞こえていたの? さっきの、『糖尿病にならないよう、お気をつけあそばせ』とか、『アカデミー賞主演女優賞を差し上げたいわ』とか、全部!? 嘘でしょ!? そんな馬鹿な! そんな、プライバシーの侵害があっていいはずが……!)
わたくしの顔が、みるみるうちに青ざめていくのを、ゼノン公爵は楽しそうに眺めている。
「どうやら、自覚はあるらしいな」
「あ、あ、あの、それは、その……どういう……?」
声が裏返る。
彼は、ナイフとフォークを静かに置くと、組んだ指の上にあごを乗せた。
「俺には、聞こえる。いや、〝視える〟と言った方が近いか。人の本質や感情が、色や音として認識できる。昔からだ」
(と、特殊能力者だったー―――っ!!)
「例えば、お前の元婚約者、アレクシス王子。彼の本質は、耳障りな金切り声と、中身のないブリキの色だ。そして、彼が庇っていたイザベラとかいう小娘は、安っぽいガラス細工がカタカタと鳴る音と、薄っぺらな桃色をしている」
(描写が辛辣! でも、すごくよく分かるわ!)
「奴らの奏でる不協和音には、いつも辟易させられていた。だが、お前は違った」
彼の赤い瞳が、熱を帯びたようにきらめいた。
「お前は、いつも静かだった。だが、その内側からは、深く、静かに澄んだ鈴の音が聞こえていた。それも、実に多重音声で、な」
(た、多重音声……!? わたくしの脳内会議、そんな立体音響みたいになってたの!?)
「外面では淑女を完璧に演じながら、内面では実に理知的で、皮肉屋で、ユーモアがある。そのギャップが、他の誰よりも興味深かった。――お前は、自分を偽りすぎだ。まるで、分厚い埃を被った宝石のようにな」
宝石、という言葉に、心臓が大きく跳ねた。
あの場で彼が言った言葉は、ただの気まぐれではなかったのだ。
「クライネルト伯爵夫妻も、見る目がない。あれほど美しい銀髪も、聡明な紫の瞳も、すべてあの野暮ったい眼鏡と、俯いた姿勢で隠してしまっている。もったいないとは思わないか?」
「……わたくしは、昔から地味で、取り立てて美しいわけでは……」
「誰が言った?」
強い口調で遮られ、びくりと肩が揺れる。
「それは、お前が自分自身にかけている呪いだ。お前の価値を決められるのは、お前だけだ」
その言葉は、今まで誰からも言われたことのない、力強い響きを持っていた。
わたくしの価値。そんなもの、考えたこともなかった。
その日を境に、わたくしの生活は一変した。
公爵邸での日々は、驚きの連続だった。
まず、食事。クライネルト家ではいつも残り物か、簡単なスープとパンだけだったのに、ここでは毎食、温かくて美味しい料理が並んだ。
そして、お風呂。湯殿には薔薇の花びらが浮かべられ、たくさんの侍女たちがわたくしの世話を焼きたがった。(これは、さすがに恥ずかしくて断ったけれど)
何よりわたくしを夢中にさせたのは、この屋敷の三階分をぶち抜いて作られた、巨大な書庫だった。
クライネルト家では、父に「女に学問は不要だ」と、書庫への立ち入りを固く禁じられていた。
けれど、ここでは――。
「好きにするといい。ここにある本は、すべてお前のものだ」
ゼノン公爵は、そう言ってこともなげに許可をくれた。
(か、神様……! いえ、公爵様! ここが、ここが天国ですか!?)
わたくしは、それこそ寝食を忘れる勢いで、書庫に入り浸った。
歴史書、詩集、物語。あらゆる本を読み漁ったが、わたくしが特に心惹かれたのは、古代魔導や失われた魔法陣に関する、難解な専門書の数々だった。
魔法陣の幾何学的な美しさ、魔導理論の緻密な論理体系。それはわたくしにとって、どんな恋愛小説よりも甘美で、刺激的な世界だった。
ある日の午後、わたくしが床に羊皮紙を広げ、古代エルヴン語で書かれた魔導書の修復を試みていると、ふいに背後から影が差した。
「……何をしている?」
声の主は、もちろんゼノン公爵だった。
彼は、わたくしが羽根ペンで書き込んでいる数式や魔法陣を、興味深そうに覗き込んでいる。
(ひゃっ! い、いつの間に!? 集中しすぎて全く気づかなかったわ! というか、こんな地味なオタク趣味、引かれてしまうのでは……!?)
