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女神の護符  作者: のはな
第二章
20/83

4.上級書記官になるためには〜ケンジの恋の自覚?〜

その夜、第二騎士団の執務室にはいつもより静かな空気が漂っていた。

壁のランプが二つ、ぼんやりと明かりを投げている。


ケンジは机に向かい、書類の束と格闘していた。

外はすでに夜。

他の職員は皆帰り、廊下にも人気はない。


(……こんな日に限って、残業か)


肩を回しながらため息をついたその時――

「ケンジさん」


背後から呼ばれ、ペンを持つ手が止まった。


振り返ると、扉の陰にヴェーラが立っていた。

白いシャツの袖を少しだけ折り、束ねた髪が首筋に落ちている。

彼女もまた、書類を抱えていた。


「……あ、あの、ヴェーラさん」

一瞬で心臓が跳ねる。

三日ぶりにまともに話せるチャンスだった。


ヴェーラは視線を伏せたまま、隣の机に書類を置く。

「団長の決裁印が必要なものが多くて、今夜中に整理しておこうと」

「そ、そうなんだ……俺も残業で」


気まずい沈黙。

紙の擦れる音だけが部屋に響く。


ケンジは思い切って、口を開いた。

「……この前は、ごめん。

 疲れてるなんて言って……その、失礼でした…」


ヴェーラの手が止まる。

わずかに目を見開き、それからゆっくりと笑った。

「……いえ。私の方こそ、言い過ぎました」


それだけで、張りつめていた胸の奥が少しほぐれる。

だが、すぐにその笑みは消えた。


彼女は書類を揃えながら、ぽつりと呟いた。

「ケンジさん……私、団長の下で働くのは“特別”なんです」


「え?」


「ただ……イーゴリ様に、仕事を手伝ってほしいと頼まれて、この仕事に就きました。

 試験も受けていない。正規の採用ではないんです」


ケンジは目を瞬いた。

「……え、でも君、優秀だし。書記官の試験って普通に受けて通るだろ?」


ヴェーラは小さく首を振る。

「そうじゃないんです」


視線が揺れる。


「団長が、私を……“ここに置いておきたい”と。それだけで決まったんです」


「……置いておきたい?」


その言葉の響きに、胸の奥がざわつく。

彼女はまっすぐに答えなかった。

代わりに、静かに付け加える。


「……団長には、恩がありますから」


それ以上は何も言わず、黙々と書類を閉じた。



「……私は、本当はここに要られる資格なんてないんです」


小さな声が、書類の間に落ちた。

夜の執務室。

窓の外は暗く、ランプの灯だけが二人の顔を照らしている。


ヴェーラは書類を束ね、ケンジの隣に静かに腰を下ろした。

「実力不足の人間なので……せめて上級書記官だけは、自分の力で取りたくて」


淡々とした口調。

けれど、その瞳は虚ろで、生気が薄い。

机の影に沈むように肩が震えていた。


「でも……勉強しても、勉強しても全然上手くいかない。

やっぱり、基礎が皆と違うから……不安になって、あなたにあたってしまいました」


彼女はうつむきながら、無意味に手元のペンをいじっていた。

その手が、ふと止まる。


ゆっくりと顔を上げ、ケンジを見た。

涙を堪えるような目。

その表情が、胸に刺さった。


(……ああ、泣く)


そう思った瞬間、胸の奥が熱くなる。

ヴェーラの肩が小刻みに揺れ、息が浅い。

かろうじて零れ落ちる寸前の涙を、睫毛がかすかに光らせていた。


「……ごめんなさい」


その声は、壊れそうに細かった。


ケンジの喉がきゅっと鳴る。

何か言おうとしたが、言葉が出ない。


(泣くなよ、そんな顔……)


