表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女神の護符  作者: のはな
第一章
14/83

13.模擬戦3 レオニードとイーゴリ

荒野を渡る風は湿り、火薬と泥の匂いを孕んでいた。

両軍はすでに膠着していた。

第二騎士団は団長を信じ、第一騎士団は獅子を信じて――誰も動かず、ただ戦場の焦点となった一騎打ちを見守っている。


アレクサンドルは自軍の中央に在り、背筋を崩さぬまま視線を前に据えていた。

漆黒の巨影と、泥を浴びてなお笑う巨躯。

レオニードとイーゴリ。

二つの巨体が刃をぶつけ合い、火花と泥煙が舞い上がるのを、冷徹な眼差しで追う。


(……意地か。貴様の、騎士としての意地でまだ戦うか?)


観衆が沸き、兵たちの目が熱を帯びるのとは裏腹に、アレクサンドルの心は波立たない。

勝敗はすでに決している。

陣は崩さぬ。第二は団長が倒れれば終わる。

冷静に盤面を俯瞰しつつも、その眼差しの奥に、微かな影がよぎる。


――必死に歯を食いしばり、泣きながら鉾を振っていた少年の姿。

泥まみれでなお立ち向かうイーゴリの顔に、その幼い面影が重なった。


「……ふん」


かすかに吐息が洩れる。


(…そういうところは、変わらないな)


声に出すことはない。

ただその胸中で、冷たい眼差しの奥にひと欠片の感慨を滲ませた。




鉾と鉾が火花を散らす。

ぶつかり合った刹那、イーゴリは口角を上げた。


「どうした、極北の獅子!その腕力だけで王国一を名乗るか? 俺の弟子でも止められたぞ!」


観衆がざわめく。あえてオレグの奮闘を持ち出し、獅子を挑発する。

レオニードの瞳は揺れない。ただ、冷ややかに獲物を測る獣の目をしていた。


再び打ち合い。

イーゴリは軽快な馬さばきで横に逸れ、間合いを外す。

泥が跳ね、槍の切っ先が紙一重で空を裂く。


「はっはっ!図体ばかりデカくて鈍いぞ!お前、肉ばかり食って脳まで詰まったか!」


観衆から笑いが漏れ、第二騎士団が歓声を上げる。

イーゴリはわざと大声で煽り、士気をさらに引き上げる。


だが――


次の衝突。

レオニードの鉾が重く沈み、衝撃が骨に響いた。

馬上のイーゴリが、わずかに体勢を崩す。


「……っ!」


歯を食いしばり持ち直すが、手の感覚にしびれが残る。

鋼の重みが違う。力の格が違う。


レオニードは低く呟いた。

「口は達者だ。だが、力は裏切らん」


再び鉾が振り下ろされる。

イーゴリは受け流すが、腕に痺れが走り、背後へ泥を飛ばして下がらざるを得ない。


「……ちっ」

笑顔は崩さない。だが汗が額に滲む。


ケンジは息を呑んだ。

(押されてる……!団長が、力で……!)


挑発を続けながらも、イーゴリの背は次第に重圧に沈んでいく。

士気を高めるための言葉はなお続くが、その一打一打が確実に彼の身体を削っていた。


レオニードの鉾が降り注ぐ。

イーゴリは大地を蹴り、正面から受け止める。

刃と刃が火花を散らし、泥が弾け飛んだ。


観衆は騎士団長の戦いに息を呑む。

その背中を見ていたケンジもオレグも、心を奪われていた。


――そして、イーゴリ自身も胸に燃えるものがある。


かつて、痩せ細った少年の頃。

壁に押しつけられ、首を締め上げられる。

息が苦しい。膝が砕けそうでも、イーゴリは声を殺して挑発を吐いた。


『……顔は殴るなよ。バレるぞ、馬鹿だから分かんねぇか?』


次の瞬間、腹に拳がめり込み、足元に散った本の頁が泥に濡れる。

喉の奥に血の味。

俯いたまま拾い集め、赤く染まった指先を本の文字に押しつけながら――涙はどうしても零れた。


その時だった。

影が差し、低い声が落ちる。


『やめろ』


殴りかかろうとした腕をがっしと掴んで、レオニードが無造作に相手を殴り飛ばした。

巨躯に叩き伏せられたいじめっ子たちが呻き声をあげる。


『二度とこいつに触れるな』


それだけを言い捨て、イーゴリに手を差し出した。

その手のひらを見上げた瞬間――胸の奥で何かが燃えた。


さらに日が経って、食堂でイーゴリを冷やかす者を、アレクサンドルが一瞥するだけで黙らせたこともあった。


『下らん。騎士を名乗るなら誇りを汚すな』


その一言に背筋が震えた。

時には背後から密かに報復までしていたことを、後で知ることもある。



――守られてばかりだった。

本当は学者になりたかった、ひ弱な自分。

だが今は違う。


火花の中で、イーゴリは奥歯を食いしばる。


(見ろよ、レオニード。あの頃の弱虫じゃねぇ。今は並んで、そして……超えてみせる!)