「あ、あの、これは、その……この本、一部が欠損していたので、もしわたくしがこの魔法陣の構築者なら、どういう術式を組むだろうかと、勝手に……その、落書きを……」
しどろもどろに言い訳するわたくしに、公爵は驚いたように目を見開いた。
「落書き……だと? エリアーナ、お前は、この古代転移魔法陣の欠損部分を、理論的に補完しているということか? これは、王宮の魔導師でも解読できる者はほとんどいない代物だぞ」
「え……あ、そうなのですか? でも、ここの魔力循環の法則から考えると、この術式以外はあり得ないかと……。ほら、こちらの印章学の原則にも合致しますし……」
夢中になると、つい早口になってしまうのがわたくしの悪い癖だ。
ぺらぺらと魔導理論をまくし立てるわたくしを、ゼノン公爵は呆気にとられたような顔で見ていたが、やがて、その口元に確かな笑みが浮かんだ。
「……ははっ、そうか。そうだったのか。やはり俺の目に狂いはなかった」
彼は心底楽しそうに笑うと、わたくしの前に膝をつき、視線を合わせてきた。
「エリアーナ。お前の趣味は、ただの落書きではない。それは、この国でも数人しか持ち得ない、類稀なる才能だ」
「そ、そんな、大げさな……」
「大げさではない。お前は、自分がいかに価値ある存在か、まだ何も分かっていない」
そう言うと、彼はすっと手を伸ばし、わたくしの眼鏡に触れた。
「その眼鏡、度が合っていないだろう。お前の美しい紫の瞳を隠すだけでなく、お前自身の視界まで曇らせている。そんなものは、もう必要ない」
次の日。
ゼノン公爵は、わたくしに一つの小さな箱を差し出した。
中に入っていたのは、銀の蔓のような繊細なフレームの、新しい眼鏡だった。
「これは?」
「魔道具だ。かければ、視力が最適化される。それと、簡単な守りの魔法も付与しておいた」
言われるがままに、その眼鏡をかけてみる。
その瞬間、世界が一変した。
今までぼんやりと霞んでいた景色が、信じられないほど鮮明に、色鮮やかに目に飛び込んできた。
窓の外の薔薇の花びらに宿る朝露の一滴まで、はっきりと見える。
「……すごい」
思わず、感嘆の声が漏れた。
「よく見えるか?」
「はい。まるで、生まれ変わったようです」
わたくしが新しい眼鏡越しにゼノン公爵の顔を見上げると、彼は一瞬、息を呑んだように動きを止めた。そして、少しだけ気まずそうに視線をそらし、ぽつりと呟いた。
「……ああ。やはり、美しい紫だ」
その言葉に、顔に熱が集まるのが分かった。
クライネルト家では、この瞳は「魔女のようだ」と忌み嫌われていたのに。
(だめだわ、この人は。いつも、わたくしが一番欲しい言葉を、あまりにも自然にくれる。まるで、長年凍てついていた心が、少しずつ溶かされていくみたいじゃないの)
そんな穏やかな日々が続く中、王都から不穏な噂が聞こえてくるようになった。
アレクシス殿下が、イザベラ嬢を正式な婚約者候補として隣国に紹介した際、その無知と浅慮から、外交儀礼で大きな失態を犯したらしい。
隣国との関係が、にわかに緊張状態に陥っているのだとか。
(……まあ、そうなるでしょうね。イザベラ嬢は愛らしいけれど、王太子妃教育なんて、何一つ身につけていないのだから。それを分かっていて彼女を選んだのは、アレクシス殿下、あなた自身よ)
さらに、ゼノン公爵のもとには、彼の領地である北方の国境線から、緊急の報告が届いていた。
代々ヴァルキュリアス家が維持してきた、魔物の侵入を防ぐ大結界の魔力が、原因不明のまま急速に低下している、と。
報告書を読む彼の横顔は、普段の余裕が嘘のように険しく、背負うものの大きさを物語っていた。
わたくしは、公爵から贈られた新しい眼鏡をかけ、書庫の窓から庭を眺めた。
クリアになった視界の先で、薔薇が風に揺れている。
自分の未来は、まだ不確かで、どうなるか分からない。
