2.新任書記官
【元留学生東洋人 】
祖国は東洋の小さな島国。
そこで、18歳になるまで育った彼は、世界をみるためにとある王国へ留学することにした。
幼い頃から、好奇心旺盛。
多くの人や物。そして国の歴史に文化。
それらを余すことなく、吸収していきたい。
そんな思いで旅立った。
それから、2年。
王国が諸国との戦争を休戦状態にし、僅かな平和の期間で彼は次の段階へ進む。
就職である。
祖国ではごくごく平凡な名前「サトウ・ケンジ」
彼の新しい生活が、始まろうとしていた…。
※
ケンジは、初めて袖を通した騎士団文官の制服に、まだ少し落ち着かない心地を覚えていた。
深い緑の上着は一見すると質素に見えるが、よく目を凝らせば細やかな刺繍が施され、飾りボタンが歩くたびにわずかに鳴る。
その音すら新鮮で、まるで自分が別世界に足を踏み入れたようだった。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
館内の広い石造りの廊下、足音が反響する荘厳な天井。
祖国の木造家屋では到底味わえなかった威容に、ただ圧倒されるばかりだった。
三階の窓からは王宮と大聖堂が一望でき、鐘の音に重なるように中庭から鳩の群れが舞い立つ。
目の前に広がる光景に、彼の胸は高鳴った。
「王都は初めて?」
先を歩く上司、ウラジミールが振り返って問いかける。
「ええ! 今までは東部にいました。あ、祖国も東の小国なんですが」
「東部か。確かに向こうは大学も有名だ。君は、二年で卒業したとか」
ウラジミールの口元がわずかにほころぶ。
彼は背の高い白髪混じりの男で、今日からケンジの上司にあたる上級書記官である。
ケンジは頭をかき、少し照れたように笑った。
「いやぁ、僕には四年より二年で終える方が合っていたみたいで。早く働きたかったんです」
その言葉は誇示ではなく、本心からの素直さだった。
彼の明るさと人の良さは、同時に隠しきれない才覚を滲ませている。
だからこそ、この場に立つことができたのだ。
「第二騎士団の文官は人手不足でね。君が一生けん命働いてくれたら助かるよ」
「はい!至らない点もあるかと想いますが、よろしくお願いします!」
元気な声に「結構結構」と上級書記官はほほ笑みながらさらに言った。
「頼むよ。何せここには私と君と、あともう一人の三人しかいないからね」
「……三人、ですか?」
思わず足を止め、ケンジは目を丸くした。
第二騎士団――王都に駐屯する七つの騎士団のひとつ。
その団員はざっと百五十名にも及び、王国でも屈指の戦力と目されている。
その膨大な報告書や記録を、これまでたった二人の文官で回してきたというのか。
「えっ……すごいですね。本当に大丈夫なんですか!?」
驚きと敬意の入り混じった声に、ウラジミールは顎を撫でて「ふむ」と笑った。
「なんとかなるものなのだよ。……もう一人の子はね、確か君と同じ年齢だったはずだ。このあと紹介しよう。団長のイーゴリ様の直属で、第二騎士団の文官としてはかなり優秀だよ」
ケンジは思わず感心した。
自分と同じ歳でありながら、すでに二年もの実務経験を積んでいる――。
どんな人物なのだろう、と胸の内に小さな期待が膨らむ。
※
騎士団長の執務室の隣にある書記官専用の部屋へ案内される。 八畳ほどの広さは質素ながらもよく整えられていて、濃い木目の家具が落ち着きを与えていた。
(あ、いい部屋だな……)
ケンジはそう思いながら、入り口に足を踏み入れると同時に、いつもの癖で深々と頭を下げた。
「はじめまして!」
「ヴェーラくん。ただいま帰ったよ」
ウラジミールが声をかけた人物の後ろ姿が目に入った瞬間――ケンジはなぜか、その光景をスローモーションで覚えていた。
細く華奢な背中は、制服越しでもわかるほど美しい曲線を描いていた。
緑色の詰襟の制服から伸びた白いズボンの脚はすらりと長く、しかしどこか小柄で可愛らしい。