鉾を押し返し、血に濡れた唇で笑みを刻んだ。

背中は広く、仲間の目に誇り高く映っていた。


観衆が息を呑む中、イーゴリの鉾が一閃――レオニードの頬を裂いた。

赤い筋が頬を伝い、無表情の獅子の眼が大きく見開かれる。


「来いっ!! 俺を殺さねぇと勝利は無ねぇ…!!」


吠えるイーゴリ。そのまま馬槍を押し込み、両騎は泥に叩き落ちる。

甲冑がぶつかり合い、泥水が弾け、戦場は一瞬息を止めた。


剣も槍も無い。

あるのは拳と膂力だけ。

血と雨にまみれた巨躯同士が泥の上で取っ組み合う。


イーゴリは拳を叩きつけた。頬、顎、胸甲。

だが分厚い甲冑に阻まれ、拳は裂けるばかりでレオニードには届かない。


その時――獅子の構えが変わった。

両手を高く掲げ、沈み込むような姿勢。


「……?」

ケンジの脳裏に、祖国で見た武道の影がよぎる。

(いや、まさか……あれは……!)


泥を跳ね散らし、飛びかかるイーゴリ。

その肩のマントを掴み、巨体の下に滑り込んだレオニードが吼えた。


「おおおっ!」


次の瞬間、イーゴリの体は宙に浮いた。

観衆が信じられない声を上げる。


――柔道の投げ。


殺気に満ちた瞳のまま、レオニードはイーゴリの巨体を地面に叩きつけた。

泥柱が爆ぜ、観衆が「な……!」と叫ぶ。


「じゅ、柔道……っ!?」

ケンジの絶叫が、戦場を切り裂いた。


イーゴリは咳き込み、胸を押さえながらも立ち上がる。

その顔は血と泥にまみれ、しかし笑っていた。

「……投げは……効いたぜ……だがな……」

泥を両手ですくい、レオニードの視界に叩きつける。

観衆がどよめく。


「お前を先に地に落としたのは、俺だ!!」

挑発の声。

次の瞬間には、拳を振るい泥まみれの乱打戦へと引きずり込む。


拳と拳、肘と膝。

金属が軋み、肉が潰れる音が混ざり、観衆は立ち上がって叫んだ。

「いけぇぇ!!」「やめろ、死ぬぞ!」


イーゴリの拳は必死でレオニードの頬をかすめ、血を走らせる。

観衆が爆ぜた。

「来いよ獅子!!俺を殺さなきゃ勝利はねぇ!!!」

絶叫。声が荒野を震わせる。


だが――

レオニードの反撃は苛烈だった。

甲冑越しでも響く鉛の拳。

イーゴリの身体が泥を転がり、胸の奥から血が吐き出される。


それでも立ち上がる。

泥に膝をつきながら、笑う。

「はっ……まだ……まだだ……!」


だが、その獅子は止まらない。

久々に見つけた「対等の獲物」に、完全に血を滾らせていた。

観衆が悲鳴を上げる。ケンジは必死に走り出そうとする。


「団長!!」


先に飛び出したオレグが背後からレオニードめがけ突進する。目が血走り、咆哮を上げて襲いかかる。

殺気に気づき、レオニードがイーゴリをつかんだまま若狼へ構え直した。


その時――

「そこまでだ」


低く冷たい声が、戦場を切り裂いた。


氷のような威圧が荒野に流れ込み、誰もが動きを止める。

アレクサンドル。

第一騎士団の旗の下から、馬上のまま視線だけで戦場を支配する。


「……レオニード。模擬はここまでだ」


レオニードの拳がわずかに止まり、その殺気が霧散する。

観衆は静まり返り、荒れ狂った戦場に一瞬だけ冷たい静寂が訪れた。


アレクサンドルの目が泥の中のイーゴリを射抜く。

ふと目に柔らかな色が宿った。


「なかなかどうして逞しくなったではないか、イーゴリ。泣いてばかりだった学者希望め」


荒れた息を吐きながら、イーゴリは血の混じった笑みを浮かべた。


「うるせぇ……泣いてなんか……いねぇよ」


そう言って、力尽きて倒れた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