けれど、あの絶望の舞踏会にいた時とは、明らかに違う感情が胸の内にある。
それは、ほんの小さな、けれど確かな希望の光。
そして、自分を信じてくれる人のために、何かできることはないだろうか、と。
そんなことを、生まれて初めて、考えていた。
北の領地から届いた緊急報告は、ヴァルキュリアス公爵邸の穏やかな空気を一瞬で凍てつかせた。
書庫の窓からゼノン公爵が執事と話している姿が見えたが、その横顔は見たこともないほどに険しい。
(何か、良くないことが起きたのね……)
わたくしは心配になり、そっと書庫の扉を開けて彼の元へ向かった。わたくしの気配に気づいた公爵が振り向く。その赤い瞳には、深い憂慮の色が浮かんでいた。
「エリアーナ……」
「ゼノン様。何か、わたくしにできることはありますか?」
彼は一瞬ためらった後、重い口を開いた。
「……北の大結界が、崩壊寸前だ。原因は不明だが、魔力の供給が急激に低下している。このままでは、大規模な魔物のスタンピードが王都に向かってなだれ込んでくるだろう」
スタンピード。その言葉の恐ろしさに、わたくしは息を呑んだ。
数百年に一度起こるか起こらないかという、魔物の大暴走。それが起これば、この国は北から蹂躙され、甚大な被害が出るだろう。
「そんな……。王宮の魔導師団は?」
「使い物にならん。あれは失われた古代魔法技術の結晶だ。現代の魔導師に、修復は不可能だ」
吐き捨てるように言う彼の言葉に、絶望的な状況が窺える。
さらに悪いことに、追い打ちをかけるように王都からの急使が駆け込んできた。
アレクシス殿下が引き起こした外交問題が、ついに臨界点に達したというのだ。
殿下の無礼な対応に激怒した隣国が、国境に軍を集結させ始めたらしい。
内からは魔物の脅威、外からは戦争の危機。まさに、内憂外患。
「くそっ……! あの愚かな甥めが……!」
ゼノン公爵が、低く唸るように悪態をつく。
彼は北の領主として結界の対処に向かわねばならない。しかし、王弟として王都の危機も無視できない。体が二つあっても足りない状況だった。
その時、わたくしの脳裏に、閃光のような記憶が走った。
書庫で読み漁った、数多の本。その中に、確かにあったのだ。
(『大結界と王都魔導炉の共鳴理論』……確か、禁書扱いの棚の奥に……!)
わたくしは踵を返し、書庫へと駆け込んだ。
膨大な書架の間を走り、目当ての一冊を探し出す。埃を被った、分厚い革張りの古書。
ページをめくる指が、焦りから震えた。
あった。これだ。
そこに書かれていたのは、現代ではおとぎ話とされている、驚くべき理論だった。
わたくしは本を抱えてゼノン公爵の元へ戻ると、息を切らしながら訴えた。
「ゼノン様! 方法が、あるかもしれません!」
わたくしは古書のページを開き、そこに描かれた複雑な魔法陣を指し示した。
「北の大結界は、単独で機能しているのではありません。古代において、この王都の地下深くに眠る『王家の魔導炉』と対になる形で設計されています! 結界を現地で修復するのではなく、ここ王都から、魔導炉を通して直接、結界の魔法陣そのものを再構築するのです!」
ゼノン公爵は、わたくしが示したページを見て、目を見開いた。
「……馬鹿な。そんなことは理論上だけの話だ。成功例はない。あまりにも膨大な魔力と、古代語の詠唱、そして神の領域とも言える精密な魔力制御が必要になる。実行できる者など、いるはずが……」
言いかけて、彼ははっとしたようにわたくしを見た。
その赤い瞳に、信じられないものを見るような色が浮かぶ。
わたくしは、ごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めて言った。
「……詠唱と、術式の制御は、わたくしがやります」
(言ってしまった……! とんでもないことを言ってしまったわ! でも、もう後には引けない!)