銀色がかった髪は無造作に一つに束ねられ、小さなお団子がうなじにちょこんと結ばれている。
呼吸を忘れた。
振り返ったその顔は、人形のように整って小さく、淡い青い瞳がまっすぐこちらを見つめる。 胸の奥で、心臓が急に音を立て始めた。
(なんだ、この人……。ただきれい、ってだけじゃない……不思議な、引き寄せられる感じが……)
この国の女性は皆、美しいと聞いていた。
だが「ヴェーラ」と呼ばれた彼女は――どこか現実離れしていて、目を逸らせない。
例えるなら、そう……
「こ……金平糖の精。みたいですね」
気づけばケンジは赤面し、ほとんどうわ言のように口走っていた。
突然の言葉に、隣にいたウラジミールの目が丸くなる。
きょうをつかれた目の前の彼女は「え…?」と小さく言った。
「いやはや、なかなか詩的な口説き文句だ」
「え!?…あっいや!口説くとかじゃなくて!すすすすっすみません!ケンジ・ サトウです!」
目の前の浮世離れした彼女を見たせいで、生きてきた中で最も心臓が高鳴り、まともに顔を見る事すらできなかった。
何度も頭を下げてお辞儀をする東洋人に、ヴェーラは珍しく下を向きうっすら頬を赤くさせて胸元に手を置いた。
そのまま、服の中にしまい込んだなにかに頼るかのごとく握る仕草をする。
(今のって…)
ヴェーラの記憶の中にふと、初対面で同じ台詞を吐いた人がいた。
『ーーー…君、金平糖の精みたいだ』
しかし、彼女はすぐにそれを打ち消した。
「そんなに謝らないで結構です」
初めて聞いたヴェーラの声は、実に機械的で何の感情もこもっていなかった。
慌てるケンジをよそに、サッと立ち上がった彼女は静けさを取り戻した顔で手を差し出した。
「ヴェーラ・メドベージェワです。共にがんばりましょう」
※
ウラジミールは午後の会議に出席するため、ケンジへの案内はここまでとなった。
「なにか分からないことがあれば、ヴェーラくんに聞き給え。彼女が分からないことはないし、あとちゃんとマニュアルがあるからね」
「はい!凄いっこんなものまで用意してくださったんですか?」
渡された分厚いマニュアルを見て思わず目を見張った。分かりやすい書式で統一され、シンプルで見やすい。
学生時代に簡単な事務処理のアルバイトをしていたが、マニュアル不在でかなり苦労した。
「いやいや。これは、イーゴリ様が作ったんだよ。あの方はこういうの得意だから」
「イーゴリ様…?え。騎士団長直々に命じられてお二人が今日のためにご苦労されたのですか?」
騎士がペンを握るイメージが無かったため、思わず言った。
ケンジは持ち前の頭の回転の良さで、ヴェーラとウラジミールに仕事の負担を与えてしまったかと、申し訳なさそうにする。
その反応に2人は顔を見合わせ、ウラジミールは苦笑した。
「いや、イーゴリ様が本当に1人で書いてお作りになったんだよ」
「ええ!?」
思わず目をひん剥き、大きな声が出た。
(これを全部で!?そんなことできるのか!?)
簡単な辞書一冊分ほどの膨大なマニュアルの内容に、大学で数々のレポートを書き上げ、飛び級するために無茶な勉強の仕方をしたケンジ。
これを一人でやれと言われたら、胃が痛くなる思いだと青ざめた。
「す、凄すぎやしませんか!?こんなの、一人でやるレベルじゃない!」
「ああー…まぁ、そうだよね。2年前に団長になった時に、書式の統一感が無い!と、苛立ってね。バーっとやってしまわれた」
「バーっと…て」
「とっても頭は良い方なので」
ヴェーラは何か含みのある感じで、こちらを見ずに言った。
「…あなたの事、気に入りそう」
「ああ、それは私も思った。挨拶しに行っておいで。午後から騎士達の訓練でここには居なくなるから」
※
第二騎士団本部の奥、団長執務室の前に立ったケンジは、ごくりと唾を飲み込んだ。
目の前の扉は重々しく分厚い木製で、金の装飾が鈍く光を反射している。
(お、おっきい扉だな……。中には団長が……!)
