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女神の護符  作者: のはな
第二章
26/83

10.女々しい歩調と、地獄の食事会へ。


上級書記官の試験研修が終わり、ヴェーラは腕時計を見た。


もう十四時。


イーゴリが“あの食事会”へ向かう時間が迫っている。


彼がその場をどれほど嫌っているか、誰よりも知っていた。


せめて行く前に、顔を見て、声をかけたい――そう思った瞬間、足が勝手に動いていた。


分厚い教科書を抱え、王宮の中庭を突き抜けると、緑屋根の館が見えてきた。


息を弾ませ、ヴェーラは近道となる坂を駆け上がった。

砂利道を彼女の細くて華奢な足が蹴り、書記官の制服の紺色のズボンにドロが少し跳ねた。


一心不乱に走ると、坂の上に見慣れた背格好の男が見えた。


背が高く上背のある背中。

紺色のロングコートからも、鍛え抜かれた筋肉を包んでいるのがわかる。


いつもとは違う洗いざらしの髪は風になびき、さらさらと揺らいでいた。


全力で体を動かし走るヴェーラは、心臓を全身で感じながら動いた。


ヴェーラの淡い青い目は男を捕らえ、声を出す。



「イーゴリ…!」



一緒に住む部屋の中でしか、呼び捨てにしたことはない。


しかし、つい口に出た昔の呼び方だった。


振り返った男の顔に、かつて共に過ごした若い少年時代の欠片を見た気がした。


騎士団長ではない、顔。


どこか傷付きやすい素直で優しい心を持った、無垢な瞳がこちらを向いていた。




坂を駆け上ると、直ぐに限界が来ていた。


ヴェーラはイーゴリの名前を呼び、教科書をかかえながら肩で息をしてその場で見つめるしかできなかった。


(ま…間に合った…?)


