表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女神の護符  作者: のはな
第六章 南部編
62/83

10.ヴェーラが見る夢。イーゴリとの出会い

ついにお父さん登場。


とてもイーゴリに似ています。

ボリスという名前は気に入っていて、とっておきの人のためにとっておいた名前でした。



規則正しい列車の揺れが、まるで子守歌のように車内へ響く。

四人がけボックス席の端には、美しい横顔が静かに眠っていた。


ヴェーラは窓側の壁にそっと身体を預け、無防備に目を閉じている。

銀の髪が肩を伝って落ち、胸の小さな上下が寝息に合わせて柔らかく動く。


(うわ……ぁ)


危うく声に出るところだった。

ここまで間近で、こんなに長くヴェーラの寝顔を眺める機会なんてまずない。


ケンジは、長いまつ毛の一本一本まで数えられるほど、食い入るように見つめていた。


(か……かわいい。いつも可愛いけど、寝顔は桁が違う……破壊力やばい)


控えめな胸が、規則正しく上下する。

軽く触れたら壊れてしまいそうな、小さく柔らかい身体。


ケンジは伸ばしかけた手を自分で止めて、代わりにブランケットをそっと肩までかけ直す。


その瞬間——


ヴェーラの唇が微かに動いた。


「……とう……さ……」


誰かを呼ぶような、かすれた声。

夢の中にいるのだと察したケンジの胸がじんと熱くなる。


(……夢、見てるんだ)



ケンジは触れたい衝動を押し込み、彼女の手に触れないギリギリの場所にそっと自分の手を置いた。



ヴェーラの寝息だけが車内に優しく満ちていた。







ヴェーラが父の夢を見る理由は、いつだって“あの日”へ戻るからだ。


——イーゴリが家に来た日のこと。


ヴェーラは、家に来たばかりの少年にとにかく普通に接した。

だが、捨てられた犬や猫のように警戒した金色の瞳は、必要最低限の言葉しか発しない。


父に言われたとおり、余っている2階のゲストルームへ案内すると、少年はまるで城に迷い込んだ野良猫みたいに立ちすくんだ。


掃除の行き届いた8畳の部屋。

清潔なシーツ。

簡素だが整った机とベッド。


ほんの普通の客室——

しかし、3か月以上も馬屋を寝床にしていたイーゴリには、目眩がするほど贅沢だった。


団長の娘のヴェーラは当時まだ子ども。

細く小柄で、折れそうなほど華奢な体つき。

南部では珍しい淡い青い瞳と、光を放つ銀髪。


イーゴリは一瞬、心の底で呟いた。


(……金平糖の……精霊みたいだ)


おとぎ話のバレエで見た、光のなかの踊り子。

その印象がふと胸に浮かんだ。


ヴェーラは小さな足音で家事をこなす。

パタパタと子どもっぽいリズムが家中に響く。


初めて一緒に迎えた夜、ヴェーラに促されて風呂に入ると——

湯は、茶色く濁った。


騎士団の馬屋で寝起きし、身体を濡れ布で拭くだけの日々。

“汚い”“臭い”と言われていたが、それが意地悪ではなく事実だったと初めて知る。


雑用係のイーゴリには、拳と蹴りが日常だった。

第七騎士団は穏やかと評判だが——

住む場所を失った瞬間、人の態度は豹変した。


独身寮の家賃が払えなくなり、馬屋に寝泊まりするようになった頃から、イーゴリは「何をしてもいい玩具」へと堕ちた。


大人の暴力は、子どものいじめとは比べものにならない。

衣服で隠れる場所ばかり殴られる。

背中、腹、二の腕、太もも——


痣のない場所を探す方が難しかった。


人は、ここまで残酷になれるのか。


(……ああ、もう……どうでもいい)


