金曜日の夜の愛妾
これは、男がまだ北の小国で王家に仕えていた頃の話だ。
列強ひしめく大陸の中で、その祖国は小さく、貧しかった。
だが、王家は確かに存在していた。
北の蛮族と呼ばれる少数民族との古い同盟。
その証のように、王家の血には銀色の髪と淡い青の瞳が流れている。
それは北の民の美しさをそのまま引き継いだ証だった。
ヴィンセントが、ニーナの母と出会ったのは、そんな王のそばで仕えていた時だ。
『……忘れられないのだ。私が愛した婚約者を』
金曜の夜、王は身分を隠した小さな馬車に乗る。
月のない道を、ヴィンセントは黙って馬を操った。
その車中で、王は時折、昔話をした。
かつて王には、婚約者がいた。
銀の髪と淡青の瞳を持つ、北の民の首領の娘。
名は――エレーナ。
政略で結ばれたはずの関係だったが、王は本気で愛していたという。
だが二十年前。
満月の夜、エレーナは忽然と姿を消した。
王ではない、別の男を選び。
海を渡る男とともに。
世界の海を巡る男の足取りを追うのは難しい。
王は捜索を命じたが、何も掴めなかった。
(……愛した婚約者の代わりか)
金曜の夜に向かう先。
そこにはニーナの母がいた。
小国の貧しい貴族の姫。
美しく、柔らかく、壊れやすい。
王は彼女を愛妾として迎えた。
ヴィンセントは愚かではない。
女の美貌に酔うような男でもない。
だが
金の鳥籠に囚われたカナリヤのように、
王に愛でられ、甘い声を漏らすその姿を。
扉の外で、何年も護衛として聞き続けるうちに。
胸の奥に、説明のつかないものが溜まっていった。
それは同情か。
それとも、羨望か。
ある夜
扉が開いた瞬間…
彼女と、初めて視線が交わった。
その瞳は、淡く濡れていた。
甘く痺れるような空気が、廊下に流れ込む。
その瞬間から…ーー
運命は、静かに狂い始めた。