「危険すぎる」
彼は即座に反対した。
「失敗すれば、お前の精神が魔力に飲み込まれて崩壊するぞ」
「ですが、他に方法はないのでしょう?」
わたくしは、彼の目をまっすぐに見つめ返した。ゼノン様から贈られたこの眼鏡のおかげで、もう視線が揺らぐことはない。
「わたくしは、あなたに救われました。居場所を、新しい世界を、見せていただきました。だから今度は、わたくしがあなたのお力になりたいのです。いいえ、ならせてください」
わたくしの瞳に宿る意志の強さを見て、ゼノン公爵はしばらく黙り込んでいた。
やがて、彼は深く息を吐くと、決意を固めた顔で言った。
「……分かった。お前を信じよう。エリアーナ」
彼はわたくしの肩に手を置いた。その手は、力強く、そして温かかった。
「だが、一人では行かせん。必要な魔力は、俺がすべて供給する。お前は、制御だけに集中しろ。……行くぞ。まずは、愚かな甥が広げた風呂敷を畳みに行く」
わたくしたちが王宮の謁見の間に到着した時、そこはまさに修羅場と化していた。
隣国の特使たちが、激しい剣幕で国王陛下に詰め寄っている。
玉座の横では、アレクシス殿下が真っ青な顔で立ち尽くし、その隣でイザベラ嬢がオロオロと涙ぐんでいるだけだった。
「我が国の歴史的文献を『退屈な絵本』と侮辱されたのだ! これは、我が国そのものへの侮辱に他ならん!」
「誠意ある謝罪がなければ、開戦も辞さない構えであると、ご承知おきいただきたい!」
宰相をはじめとする重臣たちも、なすすべなく右往左往している。
その混乱の只中へ、ゼノン公爵の冷徹な声が響き渡った。
「――騒がしいぞ。王の御前である」
その声に、謁見の間の全員が凍り付いたように動きを止める。
〝氷血公爵〟の登場に、誰もが畏怖の視線を向けた。
「叔父上……!」
アレクキス殿下が、すがるような声を上げる。
ゼノン公爵は彼を一瞥もせず、隣国の特使に向き直った。
「失礼、特使殿。うちの愚かな甥が、大変な非礼を働いたようだ。この通り、私が代わりに謝罪する」
彼が頭を下げたことに、謁見の間が再びどよめいた。あの誇り高いヴァルキュリアス公爵が、頭を下げたのだ。
だが、特使はまだ納得しない。
「謝罪だけでは済まされん! 王子は、我が国との友好の証である古代条約書の内容すら理解せず、それを破り捨てようとまでしたのだ! もはや、両国の信頼関係は地に落ちた!」
その言葉に、ゼノン公爵は静かに微笑んだ。
「ならば、その地に落ちた信頼を、拾い集めれば良いだけの話。――エリアーナ」
彼に名を呼ばれ、わたくしは一歩前に出た。
その瞬間、わたくしは謁見の間のすべての視線を一身に浴びた。
アレクキス殿下が、信じられないものを見る目でわたくしを凝視している。
「エ、エリアーナ……!? なぜお前がここに……その姿は、どうしたのだ!」
彼は驚いているようだった。
クライネルト家にいた頃の、俯きがちで、陰気な〝影の令嬢〟はもういない。
ゼノン様に仕立てられた、上質なシルクのドレス。顔の半分を覆っていた野暮ったい眼鏡は、繊細な銀縁の魔道具に。そして何より、わたくしはもう、彼の前で怯えたりはしない。
「ごきげんよう、アレクキス殿下。わたくしは何も変わっておりませんわ。ただ、わたくしの価値を正しく見てくださる方の隣にいる。――それだけです」
わたくしがはっきりとそう告げると、殿下は悔しそうに唇を噛んだ。イザベラ嬢は、わたくしの姿を見て、嫉妬と困惑が入り混じった顔をしている。
(あら、見事に動揺しているわね。あなたたちが捨てた石ころが、磨かれて宝石になった気分はどうかしら?)