胸の鼓動が早鐘のように響く。
右手を上げ、ぎこちなく拳を作って扉を叩いた。
「し、失礼します! 新任の文官、ケンジ・サトウです!」
ケンジは扉を開けた瞬間、思わず後ずさった。
目の前で、イーゴリは屈強な体を椅子に深く沈め、メイドを自分の膝に座らせていた。
笑みを浮かべながら、メイドの腰に手を回し、小刻みに身体を揺らしている。
「ははっ、そうだ、こっちを向け…いいぞ」
甘い声と、微かに響く机の振動。部屋全体がその感覚に微かに揺れ、ケンジは思わず目を逸らす。
(……な、なんだこの人……!)
声も出せず、ただ立ち尽くすケンジに気づいたのか、イーゴリはちらりと視線を向けた。
クビだけを動かし、イーゴリがこちらを観察している。
大きな身体、鍛え上げられた腕と胸筋、整った顔立ち――それでいて、瞳は冷静で余裕に満ちていた。
「ああ、そうだったか!この時間に来るって言ってたな!」
メイドと密着したまま笑う声は軽やかで、しかしどこか支配的。
彼女の髪を軽く撫で、腰のリズムを調整する仕草は、遊びというより巧みに楽しんでいるようだった。
(…な、なんでそんなに飄々としてるんだ!?)
ケンジの頭は真っ白で、息もつけず、その場に固まる。
その時、ヴェーラが部屋の片隅から落ち着いた声で言った。
「イーゴリ様。職務中くらい沈めてください」
イーゴリは一瞬、動きを止める。メイドを抱えた腕を緩めず、しかし瞳はヴェーラに向けられた。
ケンジは、その二人の間に流れる緊張と信頼のようなものに圧倒される。
ケンジの心臓は高鳴り、赤面したまま、言葉も出ない。
彼の目に映ったのは、圧倒的な存在感を持つ男と、それに毅然と立つ少女の光景だった。
※
ケンジは全身を震わせながら、なんとか体勢を整えた。口を開くと、声はかすれてほとんど呟きになった。
「え、えっと…はじめまして…僕、ケンジ・サトウと申します……」
イーゴリは膝に座らせていたメイドをそっと片隅に避け、屈強な体を伸ばしてにやりと笑った。
「ふん、来たか。…新しい文官だな」
その笑みは、どこか遊び心を含みつつも、確かな威厳があった。
笑っているが彼の目は鋭い。ケンジは思わず目をそらしかける。
(この人、単なる上司じゃない……)
圧倒されるが、どこか飲み込まれたくないと気持ちが強くなる。
ケンジは深呼吸を一つして、声を少しだけ強めた。
「はい、どうぞよろしくお願いします。至らぬところもあるかと思いますが、精一杯務めます」
頭を深々と下げたその瞬間――イーゴリが声を弾ませた。
「ウラジミールめ。女性書記官と聞いていたのに……俺が手を出すと思ってケンジに変えたな!?」
「て、手を出すっ!?」
ケンジは思わず声を裏返し、反射的にヴェーラの方を見た。
しかし彼女は無表情のまま書類を整理し、こちらを完全に無視している。
(も、もしかして……彼女にも手を出してるのか!?)
変な汗が背中を伝った。
だが次の瞬間、イーゴリは歯を見せて笑った。
「俺は幼児体型は駄目だ。……ケンジ、かわいい奴だな」
あまりに飄々とした言葉に、ケンジは再び真っ赤になり、声を失った。
イーゴリは腕組みをし、軽く顎を引いてケンジを観察する。
「ふむ、素直そうだ。…悪くない」
その一言で、ケンジの胸は少し緩んだ。
まだ完全に心を開いたわけではないが、何とか自分がここに立つ理由を受け入れられそうな気がした。
(…思ったよりも怖くないかもしれない。いや、でも油断はできない)
ケンジはその思いを胸に、制服の襟を直す。光沢のある深緑が、わずかに反射した。
「さて、まずは書類の整理と、今後の業務について説明しよう」
イーゴリは言葉少なに、しかし的確に動く。
長年の指揮経験が滲み出るその仕草を見て、ケンジは心の中で小さく感嘆する。
(この人の背中の影を見ながら働くのか……かなり緊張するな)
それでもケンジの瞳はまっすぐ前を向き、初めての執務室で、初めての文官としての一歩を踏み出した。