胸が苦しい。

理屈じゃない。

気づけば、体が動いていた。


「……ヴェーラさん」


そう呼びながら、彼はそっと手を伸ばす。

ためらいもなく、その小さな肩を抱き寄せた。


思ったよりも、軽い。

ふわりとした髪が頬に触れ、かすかにインクと花の匂いがした。


驚いたヴェーラの息が、肩口で止まる。

抵抗の気配はない。

代わりに、ゆっくりと力が抜けていった。


「……頑張ってるの、知ってます」


ケンジの声は低く、掠れていた。


「みんなと違うとか、そんなの関係ない。

ここにいるのは、ちゃんとヴェーラさんの力だ」


抱き寄せた腕の中で、ヴェーラが小さく震えた。

そして――かすかな声が返る。


「……ありがとう」


その瞬間、ケンジははっきりと胸の奥に何かが生まれるのを感じた。

けれど、それが“恋”だとは、まだ気づかない。


ただ、ただ――

守りたかった。


夜の静寂の中、ランプの火がゆらめく。

二人の影が机の上で重なり、

やがて静かに、離れていった。



残業が終わる頃には、ヴェーラが一人で帰るには遅すぎる時刻になっていた。

ケンジはためらいもありつつも、彼女がイーゴリと住む城下町の集合住宅まで送ることにした。

大体の場所は知っていたが、そこは王宮からもほど近く、第二騎士団の団長が住むにしてはひどく庶民的で慎ましやかな住居だった。


しかし、7階建ての宿舎の5階部分はすべてイーゴリが王都へ来てから一括で買ったというのだから、中古と言えど破格の経済力である。


聞けば、イーゴリとヴェーラは親戚同士で、10代の頃から南部の騎士団で働いていたイーゴリと共に暮らしていたという。


温和で牧歌的な南部で第七騎士団に入団し、そこでの活躍が認めれたイーゴリが第二騎士団の騎士団長に大抜擢されたのは2年前の事だ。


王都に住む騎士なら、誰もが知るイーゴリの快活な出世劇。

若干21歳で、田舎の騎士が王都の盾と呼ばれた第二騎士団団長となった。


そこへ、ヴェーラも共に田舎から付いてきた。

親を亡くし、頼るものを無くした彼女を…イーゴリはずっと保護してきた。


そんな話を、ケンジは改めて帰る途中の道でヴェーラから聞いた。



(保護者か…)


たった3つしか年の違わないイーゴリが、改めて成熟した大人の男であると意識し、ケンジは彼の普段の様子から越えられない壁のようなものを感じた。


仕事では一癖も二癖もある騎士たちをまとめあげ、模擬戦とは言えど人々を熱狂の渦に巻き込む人を操るカリスマ性。


到底、かなわないと思いつつも、ふとオレグの言葉が引っかかる。



『…イーゴリ様の匂いです。強い雄が匂いをつけるような…ーーー』



家の前に着いたヴェーラが「ありがとうごました」と小さく頭を下げていた。


「あ。いえ…大したことではないので!こんな遅くまで帰らなかったら、団長も心配しますよね」


慌てて手をワタワタと左右に振り、オレグの言葉を追いやった。

集合住宅のエントランスへ入ると、螺旋状の階段が高く上までのびている。


イーゴリの庇護にあるヴェーラの背後に、彼の男としての執着は今のところ感じられない。

しかし、階段を登った先の5階へ彼女と生活を共にするまだ23歳の若い青年が待っていると思うと、妙な胸のざわめきを覚えないわけではない。


「…どうでしょう。帰ったのでさっき呼び鈴を鳴らしましたが、音沙汰もないし…」

「…きっと心配してますよ。夜遅いですし…」

「でも、ケンジさんと一緒でしたし。イーゴリ様は気にしないかと」


ヴェーラは当たり前のように言ってのけた。

最近感じる、周りから言われるイーゴリからの信頼されている感だ。

オレグといい、みんなイーゴリが自分を信頼していると言ってくれる事に、ケンジは苦笑しつつ悪い気はしなかった。


(俺、普通に仕事してるだけなんだけどなぁ。団長には気安くツッコむ奴だし)


「ならいいですけど…。上まで送りますよ」


「よければ、一言イーゴリ様にも声をかけてみてください。喜びますよ」


(よ…喜ぶ?)


