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女神の護符  作者: のはな
女神の泉編
74/83

イーゴリ生死不明

 

 宿屋のフロントは、昼下がりの静けさに包まれていた。

 旅人は少なく、木の床を踏む音も、どこか遠い。


「御客様宛に、一つ電報が届いております」


 フロントマンの声は、丁寧で、平坦で、

 それ以上でも以下でもなかった。


 ケンジが振り返る。

 ヴェーラは、ちょうど外套の紐を直していたところで、動きを止めた。


「……電報?」


 それは、あまりに日常的な言葉だった。

 王都からの連絡。

 仕事の話。

 遅れるという報せ。


 ——そんなものだと、どこかで思っていた。


 ケンジが受け取り、紙片を広げる。

 視線が、文字を追った瞬間。

 空気が変わった。


 声が、わずかに震えた。

 それだけで十分だった。

 ヴェーラは、ケンジの手元を見た。


 紙。

 黒い文字。

 意味を成して並んでいるはずの、ただの線。


「……どう、したの?」


 自分の声が、どこか他人のもののように聞こえる。


 遠い。

 薄い。


 ケンジは、一度唇を噛みしめてから、言った。


「……第二騎士団団長、

 イーゴリ・メドベージェフ」


 そこで、一拍。


「……北部での戦闘にて、

 崖より転落。

 現在、消息不明」




 ——理解、できなかった。

 

 音が、消えた。


 フロントの奥で鳴っていたはずの時計の音も。

 誰かがカップを置く微かな音も。

 床板の軋みも。

 全部、消えた。


 目の前の光景が、色を失っていく。

 輪郭だけが残り、現実感が薄れていく。



(……え?)



 頭の中で、そう思った気がした。


 でも、その「え?」は言葉にならなかった。


 イーゴリ。

 崖。

 転落。

 消息不明。

 文字としては、読めている。

 意味も、知っている。


 ——でも、それが「自分の現実」だとは、どうしても結びつかなかった。



 ヴェーラは、立ったまま動かなかった。

 まばたきも、呼吸も、

 意識しなければしていないほど、浅くなっていた。

 世界が、止まった。



(……イーゴリ?)


 声を呼ぼうとした。

 胸の奥で。

 でも、そこにあるはずの「存在」が、

 急に、遠くへ引き剥がされたような感覚。



 まるで——



 今まで確かに掴んでいた糸が、突然、指から抜け落ちたみたいに。


 ケンジが、ヴェーラの名前を呼んでいる。


 でも、声は水の底から聞こえるみたいに歪んでいた。



「……ヴェーラさん」


 肩に、手が触れる。


 その感触すら、現実かどうかわからない。

 自分の身体が、ここにあるのかどうかも。



(……私、立ってる?

 それとも……もう、倒れてる?)


 わからない。

 涙も出なかった。

 悲鳴も、嗚咽も、何も。

 ただ、胸の奥が、ぽっかりと空洞になっていた。


 ——空っぽ。


 大切なものが、丸ごと抜き取られたみたいに。



 ケンジは、はっきりと異変に気づいた。

 これは、泣く前の反応じゃない。


 取り乱す前でもない。


 “受け止められていない”。


 人が、本当に大きな衝撃を受けたときに起こる、

 危険な静止。



「……ヴェーラさん」


 今度は、少し強く呼ぶ。

 肩を両手で包み込むように掴む。


「大丈夫です。

 まだ……“生死不明”です」


 生きている可能性もある。

 探している人間がいる。


 理性では、そう言える。


 でも、彼女の瞳は、どこも見ていなかった。

 青い瞳が、ただ空を映すように揺れている。



(……まずい)



 ケンジは、はっきりと理解した。


 ——この人の時間は、止まってしまった。


「……座りましょう」


 答えはない。

 ケンジは慎重に、

 壊れ物を扱うみたいに、ヴェーラの体を支えた。


 その体は、驚くほど軽かった。

 生きている人間の重さなのに、

 どこか中身が抜け落ちたような、頼りなさ。


 椅子に座らせても、

 彼女は自分で姿勢を保とうとしなかった。

 視線は、虚空。


(……このまま、一人にしたら駄目だ)


 ケンジは、胸の奥で静かに決めた。


 ——今は、慰めの言葉はいらない。

 ——理解させようとするのも、逆効果だ。


 ただ、戻ってくるまで、そばにいる。


「……ヴェーラさん」


 もう一度だけ、名前を呼ぶ。

 それでも、彼女の時間は、まだ動かなかった。


 ※


 ……生死、不明?


 その四文字を、頭の中でなぞろうとした瞬間、

 思考が、ぷつりと途切れた。


 理解、というものができなかった。


 分からない。

 意味が、つながらない。


 イーゴリが?

 消息不明?

 生死不明?


