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女神の護符  作者: のはな
第二章
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8.「どちら様ですか?」髪下ろしのイーゴリ。不仲の両親元へ?

断ち切りたい。

行きたくない。


イーゴリの正直な感情を言えば、その一点に尽きた。

だが、そんな単純な理由で済むほど、親という存在は軽くなかった。


鏡に映るのは、第二騎士団団長――いや、誰もが羨む「英雄」の顔。

肩章に刻まれた金糸の紋章が、やけにまぶしく見える。

母は、こういう服装を好む。

父は、こういう髪型を褒める。


(……めんどくせぇ)


ため息とともに、せっかく整えた褐色の髪をわざとぐしゃぐしゃにした。

団長服も脱ぎ捨てる。

完璧な息子を演じる気力は、もう残っていなかった。


それでも、最低限の礼儀として身体だけは清めようと、騎士団専用の浴場へ向かう。

扉を開けると、石造りの床に湯気が立ちこめ、硝子越しに冬の光が柔らかく差し込んでいた。


熱いシャワーを浴びながら、イーゴリはぼんやりと天井を見上げる。

流れ落ちる湯の音が、戦場の雨音に似ている気がした。


(戦う方が、まだ気が楽だ)


敵なら、剣を振るえばいい。

命のやりとりの方が、ずっとまっすぐで分かりやすい。

だが、親子というのはどうしてこう、複雑で、面倒で、痛いのか。


湯気の中、鏡に映る自分の身体。

幾度の戦を経て刻まれた無数の古傷と、鍛え抜かれた筋肉。

胸には銀色に鈍く光る女神の護符が、いつものようにかかる。


あれほど泣き虫だった子供が、いつの間にか誰もが頭を下げる「団長」になっていた。


(母は、今年も“立派になった”って言うんだろうな)


洗髪と共に顎を見やり、剃り残し髭を泡と共に剃る。

粗暴な雰囲気を残したくて、いつもはここまで丁寧に顔は整えない。


周りからはよく、身体も顔つきも年齢よりは高く見えると言われる。

それでも、髪を下ろし顔を整えると、年相応にしか見えない元優男の顔がのぞく。



(父は、“よくやっている”と口だけで言うんだろう)


鏡の中で、湯気の向こうに一瞬だけ、少年の面影がよぎる。

泣き虫で、剣より本ばかり読んでいた頃の、自分。

母の膝の上で髪を撫でられ、父の背中を追いかけていたあの日の――。

刃を止めずに、そっと目を伏せる。


(……もう、遠いな)


泡を流すと、そこに映るのは見慣れた“団長”の顔だった。

もう誰も、あの頃の自分を知る者はいない。


心のどこかで、まだあの言葉を待っている自分がいる。



“お前を誇りに思う”――たったそれだけで、どれだけ救われることか。



けれど、そんな言葉を今さら期待するなんて、愚かだ。

イーゴリは冷たい水に切り替えて、頭から一気に浴びた。


「……さっぱりした。

 行くか、地獄に」


誰もいない浴場に、低く乾いた声が響いた。




その日、団長のイーゴリはめずらしく午後から半日の非番…半日の有給という予定であった。


珍しい勤務状況に、ケンジも朝から何故か落ち着かない。

イーゴリは基本的に、カレンダー通りの勤務である。

平日はほぼ勤務し、週末も何かと理由をつけて午前か午後こちらに顔を出す熱心ぶりは常に騎士団と共にいる姿勢が感じられた。


いわゆる…


(ワーカホリックの団長が珍しい。それにさっきシャワーを浴びに行ったし……)


ケンジは机に肘をつき、報告書の書類の隙間からちらりと浴場の方角を見やる。


外は静かな冬の午後。


団長室の扉が開く気配に、無意識に視線を上げた。



ケンジが顔を上げると、そこに立っていたのは――


「……どちら様、ですか?」


思わず本音が口を突いて出た。


そこにいたのは、イーゴリ……のはずだ。

だが、普段の彼とはまるで別人。


きっちり撫でつけていた褐色の髪は下ろされ、額に少しだけかかっている。

団長服ではなく、柔らかな生地のシャツとコート。

戦場の獣ではなく、どこか普通の青年のような姿だった。



光を受けて少しだけ波打つ褐色の髪。

琥珀の瞳は冷たさを潜ませたまま、穏やかに笑っている。


まるで――王都の通りで見かける、上流階級の青年貴族。


いや、それよりも洒落ていて、抜け感がある。


「……団長、すみません、

 一瞬、別の誰かかと思いました」


イーゴリが無言で肩をすくめる。


「休日だ。たまにはな」


「……ええと……なんか、“王子”みたいですね」


「やめろ、気持ち悪い」


イーゴリは苦笑して、コートの裾を払う。

香りがふわりと流れた。

柑橘とウッドが混じった、控えめで上品な香水。


(……ずるいだろ、こんなん)


ケンジは心の中で頭を抱えた。


軍服のときは威厳と力強さ。


こうして髪を下ろすと、穏やかな大人の色気。

どこに出しても“絵になる男”。


「……団長、まさか親御さんとの食事会って、

 “女の人の両親”とかじゃないですよね?」


「俺の両親だ」


「ですよね……ですよねぇ……」


「何だ、その安堵の顔は」


「いえ、“この格好”で女性の家に行ったら、

 何人の男が絶望するかと思ったもので」


イーゴリは鼻で笑い、シャツのボタンをひとつ留め直した。


「大丈夫だ。家族とメシ食うだけで、口説くわけじゃねぇ」

「えぇ、でも見た目は完全に口説きに行ってますよ……」


ケンジのぼやきを背に、イーゴリは片手を上げて歩き出す。


その時、執務室に入ってきたケンジの上司のウラジミールも普段とはことなる団長をみて、一瞬だけ珍しいものを見る目つきで固まった。


ケンジとは違い彼のほうが、イーゴリとは付き合いはながい。

が、40過ぎのこの冷静沈着な男でも、イーゴリの年相応の姿には「何事か?」と顔に書いてある。


イーゴリは苦笑。

これからこの騎士団の舘を出るまでに、いったい何人の騎士やその関係者に同じ顔されるのだろうか。


仕事を午前だけして両親に会いいけば、重い足もすこしは軽くなると思っていた。

しかし、思わぬ反応の繰り返しで、逆に気を使う羽目になった。



「午後の訓練はメニュー通り勧めてくれ。悪いな」



琥珀色の瞳がふっと光を受け、

街の石畳に消えていくその背は――

騎士団長ではなく、ひとりの青年の姿だった。


イーゴリの内面を前回に引き続き、描きました。

なんだか、私も緊張…。


ちなみに、ヴェーラは長年イーゴリと住んでいるため、彼が両親と不仲なのをしっています。


次回は、イーゴリの地獄の食事会(笑)?です。



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