炎を越えて〜ジャンヌ・ダルクへの祈り〜
歴史にもしもはない。
そういう有名な言葉があり、
当方も事実だと認識しております。
ですが。
争いに満ちた人の歴史で。
あってはならない最期を迎えた方が。
大勢いらっしゃいます。
中でも英雄ジャンヌ・ダルクは。
祖国の平和のために戦った年若い少女でした。
決して、報われない最期を。
迎えて良い方ではないと。
ずっと思っておりまして。
後世から、かの御方の魂の平穏を願い。
本作を執筆いたしました。
どうか世界が。
愛に満たされ調和に向かいますように。
勇敢な魂が、後の世に。
微笑んでくれますように。
序章 歴史の闇と後世の祈り
フランスには今も語り継がれる英雄がいます。ジャンヌ・ダルク。農民の娘でありながら「神の声」を聞き、百年も続く戦争で絶望的な祖国を救った少女。
しかし現実の歴史では、敵に捕らえられ「異端者」のレッテルを貼られ、19歳で炎に消えました。「祖国のために全てを捧げた少女が、なぜ炎で焼かれねばならなかったのか?」
この物語は、その歴史の理不尽に対する後世からの祈りです。「彼女は救われるべきだった」と願う、物語。
これは、もしかしたら。残酷な運命を受け入れて。最期まで勇敢であった彼女への。非礼なのかもしれません。
それでも。正しさを突き通した彼女に。救いがあるべきだったろうと。変わらないはずの史実に。救済を願う、物語です。
第1章 神の声と戦場の少女
1428年・フランス北東部の村ドンレミ麦畑を渡る風は、いつもより冷たかった。
ジャンヌは羊飼いの娘。16歳になったばかりで、読み書きはできませんが、毎日欠かさず祈りを捧げる敬虔な少女でした。父ジャック、母イザベル、そして三人の兄弟と共に、小さな農家で質素に暮らしていました。しかし、彼女の心は重い雲に覆われていました。
「また村が燃えている…」遠くの空が赤く染まっています。イングランド軍とその同盟軍が、またどこかの村を襲ったのです。この戦争は既に百年も続いていました。祖父の代から、父の代から、そして今ジャンヌの代まで。終わりの見えない戦いが続いているのです。
「なぜ神は、こんなことをお許しになるのでしょう?」ジャンヌは村の教会で、十字架を見上げながら祈りました。
その日の午後、運命が動いた。羊たちを連れて牧草地にいた時、突然強い光がジャンヌを包みました。「何?」光の中から、荘厳な声が響きます。
《大天使ミカエル》「ジャンヌよ、汝に命ずる。イングランド軍を追い払え。王太子シャルルをランスで戴冠させよ」
「え? 私に?」
ジャンヌは震えました。自分は文字も読めない農民の娘です。戦争のことなど何も知りません。
《聖カトリーヌ》「恐れることはない。汝こそがフランスを救う者だ」
《聖マルグリット》「神が汝と共におられる」
「そんな…私にはできません! 私は何も知らない田舎の娘です!」そう叫んでも、声は優しく、しかし力強く響き続けました。
《大天使ミカエル》「汝の心を見よ。祖国の苦しみを感じているではないか。その痛みこそが、神からの召命なのだ」
気がつくと、光は消えていました。しかし、ジャンヌの心には確信が残っていました。「私が…フランスを救う?」
家族の反対と村人の嘲笑家に帰ったジャンヌは、恐る恐る父に話しました。
「父上、私に神の声が聞こえました。シャルル王太子にお会いして、フランスを救えと…」
父ジャックは顔を真っ赤にして怒鳴りました。「馬鹿なことを言うな! 娘が戦場に出るなど、聞いたことがない! そんなことを考えるぐらいなら、川に身を投げた方がましだ!」
母イザベルも涙を流しました。「ジャンヌ、あなたは熱でうなされているのよ。神の声なんて…そんなことがあるはずないでしょう?」
村人たちも笑いました。「あの娘、頭がおかしくなったらしいぞ」「神の声だって? 農民の娘が王様に会うなんて」「戦争で頭がおかしくなったんだ」
しかし、声は止まなかった。それから数日間、ジャンヌは普通の生活を送ろうとしました。羊の世話をし、糸を紡ぎ、祈りを捧げる。いつもの日々を。しかし、夜になると必ず声が聞こえるのです。
《大天使ミカエル》「時は迫っている。オルレアンが陥落すれば、フランスは滅びる」
《聖カトリーヌ》「恐れるな。汝には神の加護がある」
そして、遠くから聞こえる戦場の音。村人たちの不安な話し声。「もうどこにも逃げ場がない…」「イングランド軍が来たら、私たちはどうなるのだろう」「シャルル王太子は頼りにならない。戴冠もできないでいる」
叔父デュランへの相談ついにジャンヌは決心しました。母方の叔父デュランに相談に行ったのです。彼は近くの町に住んでいて、世間のことをよく知っていました。
「叔父さん、私は神の声を聞きました。王太子にお会いして、フランスを救えと…」デュランは最初驚きましたが、ジャンヌの真剣な表情を見て考え込みました。
「ジャンヌ、確かにフランスは絶望的な状況だ。シャルル王太子はブルジェに逃げ込んでいるし、オルレアンも包囲されて半年以上経つ。このままでは本当に国が滅びる…」