よくわからない展開に首をひねったが、階段を登りながら苦笑してついて行った。

と、そこでふとさらにヴェーラに対して言ってみたい言葉をようやく口にすることにした。


「あの…よろしければなんですが」


試験勉強で苦労していると自信なさげに震えていた彼女に対して、ずっと言いたかったことだ。しかし、ともすればちょっと上から目線にも見えるかと躊躇していた。


「はい?」

「変な意味にとらえないで欲しいんですが。俺、めちゃくちゃ試験に強いんですよ」


振り返って階段を登るヴェーラを後ろから見下ろしながら、ケンジはグッと拳を握った。

ポカンとしたヴェーラの可愛い顔を見ろし、引かれると思いながらもさらに畳み掛けた。


「ええ、そりゃもう。エグいくらいに試験という試験は一発合格してきましたし、国立大学を

二年飛び級しました。つまり、めちゃくちゃ勉強のコツを理解してまして!!」


事実しか言っていないが、ここまで己の能力をアピールしたことは生きてきてなかった。

恥ずかしさと引かれるかもしれないという不安でぐちゃぐちゃになった感情で、ケンジは赤面した顔でヴェーラに詰め寄った。


「なので!ヴェーラさんの上級書記官の勉強の内容を教えていただければ、俺が試験合格まで導いて勉強見れるかと!!一緒に早朝勉強しませんか!?」



気がつくと階段を登りきり、5階のエントランスに着いていた。

大きな声を出した気は無かったが、力がこもっていたせいでケンジの声がらせん階段の吹き抜けを通り建物の中に声がこだましていた。


しばしの静寂が何も言わずにこちらを見つめるヴェーラとの間に流れた。



下心が無いわけではなかったが、ケンジなりの精一杯のエールと誘いだった。



「…ど、どうでしょうか?」



ヴェーラがようやく口を開いた。


「……いいと思います。朝は少し早いけれど、ケンジさんとなら頑張れそう」


ほっと微笑んだその顔が、灯りに照らされる。

不意に胸が熱くなる。


その瞬間。

背後で、扉の鍵が回る音がした。


――カチャリ。


と、石鹸の匂いが漂う。

奥のリビングから、灯りがこぼれていた。


「……ただいま」


小さく呟くヴェーラの声。


ケンジが一歩踏み出すより早く、玄関の扉を開けた男が立っていた。


「おかえり」


イーゴリだった。

白いシャツのボタンをいくつか外し、

濡れた髪をタオルで拭いている。

風呂上がりらしく、まだ水滴が首筋を伝っていた。


――生々しい。


その一瞬、ケンジの喉がごくりと鳴った。

ヴェーラとこの男が同じ部屋で暮らしているという現実が、遅れて胸に刺さる。


イーゴリはタオルを首にかけたまま、

いつも通りの笑みを浮かべて近づいてきた。


「ケンジ。わざわざ悪かったな」


穏やかに言う声。

だが、どこか低く響く。

ヴェーラが先に靴を脱いで部屋に入る。

その肩に、イーゴリの視線が一瞬だけ落ちた。


「残業だったんだって?」

「え、ええ。あの……書類整理を手伝ってもらって」

「そうか」


短い返事のあと、イーゴリはドアの外に立つケンジを見やった。

その瞳は笑っているのに、底が見えない。


「……寒いだろ。中に入れ」


促され、ケンジは思わず一歩下がった。

けれど、イーゴリが扉を軽く押し開けたので、

逃げ場を失うように足を踏み入れる。


部屋の空気は湯気と石鹸の香りが混じり合って、妙に柔らかく、そして近かった。

テーブルにはヴェーラのマグカップと本が置かれている。

暮らしの気配が濃い。


イーゴリは壁際の椅子に腰を下ろし、

タオルを指先で弄びながら、静かに言った。


「夜遅くまで残業とは、ご苦労なことだな。

……ヴェーラも助かっただろ」


「は、はい。とても」


ケンジの返事は妙に上ずった。

背筋が伸びる。

イーゴリはゆるく笑う。


「そっか。……お前は真面目だからな」

一見いつも通り。

けれど、どこか言葉の端に冷たさが滲む。


ヴェーラが気づいたのか、小さく口を開いた。


「団長、ケンジさんが――試験勉強を教えてくださるって」


イーゴリはその言葉に、ほんの僅かに眉を動かした。


「……そうか」


沈黙。

彼は視線をヴェーラに向けたまま、笑った。


「いいじゃないか。朝は俺が出るのが早いから……勉強の邪魔にはならないだろう」


穏やかに、柔らかく。

だがケンジには、その声が妙に冷たく聞こえた。


「……そ、それじゃ、また明日」

「ああ」


イーゴリの返事に促され、ケンジは早足で部屋を出た。

扉が閉まる音。



階段を駆け下りながら、ケンジは脚を速く動かし、その場から一刻も速く立ち去りたいと思った。

また、オレグの言葉が頭を駆け巡る。


イーゴリの匂いが、ヴェーラの身体にきざまれる。ほかの男が寄りつかないように。

獣が気に入った女に、種を植え付ける。


そんな言葉に「違う」と頭では否定しながらも、今見たイーゴリの姿や匂い、仕草に警告音が流れて聞こえた。



(…本当に…ただの、同居人?保護者なのか?)