 そんなはずがない。

 だって――


 ヴェーラの意識は、唐突に、別の場所へ引き戻された。


 執務室の扉。

 冷たい木の感触。


 背中に感じた、重たい圧。

 逃げ場を塞ぐように近づいた大きな身体。


 低く、荒い呼吸。

 伏せられた金色の目。

 視線を合わせてくれなかった顔。



『……ケンジと行け』



 低く、抑えた声。

 怒っているのか、苦しんでいるのか、分からない声。



『悪かったな。混乱させて』


 その言葉と一緒に、目を伏せたイーゴリ。


 唇が、近かった。


 ほんの少し動けば、触れてしまう距離。

 息が、かかる。

 触れたいと思った。

 触れてしまえばいいと思った。

 それなのに――



『……っ、やめろ……!』


 拒む声。

 引き離される距離。


 開いた扉。

 あのとき、言えなかった言葉。

 聞けなかった本心。


 触れられなかった唇。


 現実に戻っても、音は戻ってこなかった。


 ケンジの顔が目の前にある。


 口が動いている。

 何かを必死に言っている。


 けれど、ヴェーラには何も聞こえなかった。


 色が、薄い。

 宿屋の壁も、床も、人の顔も、

 まるで絵の具を水で流したみたいに、淡い。


 自分の足が、床についているのかも分からない。

 ここに立っているのが、自分なのかも分からない。


 ――ケンジと行け。


 その言葉だけが、

 何度も、何度も、頭の中で繰り返された。


 イーゴリは、謝った。

 混乱させたと、言った。


 でも――

 あの人は、生きて戻って、


「悪かった」と、もう一度言うはずだった。

 南部へ行くはずだった。


 帰ってきたら、また言い合いをするはずだった。


 そうやって、

 いつもの距離に戻るはずだった。


 それなのに。



「……………」


 声を出そうとして、

 ヴェーラは初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。


 吸おうとしても、胸が動かない。

 世界が、止まっている。


 イーゴリがいないという事実だけが、

 まだ、現実として認識できないまま。




 ※


 時は少し遡り、昨夜のこと…


 伝令が運んできた知らせのうち、一つは吉報であった。


 蛮族の首領であるアルマンの捕縛。


 陣営のテントでそれを聞いた王太子ミハイルは思わず立ち上がり、胸の奥に沸き立つ血のざわめきに身を任せた。


 机上の地図が揺れ、蝋燭の火がふらりと踊る。


(やったか……! イーゴリ。あの、抜け目ない男め)


 勝てる。


 いや——“終わらせられる”。


 十年以上も引きずった北部の泥沼を、国民が納得する形で断ち切る。


 その最短の答えを、あの男は平然と持ち帰ってきたのだ。


「……っ、最高だ……!!」


 思わず漏れた声に、自分で自分を戒めるようにミハイルは喉を鳴らした。


 喜びを露骨に見せるのは、王太子の品位にそぐわない。


 だが、抑えきれないものがあった。


 跪いたまま報告を待つ男。

 伝令役として、いち早く王太子の元へ駆け込んできた精鋭の一人——ルカ・ザイツェフ。


 雨で濡れた髪を拭いもせず、泥に汚れた甲冑のまま、ルカは頭を垂れている。


「よくやった。……アルマンは生きているな?」


「は。命はございます。拘束し、監視下に置いております」


「よし。——花火は?」


「上がりました」


 完璧だ。


 ミハイルの脳内で、勝利の工程が滑らかにつながっていく。


 捕縛。

 護送。

 王都での見世物。

 そして処刑。


 北方民族の誇りは、民衆の目の前で折れる。



 ——そのはずだった。


 ミハイルは、次の問いを当然のように口にした。

 勝利の連結に、欠けてはならない“最後の駒”を確認するために。



「……イーゴリはどこだ?」


 その瞬間だった。


 ルカの肩が、わずかに跳ねた。


 甲冑の継ぎ目が、乾いた音を立てる。

 雨粒が床に落ちる音が、やけに大きく聞こえた。


 ミハイルは、すぐに理解した。

 理解したくない形で。


「……どういうことだ、ルカ」


 声が低くなる。

 怒りではない。

 焦りでもない。


 ——説明しろ、という命令。


 ルカは口を開こうとして、閉じた。

 その間に、何かが折れるような気配がした。

 彼の背筋の奥で。


「イーゴリは」


 もう一度、名を呼ぶ。

 ただの確認ではなく、王太子としての威圧でもなく。


(……まさか)


 一瞬、ミハイルの頭の中で、盤面がひっくり返る。


 あり得ない手が現れたときの、あの感覚。

 冷たい指が脳髄をなぞるような、不快な空白。


 ルカの喉が震えた。


「……消息が、途絶えました」


 短い言葉だった。

 けれど、刃のように鋭かった。


 ミハイルは、すぐには何も言わなかった。


 手を伸ばし、地図の端を押さえる。

 紙が湿って、指先に冷たく貼りついた。


(——途絶えた?)


