13.模擬戦3 レオニードとイーゴリ
荒野を渡る風は湿り、火薬と泥の匂いを孕んでいた。
両軍はすでに膠着していた。
第二騎士団は団長を信じ、第一騎士団は獅子を信じて――誰も動かず、ただ戦場の焦点となった一騎打ちを見守っている。
アレクサンドルは自軍の中央に在り、背筋を崩さぬまま視線を前に据えていた。
漆黒の巨影と、泥を浴びてなお笑う巨躯。
レオニードとイーゴリ。
二つの巨体が刃をぶつけ合い、火花と泥煙が舞い上がるのを、冷徹な眼差しで追う。
(……意地か。貴様の、騎士としての意地でまだ戦うか?)
観衆が沸き、兵たちの目が熱を帯びるのとは裏腹に、アレクサンドルの心は波立たない。
勝敗はすでに決している。
陣は崩さぬ。第二は団長が倒れれば終わる。
冷静に盤面を俯瞰しつつも、その眼差しの奥に、微かな影がよぎる。
――必死に歯を食いしばり、泣きながら鉾を振っていた少年の姿。
泥まみれでなお立ち向かうイーゴリの顔に、その幼い面影が重なった。
「……ふん」
かすかに吐息が洩れる。
(…そういうところは、変わらないな)
声に出すことはない。
ただその胸中で、冷たい眼差しの奥にひと欠片の感慨を滲ませた。
※
鉾と鉾が火花を散らす。
ぶつかり合った刹那、イーゴリは口角を上げた。
「どうした、極北の獅子!その腕力だけで王国一を名乗るか? 俺の弟子でも止められたぞ!」
観衆がざわめく。あえてオレグの奮闘を持ち出し、獅子を挑発する。
レオニードの瞳は揺れない。ただ、冷ややかに獲物を測る獣の目をしていた。
再び打ち合い。
イーゴリは軽快な馬さばきで横に逸れ、間合いを外す。
泥が跳ね、槍の切っ先が紙一重で空を裂く。
「はっはっ!図体ばかりデカくて鈍いぞ!お前、肉ばかり食って脳まで詰まったか!」
観衆から笑いが漏れ、第二騎士団が歓声を上げる。
イーゴリはわざと大声で煽り、士気をさらに引き上げる。
だが――
次の衝突。
レオニードの鉾が重く沈み、衝撃が骨に響いた。
馬上のイーゴリが、わずかに体勢を崩す。
「……っ!」
歯を食いしばり持ち直すが、手の感覚にしびれが残る。
鋼の重みが違う。力の格が違う。
レオニードは低く呟いた。
「口は達者だ。だが、力は裏切らん」
再び鉾が振り下ろされる。
イーゴリは受け流すが、腕に痺れが走り、背後へ泥を飛ばして下がらざるを得ない。
「……ちっ」
笑顔は崩さない。だが汗が額に滲む。
ケンジは息を呑んだ。
(押されてる……!団長が、力で……!)
挑発を続けながらも、イーゴリの背は次第に重圧に沈んでいく。
士気を高めるための言葉はなお続くが、その一打一打が確実に彼の身体を削っていた。
レオニードの鉾が降り注ぐ。
イーゴリは大地を蹴り、正面から受け止める。
刃と刃が火花を散らし、泥が弾け飛んだ。
観衆は騎士団長の戦いに息を呑む。
その背中を見ていたケンジもオレグも、心を奪われていた。
――そして、イーゴリ自身も胸に燃えるものがある。
かつて、痩せ細った少年の頃。
壁に押しつけられ、首を締め上げられる。
息が苦しい。膝が砕けそうでも、イーゴリは声を殺して挑発を吐いた。
『……顔は殴るなよ。バレるぞ、馬鹿だから分かんねぇか?』
次の瞬間、腹に拳がめり込み、足元に散った本の頁が泥に濡れる。
喉の奥に血の味。
俯いたまま拾い集め、赤く染まった指先を本の文字に押しつけながら――涙はどうしても零れた。
その時だった。
影が差し、低い声が落ちる。
『やめろ』
殴りかかろうとした腕をがっしと掴んで、レオニードが無造作に相手を殴り飛ばした。
巨躯に叩き伏せられたいじめっ子たちが呻き声をあげる。
『二度とこいつに触れるな』
それだけを言い捨て、イーゴリに手を差し出した。
その手のひらを見上げた瞬間――胸の奥で何かが燃えた。
さらに日が経って、食堂でイーゴリを冷やかす者を、アレクサンドルが一瞥するだけで黙らせたこともあった。
『下らん。騎士を名乗るなら誇りを汚すな』
その一言に背筋が震えた。
時には背後から密かに報復までしていたことを、後で知ることもある。
――守られてばかりだった。
本当は学者になりたかった、ひ弱な自分。
だが今は違う。
火花の中で、イーゴリは奥歯を食いしばる。
(見ろよ、レオニード。あの頃の弱虫じゃねぇ。今は並んで、そして……超えてみせる!)