わたくしは彼らを尻目に、隣国の特使に向かって優雅にカーテシーをした。
「特使殿。アレクキス殿下がご理解できなかったという古代条約書、わたくしが拝見してもよろしいでしょうか?」
特使は、訝しげにわたくしを見ながらも、従者に羊皮紙の巻物を持ってこさせた。
広げられたそれは、現代ではほとんど使われない、複雑な古代文字でびっしりと書かれている。
周囲の貴族たちが「あんな小娘に読めるはずが……」と囁き合っているのが聞こえた。
わたくしは、その巻物にすっと目を通すと、澱みない声で読み上げ始めた。
「『第一条、太陽と月の盟約に基づき、両国は互いの天恵の産物を分かち合うべし』……特使殿、この条文の解釈が問題なのでしょう? これは、あなた方が主張するような『鉱物資源の無条件の譲渡』を意味するものではありません」
わたくしは、条文の一節を指さす。
「ここに記された古代印章をご覧ください。これは『相互扶助』を意味するものです。つまり、鉱物資源を提供する見返りとして、我が国からは穀物を提供する、という対等な交易を定めたもの。違いますか?」
さらに、わたくしは隣国の歴史書や、過去の判例まで引用し、条約の正しい解釈を理路整然と説明してみせた。
書庫で得た知識が、今、わたくしの何よりの武器になっていた。
謁見の間は水を打ったように静まり返り、誰もがわたくしの言葉に聞き入っている。
特使の顔から、次第に怒りの色が消え、驚嘆の色へと変わっていった。
「……な、ぜ……。なぜ、そなたが、我が国でも一部の学者しか解読できぬ、この条文を……」
「書を嗜む、ただのしがない令嬢ですので」
わたくしがにっこりと微笑むと、特使は言葉を失い、やがて深々と頭を下げた。
「……完敗だ。我が国の早とちりであったようだ。ヴァルキュリアス公爵、そして……聡明なるご令嬢。我々の非礼を、どうかお許しいただきたい」
外交問題が、氷解した瞬間だった。
国王陛下が安堵のため息をつき、宰相たちがわたくしを賞賛の目で見ている。
その時だった。
血相を変えた伝令兵が、謁見の間に転がり込んできた。
「き、緊急報告! 北の大結界、完全に崩壊! 魔物の大群が、王都に向け進軍を開始しました!」
絶望的な報告に、謁見の間がパニックに陥る。
「そんな……!」「もうおしまいだ……!」
誰もが顔面蒼白になる中、静かに声を発したのは、やはりゼノン公爵だった。
「――まだだ」
彼はわたくしの手を取り、国王陛下に向かって言い放った。
「陛下! 王家の魔導炉の使用許可を!」
「う、うむ……許す! だが、ゼノン、一体どうするというのだ!」
「奇跡を起こすのです。――この、エリアーナ・フォン・クライネルトが」
わたくしたちは、衛兵に先導され、王宮の地下深く、禁断の領域である『王家の魔導炉』へと向かった。
アレクキス殿下とイザベラ嬢、そして一部の重臣たちも、何が起きるのかも分からぬまま、後をついてくる。
魔導炉は、巨大な水晶のドームに覆われた、広大な空間だった。中央には、青白い光を放つ巨大な魔力結晶が脈動している。
「エリアーナ、やれるか?」
「はい。あなたがいるなら」
わたくしたちは、視線を交わし、頷き合った。
わたくしが魔法陣の中央に立ち、ゼノン公爵がその後ろに控える。
彼はわたくしの背中にそっと手を当てた。そこから、海のように雄大で、それでいてどこまでも温かい魔力が、わたくしの体へと流れ込んでくる。
(すごい……これが、〝氷血公爵〟の魔力……!)