集合住宅の外へ飛び出ると、明かりの付いた5階の部屋が遠くに感じた。

決して中へは入れない。

あの二人の住む部屋は、あまりにも生々しく、ケンジの胸を締めつけた。





部屋の中には、まだ湯気の立つ夕食が整然と並んでいる。

だが手をつけた跡はなく、居間のソファにはイーゴリが腰かけ、まだ濡れた髪をタオルで拭きながら言う。



「……本当に遅かったな。珍しい」


さっきまでの和やかな雰囲気は無くなり、イーゴリは視線も合わせず本を開き始めた。


ページを繰る手は止めず、視線も上げずに淡々と告げる。

そこには騎士団長の顔はない。

髪も下ろし書籍の文字を目で追う知識人の顔があった。


ヴェーラは小さく「……うん」と答え、上着を脱いでハンガーに掛けた。


「お前、今の仕事の量きついのか? 試験受けるまで減らしてもいいからな」


その声色には、優しさよりも冷静な判断が滲んでいた。

ヴェーラは少し頬を赤らめながら俯き、言葉を探す。


「あんまり……ケンジとの仕事の差を作らないでほしいの」


ようやく告げた小さな声に、イーゴリは初めて本から目を上げた。眉がわずかに動く。


「……俺は、お前にそこまで高いレベルを求めてないからな」


「え?」


「そもそも、昔からマルチタスクは苦手だろ。単純作業や書物は合ってるが適性はそこだ。不適性なのはケンジがやればいい」


その言葉に、ヴェーラの手から上着が滑り落ち、カタンと大きな音を立てた。


イーゴリは視線を戻さず、無造作に続ける。


「上級書記官になりたいなら、俺が過去の試験内容を取り寄せてやる。そこを勉強の中心にして無理なくやってみろ。お前は、昔から要領が悪いし……」


言葉が落ちたあと、沈黙。


合理的な言葉。

けれどヴェーラには「お前は劣るから諦めろ」と突き放されたように聞こえた。

胸の奥に、じわりと熱いものが込み上げる


ヴェーラの怒気にようやく気づいたのか、イーゴリは本を閉じて立ち上がった。


「……怒ったか?」


手を伸ばし頬に触れようとする。だがヴェーラはその手を激しく払いのけ、涙をこらえた目で睨みつけた。


「やめて」


拒絶の鋭さに、イーゴリの瞳が一瞬だけ揺れる。


「……お前が潰れるのを見てるこっちの身にもなってみろ。色々と俺だって――」


「仕事できるようになりたいって思うことの、何がいけないの? 私が頑張ってるだけなんだから、イーゴリには関係ないじゃない!」


振り返ると、イーゴリは憮然と黙り込み、ただ見下ろすばかりだった。

期待していた「応援の言葉」は、一つも返ってこなかった。


「……もういい。飯、あたため直すから一緒に食べ――」


「いらない」


短い拒絶の言葉が突き刺さる。


「……」


「私、寝るから。一人で食べて」



居間に残されたイーゴリは、眉間に皺を寄せながら無理やり本を開いた。

けれど――一文字も頭に入らなかった。


(……何が気に食わないんだ、あいつは)


苛立ちと自己嫌悪が交じり合い、頬杖をついたままページをめくる。

やがて、集中できないまま本を閉じ、ベッドに沈んだ。


その夜は二人とも寝れなかった。




翌朝


ヴェーラが目を覚ますと、部屋は静まり返っていた。

食卓は片付けられ、温もりのない朝の空気だけが残されている。


(……早朝訓練)


机の上に、一枚の紙が無造作に置かれていた。

拾い上げると、びっしりと書き込まれた「上級書記官試験対策スケジュール」だった。

試験日までの計画、今のヴェーラの実力と不足点、重点的に補うべき科目。

走り書きのはずなのに、驚くほど精緻にまとめられている。


最後に、短く一行。


――わからないことがあれば、きけ。


「…………」


不意に、口元が緩んだ。


(昔と変わらない。不器用で、優しい…)


泣きながら勉強を見てもらった幼い日々が、鮮明に蘇った。

冷たいように見えても、誰よりも気にかけてくれている。

そう思うと、胸が少しだけ軽くなった。




訓練場


朝の冷たい風の中、イーゴリは既に馬上にいた。

鍛錬場の中央、誰よりも早く、静かに愛馬を操る姿は威圧感すら放っている。


最初に現れたのはオレグ。

主の隣に並ぶのは当然だとでも言うように、無言で立った。

次に駆け込んできたのはケンジ。


「お二人とも、早いですね!俺も一番乗りしたいのに!」

「ここで寝てれば問題ない」

「風邪ひかないの!?オレグくん!?」


そんなやり取りを切り裂くように、イーゴリが口角を上げた。


「ヴェーラに試験勉強を教えて仲良くなりたいか?」

「え!?」



ケンジの狼狽を見て、イーゴリは愉快そうに笑う。


「試験勉強だが、全問正解を狙うから空回りするんだ。過去問だけやらせとけ。大抵それで受かる」


馬を駆け、オレグが並走。慌ててケンジも追いつく。


「適当にって……そんな……」


真面目に悩む彼に、イーゴリは肩をすくめて豪快に笑った。


「心配ない。俺はそれで受かった」

「……はぁぁぁ!?!?」


ケンジが二度見すると絶叫が訓練場にこだまし、兵たちが振り返る。

イーゴリは、風を切りながら豪快に笑った。


――誰もが忘れていた。


この男はただの戦士ではなく、読み書きと学問を極め、上級書記官1級の資格を持つインテリ騎士団長だということを。










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