振り返ったまま何も言わないでいる彼に、ヴェーラも苦笑した。



「…ご、ごめんなさい。もう、行くのに…引き止めて…っ」


普段は軽口ばかり叩くが、酷く無口なイーゴリの雰囲気に、やはり食事会への感情が関係して居るとわかる。


「あと…運動不足なだけなの。気にしないで…」


脚がガクガクしてきた。

苦笑し、汗で前髪が顔に張り付く。ヴェーラは手の甲でぬぐって、自嘲気味に笑った。



「無理しないでね…」


口を出た言葉は本当にたわいもないものだった。

もっと色々と優しい言葉で励まし、不安なイーゴリを安心させたかったのに。


一緒に住んでいても、最近はほとんど内面に踏み込んだ会話はできていない。


イーゴリから感じるのは、あからさまな距離感だ。


それでも、昔の彼がどれほど家族に失望していたか知っている。


ヴェーラは何も言わない無表情のイーゴリに、勇気を出して微笑んだ。


「ごめんなさい。一緒に行きもしないのに…こんなのこと」


「……いや、ちょっと期待してた」


きっと何の反応も無いだろうと諦めていたため、不意に返された言葉は意外すぎた。



「え?」


「……行く前に、お前に会えないかって。わざとゆっくり歩いてた。…女々しいだろ?」



イーゴリは目を逸らしたまま、信じられない言葉をそのまま投げてきた。

その瞳の奥に、ほんのわずかに甘い揺らぎが見えた。


――わざと。


ヴェーラは、それがイーゴリの口から出た言葉だとは信じられず、しばらくぽかんと立ち尽くした。


二人が南部から王都へ来て以来、イーゴリが彼女に感情をのせた甘い言葉を口にしたことは、一度もなかった。


あったとしても、それはあくまで保護者としての言葉。

彼は常に見えない境界線を引き、ヴェーラを踏み込ませまいとしてきた。


だからこそ――今の一言が、あまりにも感情を揺さぶってくる。


どう反応していいか分からず、ヴェーラはただ頬を赤くするしかなかった。



その顔を横目でイーゴリは確認するが、相変わらず伏し目がちで顔もほとんど変わらない。



「……深い意味はない。忘れろ」


見せた感情にすぐ蓋をし、イーゴリは再び背を向けて歩き出した。


ヴェーラは何も言わず、その背をただ見つめていた。

少しの沈黙が流れ、風が二人の間を通り抜ける。


そのとき――

「……ありがとうな」


不意に、低く掠れた声が聞こえた。

去っていく背中が微かに震えているように見えた。

それは、気のせいだったろうか。





ーーーヴェーラにかけた言葉は、あまりにも感情を見せすぎたかもしれない。


目の前に運ばれてきた前菜を口に入れる。だが、何の味もしなかった。


イーゴリはゆっくり咀嚼し、父の声を聞き流しながら曖昧な相槌を打つ。


本日の話題は、父の勤める宮廷中央騎士局がいかに権威に満ちているか。


食べ物の味もせず、注がれたワインの香りも遠い。

目の前の豪奢なレストランも、薄い霧の向こうのように霞んで見えた。


(……何であんな言葉をかけた。馬鹿馬鹿しい)


出る前に見たヴェーラの顔が、頭から離れない。


無機質な表情には見慣れていたが、あのときの彼女は違った。


頬を染め、目を潤ませ――あの頃の少女のように。

すべては、自分の甘さゆえだ。


彼女とは距離を取る。


恋愛感情も、個人的な情も与えない。


特別仲良くもしない。


そう誓ったはずなのに――。



母の皿のバケットが残り少ないことに気づき、イーゴリは給仕を呼んで新しいものを頼む。


その手つきは完璧で、いつもの礼節を欠かさない。


(くだらない。ヴェーラとは、もうあんなふうには話さない。……絶対に)


母に微笑み、ワインを口にする。


喉を通る冷たい液体だけが、唯一の現実だった。


飲みすぎれば下品だと知っていても、止められない。


脳裏に、走る彼女の姿と赤く染まった頬が交互に浮かぶ。


強い酒で、思考を一瞬でも止めたくなる。




「……聞いているか? イーゴリ」


現実の中で、父の低い声だけが彼を引き戻した。


イーゴリはゆっくり顔を上げる。

自分とよく似た初老の男――その眼差しは、冷たい観察者のそれだった。


視線を合わせた瞬間、イーゴリは言葉の裏にわずかな苛立ちを感じ取った。


(……相変わらず鋭いな)


適当に受け流していたことを、どうやら見抜かれたようだ。


だが、イーゴリは悪びれない。

父の感情にいちいち付き合っていては、こちらの心が先に磨耗する。


当たり障りのない笑顔を仮面のように貼り付け、父の視線を包み込んだ。


「……はい。勿論、先ほどから感心しておりました。

 私のような戦場しか知らない者には、到底想像できないご苦労です」


「ふん。適当に流していたくせに」


「まさか。お話が多岐に渡っていたので、ただ感心していたんですよ」


「タヌキめ」


辛辣な言葉で刺されたが、声の端にはわずかな甘さが混じっていた。

褒められた父も、まんざらではないのだろう。


イーゴリはわざと苦笑して母へ視線をやった。


母は、相変わらず穏やかな笑みで場を取りなそうとしている。


一人息子しか産めなかった負い目があるのか、いつも父に従順だった。


その若々しい美しさは、二十歳を超えた息子を持つ母親には見えないほどだった。


細身で肌は白く、しっとりとした上品な色気がある。淡い金髪もほとんど白髪がない。


父とは10も年も違わないはずだが、一見するとひと回り以上差があるような外見だ。



父と母は、珍しい恋愛結婚だという。

おそらくは、父の強烈な恋愛感情が後押ししたのだろう。

そのあたりは、息子として特に興味のない部分だ。


ただ一つ、確かなのは——


子供が一人しか産めなかった母を、父は見限らなかったということ。


他に女を作ることもなく、今も形式上は一途だ。


だからこそ、イーゴリは思う。


母への支配は、愛情の延長なのか、それとも支配欲そのものなのか。


なだめる母に対し、父はいつも冷たく睨むだけだった。






















ちょっとだけ、ヴェーラ登場できました。


イーゴリの地獄は、赤面したヴェーラと両親との食事会どちらも。


感情を押し殺す感じは次回も続く予定です。

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