鉾を押し返し、血に濡れた唇で笑みを刻んだ。
背中は広く、仲間の目に誇り高く映っていた。
観衆が息を呑む中、イーゴリの鉾が一閃――レオニードの頬を裂いた。
赤い筋が頬を伝い、無表情の獅子の眼が大きく見開かれる。
「来いっ!! 俺を殺さねぇと勝利は無ねぇ…!!」
吠えるイーゴリ。そのまま馬槍を押し込み、両騎は泥に叩き落ちる。
甲冑がぶつかり合い、泥水が弾け、戦場は一瞬息を止めた。
剣も槍も無い。
あるのは拳と膂力だけ。
血と雨にまみれた巨躯同士が泥の上で取っ組み合う。
イーゴリは拳を叩きつけた。頬、顎、胸甲。
だが分厚い甲冑に阻まれ、拳は裂けるばかりでレオニードには届かない。
その時――獅子の構えが変わった。
両手を高く掲げ、沈み込むような姿勢。
「……?」
ケンジの脳裏に、祖国で見た武道の影がよぎる。
(いや、まさか……あれは……!)
泥を跳ね散らし、飛びかかるイーゴリ。
その肩のマントを掴み、巨体の下に滑り込んだレオニードが吼えた。
「おおおっ!」
次の瞬間、イーゴリの体は宙に浮いた。
観衆が信じられない声を上げる。
――柔道の投げ。
殺気に満ちた瞳のまま、レオニードはイーゴリの巨体を地面に叩きつけた。
泥柱が爆ぜ、観衆が「な……!」と叫ぶ。
「じゅ、柔道……っ!?」
ケンジの絶叫が、戦場を切り裂いた。
イーゴリは咳き込み、胸を押さえながらも立ち上がる。
その顔は血と泥にまみれ、しかし笑っていた。
「……投げは……効いたぜ……だがな……」
泥を両手ですくい、レオニードの視界に叩きつける。
観衆がどよめく。
「お前を先に地に落としたのは、俺だ!!」
挑発の声。
次の瞬間には、拳を振るい泥まみれの乱打戦へと引きずり込む。
拳と拳、肘と膝。
金属が軋み、肉が潰れる音が混ざり、観衆は立ち上がって叫んだ。
「いけぇぇ!!」「やめろ、死ぬぞ!」
イーゴリの拳は必死でレオニードの頬をかすめ、血を走らせる。
観衆が爆ぜた。
「来いよ獅子!!俺を殺さなきゃ勝利はねぇ!!!」
絶叫。声が荒野を震わせる。
だが――
レオニードの反撃は苛烈だった。
甲冑越しでも響く鉛の拳。
イーゴリの身体が泥を転がり、胸の奥から血が吐き出される。
それでも立ち上がる。
泥に膝をつきながら、笑う。
「はっ……まだ……まだだ……!」
だが、その獅子は止まらない。
久々に見つけた「対等の獲物」に、完全に血を滾らせていた。
観衆が悲鳴を上げる。ケンジは必死に走り出そうとする。
「団長!!」
先に飛び出したオレグが背後からレオニードめがけ突進する。目が血走り、咆哮を上げて襲いかかる。
殺気に気づき、レオニードがイーゴリをつかんだまま若狼へ構え直した。
その時――
「そこまでだ」
低く冷たい声が、戦場を切り裂いた。
氷のような威圧が荒野に流れ込み、誰もが動きを止める。
アレクサンドル。
第一騎士団の旗の下から、馬上のまま視線だけで戦場を支配する。
「……レオニード。模擬はここまでだ」
レオニードの拳がわずかに止まり、その殺気が霧散する。
観衆は静まり返り、荒れ狂った戦場に一瞬だけ冷たい静寂が訪れた。
アレクサンドルの目が泥の中のイーゴリを射抜く。
ふと目に柔らかな色が宿った。
「なかなかどうして逞しくなったではないか、イーゴリ。泣いてばかりだった学者希望め」
荒れた息を吐きながら、イーゴリは血の混じった笑みを浮かべた。
「うるせぇ……泣いてなんか……いねぇよ」
そう言って、力尽きて倒れた。