全身が魔力で満たされ、世界との一体感を感じる。
わたくしは、目を閉じ、意識を集中させた。そして、唇から、失われた古代の言葉を紡ぎ始める。
「――古の契約に従い、地に眠る力の源よ。我が声に応えよ」
わたくしの声が、魔導炉に響き渡る。
足元の魔法陣がまばゆい光を放ち始め、巨大な魔力結晶が激しく脈動する。
詠唱は、次第に熱を帯び、複雑になっていく。一言でも間違えれば、すべてが暴走する。
「な、何が起きているのだ……!?」
「あの女、何を……!?」
アレクキス殿下たちの驚愕の声が、遠くに聞こえる。
(見ていなさい、殿下。イザベラ嬢。あなたたちが見捨て、蔑んだ〝影の令嬢〟の、本当の力を)
わたくしは詠唱の最終段階に入った。
脳が焼き切れそうなほどの情報量が、頭の中を駆け巡る。北の結界の構造、王都魔導炉とのリンク、そして流れ込むゼノン様の強大な魔力。そのすべてを、調和させ、編み上げていく。
「――目覚めよ、白銀の守護者! 我が名において、汝に新たな命を授ける! 〝聖域創生〟!」
わたくしが最後の言葉を叫んだ瞬間、魔導炉から、天を衝くほどの巨大な光の柱が立ち上った。
その光は王宮の天井を突き抜け、はるか北の空へと向かっていく。
遠く離れた北の地で、絶望に包まれていた兵士たちは、見た。
空から降り注いだ光が、崩壊した結界の残骸を飲み込み、一瞬にして、より強固で、神々しいほどの輝きを放つ、新たな大結界を再構築するのを。
なだれ込もうとしていた魔物の大群が、その聖なる光に触れた瞬間、塵となって消滅していくのを。
王都の魔導炉で、わたくしは膝から崩れ落ちそうになるのを、背後からゼノン公爵が力強く支えてくれた。
「……よくやった、エリアーナ。見事だ」
耳元で囁かれた彼の声は、誇らしさに満ちていた。
光が収まった時、謁見の間からついてきた者たちは、皆、言葉を失ってその場に立ち尽くしていた。
自分たちの目の前で起こった、まさに神話のような光景を、信じられないという顔で。
特に、アレクキス殿下とイザベラ嬢は、顔面蒼白だった。
国を救った英雄が、自分たちが無能だと切り捨て、罪人として追放しようとした令嬢であるという、残酷な現実を突きつけられて。
後悔と絶望の色を浮かべた彼らの瞳に、ゼノン公爵に支えられ、静かに微笑むわたくしの姿が、はっきりと映っていた。
王都の地下深く、脈動を終えた魔導炉の静寂の中で、わたくしたちはしばらくの間、ただ互いを支え合っていた。
やがて、我に返った国王陛下や重臣たちが、恐る恐るこちらへ近づいてくる。彼らの顔には、畏怖と、信じられないものを見たという驚愕が、まだありありと浮かんでいた。
「……エリアーナ・フォン・クライネルト嬢」
国王陛下が、震える声でわたくしの名を呼んだ。その声には、もはや以前のような侮りはなく、深い敬意が込められている。
「そなたは……そなたは、この国を救ったのだ。まさに、女神のごとき奇跡だ」
わたくしは、ゼノン公爵に支えられながら、ゆっくりと立ち上がり、深く一礼した。
「もったいないお言葉でございます、陛下。わたくしは、ただ書庫で得た知識を、必要としてくださる方のために使ったまでです」
その時、わたくしの視界の端で、絶望に打ちひしがれる二人の姿が映った。
アレクキス殿下と、イザベラ嬢だ。
殿下は、血の気の引いた顔でわたくしとゼノン公爵を交互に見つめ、何事か呟いている。
「そんな……馬鹿な……。あいつが……あの地味で、何の取り柄もなかったエリアーナが、国を救う……? 嘘だ、何かの間違いだ……」
彼の瞳には、現実を受け入れられない子供のような混乱だけが浮かんでいた。
イザベラ嬢に至っては、腰を抜かしたのかその場にへたり込み、ただわなわなと震えている。