 戦場で“消息不明”という言葉が持つ意味を、ミハイルが知らないはずがない。


 それでも、理解が遅れた。



 脳が拒んだのだ。



「……捕縛は成功している」


 確認するように言う。

 どこかで自分に言い聞かせている。


「アルマンは生きている。花火も上がった。

 ならば——イーゴリが、その場にいない理由がない」


 ルカは、拳を握りしめた。

 泥のついた指が微かに震えている。


「……落雷がございました。崖付近で——」

「崖?」

「木が裂け、崩れ……イーゴリ殿は、巻き込まれたと」


 巻き込まれた。

 曖昧で、残酷な言い方。


 死体がないとき、言葉はいつもそうなる。


 ミハイルは、息を吸った。


 深く。



 胸の中の熱が、すっと冷える。



(……あの男が)


 イーゴリ・メドベージェフ。


 豪胆で、下品で、笑いながら人を救い、笑いながら人を殺す。


 計算と度胸の化け物。


 必要なら王太子ですら利用する狡猾さ。

 そして、その狡猾さの奥に、奇妙な忠誠がある。


(——まだ死ぬには早い)


 それは“惜しい駒”という意味ではない。

 “まだ使える”という意味でもない。


 ——あの男は、まだ終わるべきではない。

 


 そう思ってしまったことが、ミハイル自身にとって意外だった。



 テントの外で、風が鳴いた。

 嵐はまだ完全には去っていない。


 北部の空気が、冷たく湿っている。


 そのとき。

 別の足音が、泥を跳ね上げて近づいてきた。

 衝立が乱暴に開く。


 現れたのは、亜麻色の短髪の少年騎士だった。


 甲冑は半分泥に沈み、頬には擦り傷。

 しかし目だけは、獣のように鋭く光っていた。


 オレグ・ヴォルコフ。


 彼は入るなり膝をつき、額が床に触れるほど深く頭を下げた。



「王太子殿下」



 声は荒い。

 けれど、言葉は驚くほど整っている。

 必死に、噛み砕いて飲み込んでいるのがわかる。


「……イーゴリさまは、生きています」


 その瞬間。

 ミハイルは、ほんの一拍だけ黙った。


 ——希望に飛びつきたい。


 だが、王太子は希望に飛びついてはならない。

 間違った希望は、兵の命を無駄にする。


「根拠は」


 短く威圧的に問いただした。


 けれど、声の奥がわずかに震えた。

 自分でも気づかぬ程度に。


 オレグは顔を上げないまま言った。


「崖の中腹で、声を聞きました。

 落ちる直前まで命令を出していました。

 ……あの方が死ぬ声ではありません」



 死ぬ声ではない。

 その表現が、妙に生々しく胸に刺さった。

 ミハイルは立ったまま、ゆっくりと椅子の背に手を置く。

 指が、木を強く掴む。


(……そうだ)


 あの男は、そんな簡単に死ぬはずがない。

 そうであってほしい、という願いが混じるのがわかる。


 オレグの声が、さらに絞り出された。


「探しに行かせてください。

 俺が、必ず連れ戻します」



 その言葉には、忠誠だけではない。

 祈りに近い執念があった。


 ミハイルは、オレグを見下ろした。

 少年の背中は小さく、濡れた甲冑が重そうに沈んでいる。


 それでも、折れていない。


「私情か?」


 意地悪な問いではなかった。

 王太子として、確認せねばならないことだった。


 オレグの喉が詰まる。

 一瞬だけ、言葉を失う。

 次の瞬間、噛みしめるように答えた。



「……忠誠です」



 ミハイルは目を細めた。

 その答えの嘘のなさが、逆に痛かった。


「……よく分かった」


 そして、視線をルカへ移す。

 ルカは跪いたまま、黙っている。


 彼もまた、イーゴリが戻らねばならぬ男だと理解しているのだ。

 ミハイルは、静かに命じた。


「行け」


 声は低い。

 だが、揺るがない。


「生きているなら——連れ戻せ。

 死んでいるなら——必ず確認しろ。

 曖昧な“消息不明”で終わらせるな」


 オレグの肩が震えた。

 泣きそうなのを噛み殺し、深く頭を下げる。

 ぬかるんだ大地に、顔を着けそうになるほどだった。



「はっ!」

 

 ミハイルは続けた。


「ただし一つ。

 アルマンの捕縛は、絶対に失敗に変えるな。

 “勝利”を守れ。

 その上で——イーゴリを取り戻せ」


 その命令は、駒を惜しむ声ではなかった。

 “人材”を失うことを許さない、王の声だった。


 オレグは立ち上がり、濡れた外へ飛び出していく。

 テントの入り口が揺れ、冷たい風が吹き込んだ。

 ミハイルは、その風に目を細めた。


(……働き足りんぞ、イーゴリ)


 胸の奥でだけ、そう呟く。

 誰にも聞かせない声で。


 ——まだ死ぬには早い。


 あの男は、まだ終わらせない。

 テントの外で、再び雷が遠く鳴った。


 しかしそれは、終わりの音ではなかった。

 次の戦いの、合図のように聞こえた。



 ※




 闇の底で、

 何かが、微かに軋んだ。


 意識とは呼べない。


 ただ、反射のように——


 イーゴリの指先が、石に触れた。

 喉の奥で、水が鳴った。



 冷たい水の底から、僅かな温かさが顔を出していた。



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