生きているのも苦痛で、思考は麻痺し始めていた。


そしてある日。


剣磨きをしている首謀者の騎士の背後。

イーゴリは、無意識のうちに剣を振りかぶった——


——そこまでしか、覚えていなかった。



気がつくと、第七騎士団の団長が自分の手を引き、草原以外の何もない田舎道を歩いていた。


風に揺れる青々とした牧草地。

落ちていく夕日に照らされ、青から金色に色を変える。


なにもない平原に、ポツンと三角屋根の小さな家が温かな光を灯していた。



ボリス・メドヴェージェフ



それが、ヴェーラの父であり…イーゴリの人生の師となる男の名だった。





騒然とした馬屋前で、

傷だらけの少年イーゴリは地面に膝をついていた。


剣を振りかぶった形跡。

返り討ちにされ、口のなかを切ったのか微かに唇が赤い。


周りには、彼を日常的に玩具にしていた騎士たち。

その全員がイーゴリを地面に押し付け「処罰だ」と騒ぎ立てていた。


その前に——

ゆっくりと大きな影が立った。


ボリス。



第七騎士団の頂点に登りつ、50近い壮年の大男は騒ぎ立てる部下達をわざと重々し見据えた。


肩幅は広く、腕を組むだけで空気が張りつめる男。


しかし、目は冷静に状況を見据えていた。


イーゴリは、生きることを諦めたような空虚な目でボリスを見上げている。


ボリスが来るまで数人がかりで袋叩きにあい、すでに顔は殴打で腫れ上がり、身体には力が入っていない。


人形のように押さえつけられ、細い体はきしんでいた。


イーゴリの剣で肩に深い傷を負った屈強な騎士は、怒りで我を忘れて思いつく限りの罵詈雑言を浴びさせていた。


再び拳や手でイーゴリに制裁を与えようとするその男に、ボリスはわざとその間合いに入った。


一言も発さず、単に一睨みする。


それで、十分だった。



ボリスから放たれる殺気の渦に、興奮は瞬時に冷え切る。


不用意に近寄れば、この男の間合いでどうなるか分からない恐ろしさがあった。


温厚な第七騎士団の団長の姿は、影となった。





「ああ…そうだ。こいつは“大罪”を犯した。」



イーゴリを見つめたのち、ボリスは周りをぐるりと囲む騎士たちに言った、


ざわり、と周囲が騒ぐ。


ボリスは構わず続ける。


「目上の騎士を殺そうとして剣を振るった。

 肩の肉をそぎ落としたんだったな?……いけねぇな。」


イーゴリを軽く睨むように見下ろし、

次に、周りの騎士たちへと視線を向けた。


その目つきは、獣のように鋭い。


沈黙が走る。


「——だが、“な”。」


一拍置いたその声は、怒号よりも重かった。


腕を大きく組みなおし、

周りの騎士たちを一人ひとり確かめるように睨む。


「イーゴリを罰したいならよ。

 “お前らがこいつに一度も手を出してねぇ”って胸張って言える奴だけ、前に出ろ。」


誰も動かない。


沈黙がつつみ、風の音すら聞こえる。


ボリスの声がさらに低く落ちる。


「どうした。誰かいるだろうが?」


誰も前に出ない。


イーゴ リを殴り続けていた男たちは、

薄い汗を滲ませて視線を逸らす。


その瞬間、ボリスは吐き捨てるように言った。


「てめぇらは、こいつを“好きなように玩具にして”こき使ってたんじゃねぇのか?」


鋭い静寂。


「自分達が散々やってきた事を棚に上げて、

 都合よく“処罰”だと? 笑わせんな。」


“ドスッ”と重い音が響く。


ボリスが地面を拳で軽く叩いたのだ。


それだけで、周りの騎士たちはビクついた。


「このガキは確かにやりすぎた。

 だが、その前にてめぇらがもっとやりすぎてんだよ。」


斬りつけられた騎士が何か言おうと口を開いた瞬間——


「まともな反論できんのか?」


たったそれだけで、男は口を閉じた。


ボリスはイーゴリの前に立ち、ぼそりと言う。


「お前は連れていく。」


「…………」


イーゴリがそこでかすかに目を見開く。


その顔を見て、ボリスは初めて今日、“優しい声”を出した。


「安心しろ。俺の家なら飯も布団もある。」


そして付け足す。


「あと……殴りてぇ奴がいたら、先に俺がやる。」


その言葉に、騎士たちは凍りついた。


ボリスは少年をかばうように立ち上がる。


「こいつは今日から、俺の家族だ。

 手ぇ出したら……わかってんだろ?」



逃げるように騎士たちが散っていく。


夕暮れの光のなか、ボリスはイーゴリの肩を支え、馬屋から離れた道をゆっくり歩き出した。


しばらく沈黙が続いたあと、ボリスは静かに口を開いた。


「……給与は出てたはずだ。

 なぜ寮の家賃が未納になる?」


イーゴリはうつむいたまま、答えない。


短い沈黙。


風に揺れる草原の音だけが響く。


やがて少年は小さく息を吐き、乾いた声で言った。


「……家賃が高すぎる。残った金じゃ、まともな食事もできない。だから……出ました」


その横顔は、十四歳とは思えないほど影が濃かった。


ボリスは少し眉をひそめる。


「お前、まだ十四だろ。見習いのうちは、普通は親が少し援助するもんだ。皆そうしてる。」


——その一言が、イーゴリの目をさらに暗くした。


まるで心に触れてはいけない場所を突かれたかのように、

少年の瞳から一瞬で“色”が消える。


そして、低く、冷たく言い放った。


「……親なんていません。」


ボリスが立ち止まる。


イーゴリは前を向いたまま。


「まともな親なんて、最初から。」


声は震えていないのに、言葉の奥に沈殿している孤独だけがはっきり伝わる。


ボリスはゆっくり歩みを再開しながら、横顔をうかがう。


少年は続けた。


「俺が……第一騎士団に入れなかった時点で、とうに見放されました。

 ご存知でしょう?俺の父を。」


その名を口にするときだけ、イーゴリは獣みたいな目をした。


悔しさでも、怒りでもなく。“捨てられた子どもの痛み” の色。


同じメドヴェージェフの一族であり、ボリスは血気盛んで野心に満ちたイーゴリの父をよく知っていた。



ボリスは息を吐き、

ぽつりと、しかし決して少年を突き放すようではない声で言った。


「……そうか。」


ただ、それだけ。


責めもしない。慰めもしない。


だがその一言には、

“お前の言葉をまっすぐ受け取った”

“逃げない”

という、大人の覚悟があった。


そして。


「なあ、イーゴリ。」


「……何ですか。」


ボリスは空を見上げ、少し笑った。


「家賃が払えないなら、うちに住めばいい。

 馬屋よりは、ずっとマシだろ?」


イーゴリは驚くでもなく、怒るでもなく、

ただ、ぽつりと呟く。


「……どうして、俺なんかを。」


ボリスは——

まるでそれが当たり前の答えであるかのように言った。


「助けられる時に助けねぇ大人は、

 あとで後悔するんだよ。」


風が吹き抜け、

少年の褐色の髪がわずかに揺れた。


それはほんの一瞬だったが、

イーゴリの目から“絶望の色”がかすかに薄れた。






次の更新は金曜日予定です

よろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