国王陛下は、そんな醜態を晒す息子に、氷のように冷たい視線を向けた。
「アレクキス。……お前には、心底失望した」
その声は、父親としての情など微塵も感じさせない、一国の王としての厳格な響きを持っていた。
「お前は、真に価値あるものを見抜く目を、全く持たなかった。国の宝となるべき女性を、己の嫉妬と浅慮から手放し、あまつさえ罪人として追放しようとした。そればかりか、その無知ゆえに隣国との間に戦の火種まで作りおった。――お前に、この国の王太子たる資格はない」
「ち、父上……! お待ちください! わたくしは、騙されて……!」
「黙れ!」
陛下の雷鳴のような一喝が、地下に響き渡る。
「言い訳は聞き飽きた。アレクキス、お前には王位継承権の剥奪を言い渡す。未来永劫、王都の土を踏むことは許さん。北の辺境の砦にて、一兵卒として国に尽くせ。それが、お前が犯した罪に対する、唯一の償いだ」
「そ、そんな……!」
アレクキス殿下は、その場で膝から崩れ落ちた。
彼の隣で、イザベラ嬢が悲鳴のような声を上げる。
「陛下! では、わたくしは……!? わたくしは、アレクキス様と結婚して、妃に……」
「身の程を知れ、小娘」
国王陛下は、虫けらでも見るかのような目で彼女を見下した。
「そなたも同罪だ。王子を唆し、国を危機に陥れた罪は重い。だが、情けをかけてやろう。そなたが望む通り、アレクキスの〝妻〟として、共に辺境へ行くがよい。暖房もない砦の暮らしが、どれほど厳しいものか、その身で味わうがいい」
それは、死刑よりも残酷な判決だった。
華やかな社交界で蝶よ花よと育てられ、王太子妃という最高の地位を夢見ていた少女にとって、未来永劫続くであろう貧しく厳しい辺境での暮らしは、生き地獄に他ならない。
二人は、衛兵に両脇を抱えられ、まるで罪人のように引きずられていった。その顔には、後悔と絶望の色だけが浮かんでいた。
(……さようなら、殿下。イザベラ嬢。あなたたちが見たかったのは、こういう結末ではなかったでしょうけれど。これが、あなたたちが選んだ道の、終着点なのよ)
そして、陛下の厳しい視線は、謁見の間の隅で震えているわたくしの両親へと向けられた。
「クライネルト伯爵。……言うまでもないな?」
「は、はひぃ……!」
父は、蛇に睨まれた蛙のようにその場に平伏した。
「娘の類稀なる才能を見抜けず、愛情を注ぐこともせず、あまつさえ婚約破棄の場で守りもしなかった貴様らにも、重い責任がある。伯爵位は剥奪、男爵へと降格の上、領地も大幅に削減する。異論はないな」
「ございません……! 寛大なるご処置、痛み入ります……!」
父と母は、ただただ床に頭をこすりつけるだけだった。彼らが最後まで心配していたのは、やはり娘の幸せではなく、家の体面だけだったのだと、わたくしは最後の最後で思い知った。
――すべての裁きが終わった後。
わたくしたちは、王宮のバルコニーへと導かれた。
眼下には、王宮前広場を埋め尽くした、無数の民衆の姿があった。
北の空に現れた奇跡の光が、王宮から放たれたものであると知り、彼らは固唾を飲んで事の顛末を見守っていたのだ。
わたくしとゼノン公爵がバルコニーに姿を現すと、一瞬の静寂の後、地鳴りのような大歓声が巻き起こった。
「おおっ! ヴァルキュリアス公爵閣下と、謎の御令嬢だ!」
「あの方が、国を救ってくださったという〝聖女様〟か!」
「なんと美しい……!」
〝影の令嬢〟。
そう蔑まれていたわたくしが、今、国の英雄として、民衆から熱狂的な歓声で迎えられている。
あまりのことに現実感がなく、わたくしは呆然と立ち尽くした。
すると、隣に立つゼノン公爵が、わたくしの前にすっと片膝をついた。
「……え?」
わたくしだけでなく、眼下の民衆、そしてバルコニーにいた国王陛下や重臣たちも、息を呑んで彼の行動を見守っている。
