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女神の護符  作者: のはな
女神の泉編
75/83

見送る者の、微笑

新しい章のはじまりです

闇の中で、後ろから声をかけられた。



『イーゴリ…』


振り返ると、甲冑を纏ったボリス・メドヴェージェフが微笑んで立っている。


彼の死から約3年。

初めて見る、おだやかな笑みだった。


ヴェーラの父親と対面し、イーゴリは一瞬身体が強張るのを感じた。


今までも、何度か夢の中で彼には会っていた。

しかし、ほとんどが物言わぬ遺骸か、こちらを見つめるだけで声はかけられなかった。


ボリスが生前と変わらぬ穏やかな笑みをたたえ、さらに口を開いた。



『お前…随分とまた、出世したなぁ。ついに王太子殿下にも目をかけられているんだって?』



気の抜けたような口調に、なんと返答したらいいのか分からなかった。


ボリスの前では、イーゴリは昔と変わらずまるで幼い10代の少年のように扱われる。


その優しい口調と眼差しが懐かしく、そして心地よかった。


イーゴリは成長し、大柄なボリスにも負けない体躯と身長を手に入れた。

しかし、ボリスに微笑まれながらポンポンと叩くように頭を撫でられている。


イーゴリは下を向き、言葉にできない思いで胸をいっぱいにさせて拳を握った。



(…ああ、こんなのは、願望だ)


今見ているボリスは、夢が作り出したものだと察する。


許されるわけがない――そう、すぐに頭が否定した。



夢の中でヴェーラを抱きたいと、欲望が爆発するように。

ボリスに許されたい。

微笑まれて褒められたいと、都合よく作り上げているに過ぎないのだ。



いっそのこと、恨み言を吐き捨てられ、許さないと叫ばれたほうがまだマシだった。


そうすれば、ますます自分を許さずに済む。


許されてヴェーラを手に入れたいと、思わずに済むのだ。




『ーーー夢ではないぞ。お前に会いに来たんだ』



ボリスのかけた言葉は、イーゴリの絶望の中で突然甘い香りのする花のように咲いた。



イーゴリが顔を上げると、ボリスは何とも言えぬ複雑な表情でこちらを見る彼に苦笑した。


泣きそうでも無く、無理に笑うでもないぎこちない顔。


不器用なその感情処理の仕方は、親に見捨てられて生きる場所を探していた幼い頃と少しも変わっていない。



『イーゴリ。もう、自分を責めるな』



一つ呼吸を置き、ボリスはさらに言った。




『ヴェーラを…愛してやれ。あいつにはお前しかいないんだ』




イーゴリの世界はその瞬間、再び闇の底へと落ちて行く様へと変わった。


イーゴリ悲鳴も上げられず、ボリスに手を伸ばす。

しかし、ボリスは微笑んだまま宙を浮いている。

落ちていくイーゴリをみているだけだった。



落ちて行き着く先は地獄であると確信し、イーゴリは初めて叫んだ。




『嫌だ…っ!!死にたくねぇ…っまだ俺は…!!』




闇が、すべてを呑み込んだ。

叫びは音にならず、喉の奥で潰れる。


伸ばした指先は、何ひとつ掴めないまま宙を切った。


微笑むボリスの姿だけが、遠ざかっていく。

その表情は、赦しでも拒絶でもなかった。

ただ――見送る者の顔だった。


イーゴリの身体は、底の知れぬ闇へと引きずり落とされていく。


光も、声も、温もりも、すべて消える。


そこが地獄であることを、疑う余地はなかった。






「……っ!!」




イーゴリは、喉を裂くような息を吸い込み、生き返るように覚醒した。


胸が痛いほど脈打ち、耳鳴りが残響のように続いている。


視界が定まるまで、数秒を要した。



目を開けた瞬間、視界に広がったのは――

知らない天井だった。


木の梁が不規則に走り、ところどころ煤けた染みが残っている。


薄暗い。

光はあるが、どこから差しているのか分からない。


(……どこだ……)



そう思ったはずなのに、声は出なかった。


喉が、焼けつくように乾いている。

息を吸おうとすると、胸の奥が軋み、肺が拒むように痛んだ。


指を動かそうとして、イーゴリは気づく。


――動かない。


腕も、脚も、まるで鉛を流し込まれたように重く、身体が己のものではない。


(……っ、くそ……)


怒鳴ろうとした。

叫ぼうとした。


だが、唇はかすかに震えるだけで、音にならなかった。

代わりに、喉の奥から押し上げてきたのは、低い呻き声だった。


視界の端で、何かが揺れる。


火だ。

小さな暖炉の焚き火の炎が、静かに燃えている。


(……生きてる……のか……?)


思考が、ひどく鈍い。

一つ考えるたびに、頭の奥が重く脈打つ。


次の瞬間、冷たい感覚が背中を走った。

――水。

衣服が肌に貼りつき、乾ききっていない。

川の冷たさが、まだ身体の芯に残っている。


(……落ちた……)


闇。

引きずり込まれる感覚。

激流。

叩きつけられた岩。

記憶が断片的に蘇り、イーゴリは奥歯を噛みしめた。


(……死んでない……だが……)


ここは、王国ではない。

見慣れた紋章も、軍幕も、騎士団の気配もない。


聞こえるのは、焚き火の爆ぜる音と、

遠くで鳴く、聞いたことのない鳥の声だけだ。


助けられた――


そう理解するには、少し時間がかかった。

だが、理解した瞬間、別の不安が胸を締めつける。


(……誰も……いない……?)


人の気配が、まったくしない。

看病する者の足音も、話し声もない。


置き去りにされたわけではない。


ただ――“今は誰も出てきていない”だけだ。

その事実が、逆に不気味だった。


(……隣国か……それとも……)


思考がそこで途切れる。

まぶたが、抗えずに重くなる。


意識が、再び深い底へ沈みかけた、その時――

軋む音がした。


床板が、ゆっくりと鳴る。

誰かが、近づいてくる。


イーゴリは必死に目を見開こうとした。

しかし、視界は滲み、輪郭が定まらない。


ただ――


見知らぬ言葉が、低く、静かに交わされるのが聞こえた。


意味は分からない。


だが、敵意ではないことだけは、なぜか分かった。


(……生きろ……ってか……)


意識が、完全に闇へ落ちる直前、

イーゴリの脳裏に浮かんだのは――

赦しではなく、

ヴェーラの名でもなく、


「まだ、終われない」


という、どうしようもなく重たい現実だった。







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