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女神の護符  作者: のはな
北の小国編
76/83

義足の男と、ケンジの希望

イーゴリの地獄と、地獄の住人達

何度も意識が擦り切れては灯される。


燃えるような熱い身体は、起き上がることも動かすこともできなかった。


イーゴリはそんな中、口の中へ何度か水を注がれるのを感じた。

灼けるような喉を潤す冷たい流動に、むせながらも飲み干す。


生暖かくなった額のタオル。

それを、取り替える気配に気づけたのは、だいぶ経ってからだった。


イーゴリは視界を揺らしながら、定まらない焦点でその者を見た。


男だ。


シワだらけの麻のシャツを羽織り、薄汚れた顔の無精髭の無骨な男が無心でタオルを替えている。


無骨で骨ばった太い指が、桶に入れた水にタオルを浸し、無造作に絞る。


ぽた、ぽた、と水音が落ちる。


イーゴリの額に、そのタオルが置かれた。

冷たい。

——だが、さっきよりは、少しだけ楽だ。


男は何も言わない。息遣いも荒くない。


ただ、必要なことだけを、淡々とこなして

いる。


(……誰だ……)


喉が動き声にしようとして、失敗する。

代わりに、かすれた音が漏れた。


男の手が、一瞬だけ止まった。

視線が、こちらに向いた。


灰色の瞳。

感情を読み取れない、硬い目。


だが、敵意はなかった。


男は何も言わず、もう一度タオルを取り替え、

今度は、ゆっくりとイーゴリの口元へ水を運んだ。


「……」


器の縁が、唇に触れる。

少しずつ。

溺れないように。


イーゴリは、反射的に飲み込んだ。

むせかえり、落ちてきた水は冷たいが喉は焼けるようだった。


だが、それでも水は、確かに身体の中へ落ちていった。


男は、むせるのが止まるのを待っていた。


背中を叩くこともしない。

励ましの言葉もない。


ただ、終わるのを待っている。


(……慣れてる……)


そう思った瞬間、意識がまた、ぐらりと傾いだ。



次に目を開けたとき、部屋は少しだけ明るくなっていた。


焚き火の火が、弱くなっていた。朝が近いのだろうか。窓から、光を感じる。


男は、今度は床に腰を下ろし、刃こぼれした短剣を布で拭いていた。


その時、イーゴリは男の右脚に違和感を覚えた。


太い太ももから先が、ただの粗末な木の棒だったのだ。


簡易的な義足が、視界に入る。


(……脚……)


そこで、ようやく気づく。


この男は、戦場の人間だ。


騎士か、それに近い何か。


男は低く、短い言葉を吐いた。

意味は分からない。


だが——

「動くな」

その一語だけは、確かに聞き取れた。


短く命令に近かった。


唯一聞き取れた言葉にだけ反応してみせた。



「……熱、下がるまで」


それだけ言って、また作業に戻る。


名も名乗らず、理由も説明しない。

だが、イーゴリは理解した。


——この男は、生かすつもりだ。


赦す気はない。慰める気もない。

ただ、死なせない。


それだけ。


意識が、再び遠のく。


最後に見えたのは、焚き火の揺らめきと、

無骨な男の背中だった。


(……まだ……終われねぇ……)


その思いだけを残して、

イーゴリは、また深い闇へ落ちていった。



ケンジはヴェーラをホールだ見守りながら、打たれた電報の送り主を確認していた。


イーゴリは北方の極秘任務へ、向かっていた。

その内容は伏せられ、第二騎士団の書記官であったケンジもヴェーラも知らない。


(…旅行先を知っているのは、限られている。発信もとは、第二騎士団と書いてあるけど…誰だ?)


ケンジの頭脳は、瞬時に一人の男が浮かんだ。


ーーーオレグ・ヴォルゴフ


若干16歳の少年騎士だ。

しかし、獰猛な狼としてイーゴリが育てあげた第二騎士団最強の男。


イーゴリを強く慕い、絶対的な忠誠を誓うあの少年は、きっとこの極秘任務でもイーゴリのそばを離れなかっただろう。


簡潔な電報の文脈からも、オレグらしさが漂っている。


打たれた日時は今朝の9時過ぎ…場所は、北部の小さな村と明記されていた。



『第二騎士団長 イーゴリ・メドヴェージェフ。北部での戦闘にて、崖より転落。

現在、消息不明。

至急、王都へ戻られたし』



電報は、ヴェーラではなくケンジ宛のものであった。


ケンジはフロントの男に、この近くに郵便局はないかと立ち上がるなり聞いた。



「電報を打ちたいんですけど…」



ヴェーラはまだぼんやりとモヤがかかったような頭で、ケンジの訴えを見ていた。




(ああ…私、知ってる。この感覚。

この…何も考えられなくなって、水の中みたいに音が濁って聞き取れなくなる…)



ヴェーラは自分に話しかけるケンジを見あげながら、曖昧に頷くしかなかった。


ケンジが何かを言っている。


なのに、声がうまく聞き取れず、心配そうにのぞき込む黒い瞳に青い顔の自分が映っていた。



(…お父さんが、死んでしまったときみたい)


あの時も、こうだった。


病院から連絡が来て、急いで向かうと通された所は病室ではなかった。


地下の死体安置所に通され、父の顔は白い布で覆われて自分を待っていた。



心臓が掴まれたみたいに痛くなり、耳鳴りに似たおかしな感覚にまきこまれる。


遺体を前に、確かめる勇気がなく布を取れない。


身体が硬直し、ヴェーラは立ち尽くした。


先に着いていたイーゴリが、部屋の中で私を見ている。


腰がぬけるという経験を、そのとき始めてした。



『…お父さん…?』



床に座り込み、父と言われた遺体を見あげながらかすかに声が漏れた。



そんな光景が、ケンジを見ながらフラッシュバックした。



「…ヴェーラさーー」


「イーゴリ…死んだの?」



空を見ているようなヴェーラから出てきた言葉に、ケンジは想定外ということもありすぐに顔を引きつらせた。



しかし、ケンジは真っ直ぐにヴェーラと向き合い逃げなかった。



「死んだとは決まっていません。


ーーー消息不明です」



強い意志を感じ、その言葉だけははっきりとヴェーラに届いた。


ヴェーラは目を見開き、ようやく表情を顔に浮かべる。


ケンジの声はヴェーラを聞きにくかった水の中から引き上げ、その細い肩を掴み揺さぶる。



「団長は…イーゴリは、簡単に死ぬような男ではありません。オレグだって、それを信じてオレにこの電報をくれました」


電報を手にし



「探しにいきましょう」


ケンジは、迷うことなく言った。


「団長を、探すんです。

オレグと合流しましょう」


その言葉は、命令ではなかった。

それでも、ヴェーラの胸の奥に、はっきりと届いた。


——イーゴリは、まだ生きている。


そう信じる理由が、初めて“形”を持った気がした。


ヴェーラは、ゆっくりと息を吸い、


そして、強く頷いた。













ケンジの強さはこれからも続きます

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