ゼノン公爵は、ひざまずいたまま、わたくしの手を取った。
その血のように赤い瞳は、見たこともないほど真摯な熱を帯びて、まっすぐにわたくしだけを射抜いていた。
「エリアーナ・フォン・クライネルト」
彼の声が、喧騒の中でもはっきりと聞こえる。
「俺は、初めてお前を見た時から、ずっと知っていた。分厚い埃と、偽りの仮面の下に隠された、お前の本当の輝きを」
彼は、わたくしの指先に、そっと口づけを落とした。
「お前は、地味な影などではない。誰よりも聡明で、誰よりも強く、そして、誰よりも美しい、俺だけの宝石だ」
(――ああ、だめだ)
こらえていた涙が、頬を伝って溢れ出した。
悲しみの涙ではない。
生まれて初めて感じる、温かくて、幸せな涙だった。
「エリアーナ。すべての呪いから解き放たれ、光の中で生きる覚悟はできたか? ――俺の妻として、俺の隣で、永遠に輝き続けてはくれないか」
その言葉は、どんな魔導の詠唱よりも、力強くわたくしの心を揺さぶった。
眼下の民衆から、割れんばかりの祝福の歓声が上がる。
わたくしは、涙で濡れた顔のまま、人生で一番、輝く笑顔で頷いた。
「……はい。喜んで、あなたの〝宝石〟に」
(まさか、婚約破棄されたあの絶望の夜会から、こんな未来に繋がるなんて。人生、本当に何が起こるか分からないものね。でも、一つだけ確かなことがある。この人の隣こそが、わたくしの、本当の居場所なのだと)
◇
それから数ヶ月後。
わたくしは、ヴァルキュリアス公爵夫人として、穏やかで幸せな毎日を送っていた。
公爵夫人の務めの傍ら、王家からの強い要請で「王国最高魔導顧問」なんていう大層な役職にも就任してしまい、書庫で研究に没頭する時間は、以前より少しだけ減ってしまったけれど。
その日も、わたくしは公爵邸の書庫で、新しい防御魔法陣の構築に頭を悩ませていた。
ふと、背後から愛しい香りがして、温かい腕がわたくしの肩をそっと抱きしめた。
「また根を詰めているのか、エリアーナ」
「ゼノン様……。だって、この術式、どうしてもあと一歩が……」
わたくしが振り向くと、夫となった彼は、愛おしそうな目をしてわたくしの額にキスを落とした。
「お前の才能は国の宝だが、俺にとっては、お前自身のほうが何万倍も宝だ。あまり無理はするな」
彼の優しい言葉に、心が温かくなる。
わたくしは、彼の胸にこてんと頭を預けた。
(それにしても、不思議。あれだけ饒舌だったわたくしの心の声が、この人の前ではすっかり静かになってしまったわ。きっと、もう何も偽る必要がなくなったからなのでしょうね)
そんなことを考えていると、頭上からくすりと笑う声がした。
「また何か、愉快なことを考えているな」
「えっ!?」
わたくしは驚いて顔を上げた。
「ま、まさか、まだ聞こえるのですか!? 心の声!」
ゼノン様は、悪戯っぽく片目をつむいだ。
「いいや? お前が俺の妻になってから、不思議と聞こえなくなった。――だが、長年連れ添った夫婦のように、お前の表情を見れば、考えていることはだいたい分かる」
「もう、からかわないでくださいませ!」
わたくしが頬を膨らませると、彼は「すまない」と言いながらも、その赤い瞳は楽しそうに細められていた。
〝影の令嬢〟と呼ばれた少女は、もうどこにもいない。
わたくしの本当の価値を見つけ、愛し、光の中へと導いてくれた、唯一無二の人の隣で。
わたくしは今、世界で一番、幸せな光を放っている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
★~★★★★★の段階で評価していただけると、モチベーション爆上がりです!
リアクションや感想もお待ちしております!
ぜひよろしくお願いいたします!