「だから神が私に…」
「しかし、農民の娘が王太子に会うなど、普通では不可能だ。まずヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会わなければならない。彼の紹介がなければ、王太子に近づくことさえできない」
「ヴォークルール?」
「そうだ。しかし、そこは軍事要塞だ。しかも、ここから三日はかかる。道中は敵地を通らねばならない」
決意の夜その夜、ジャンヌは一人で教会に向かいました。「神様、本当に私にできるのでしょうか? 私は何も知らない、力もない娘です」月明かりが十字架を照らしています。
《大天使ミカエル》「汝に必要なのは、剣でも鎧でもない。苦しむ民を救いたいという心だ」
《聖カトリーヌ》「恐れることはない。汝の純粋な心こそが、最も強い武器なのだ」
ジャンヌは涙を流しながら祈りました。「分かりました。私が行きます。神がお望みなら、私は行きます」
1429年1月、ついに出発。叔父デュランの協力を得て、ジャンヌは男装して村を出ました。髪を短く切り、兄の服を着て、農民の青年に見せかけて。
「母上、必ず帰ります。フランスを救って、必ず…」母イザベルは泣きながら十字架を首にかけてくれました。「これを持って行きなさい。神があなたを守ってくださるように」
馬に乗ったジャンヌは振り返りました。煙を上げる遠くの村々、不安に震える人々、そして自分を信じて送り出してくれる家族。「私がやらなければ、誰がやるのですか?」
ヴォークルールへの道のりは険しく、危険でした。しかし、ジャンヌの心には確信がありました。神の声は幻ではない。苦しむ人々を救いたいという自分の心の叫びこそが、神からの召命なのだと。「待っていてください、フランス。私が必ず救います」
16歳の少女は、歴史を変える旅に出発したのです。
第2章 シノン城での出会い
1429年3月、シャルル王太子の居城にて。
三週間の馬上の旅を終え、ジャンヌはついにシノン城の門前に立った。石造りの城壁は夕日に赤く染まり、まるで炎のように輝いていた。彼女の護衛を務めた騎士ジャン・ド・メッツは、疲れた表情で振り返る。
「本当に大丈夫か、ジャンヌ?王太子殿下は…気まぐれな方だ」
ジャンヌは汚れた男装の服を見下ろした。農民の娘である自分が、フランスの王太子と謁見するなど、数か月前なら夢にも思わなかった。しかし胸の奥で、あの「声」が再び響く。
《恐れるな、娘よ。真実を見抜く目を与えよう》
城内の大広間は、数百本のろうそくで照らされていた。シャルル王太子は、この17歳の少女をどう扱うか悩んでいた。顧問たちは半信半疑、民衆は奇跡を期待している。彼は一つの試験を思いついた。
「面白い実験をしてみよう」
王太子は自分の豪華な外套を脱ぎ、近習の一人に着せた。そして自分は召使いの格好で群衆の中に身を隠す。広間には三百人近い貴族や廷臣が集まっていた。
「あの娘が本当に神の使いなら、真の王を見分けられるはずだ」
大扉が開かれ、ジャンヌが歩み入る。煌びやかな装飾と、貴族たちの視線が彼女を包み込んだ。しかし彼女は一歩も迷わず、群衆の中ほどにいる質素な服装の青年の前に進んだ。
その青年こそ、変装したシャルル王太子だった。
ジャンヌは膝をつき、澄んだ声で言った。
「殿下、私は神の命により参りました。私の名はジャンヌ・ダルク。ドンレミの村から」
シャルル王太子は動揺した。周囲の廷臣たちもざわめく。しかし彼は最後の試験を仕掛けた。
「私は王太子ではない。あそこの玉座におられる方が殿下だ」
王太子は偽物を指差した。しかしジャンヌは微笑み、静かに首を振る。
「殿下、欺くことはおやめください。あなたこそが正統なる王の血を引く方です」
そして彼女は、誰も知らない秘密を口にした。
「昨夜、あなたは祈られたでしょう。『神よ、もし私が正統な王なら力をください。もし私が王たるに値しないなら、フランスを真の王にお委せください』と」
シャルル王太子は青ざめた。その祈りは、誰にも聞かれぬよう、自室で一人つぶやいたものだった。
「これは奇跡か、それとも悪魔の仕業か」
王太子は慎重だった。ジャンヌをポワティエに送り、神学者たちによる審査を命じる。三週間にわたる厳しい尋問が始まった。
学者たちは様々な質問を浴びせた。
「女が男装することは聖書に反する」
「神の声というが、なぜ教会を通さないのか」
「戦争は神の意志なのか」
ジャンヌは一つ一つ丁寧に答えた。
「私は戦いに身を置く必要があります。女の服では戦えません。これは神への奉仕です」
「声は私の心に直接響きます。しかし私は教会を軽んじません。神の言葉を伝えるために参りました」
「戦争は神の意志ではありません。しかし祖国を守ることは神の意志です。私は平和のために戦います」
最も困難な質問が投げかけられた。
神学者の一人が鋭い眼差しで問う。
「汝は神の恩寵を受けているか?」
これは罠だった。「受けている」と答えれば傲慢、「受けていない」と答えれば偽物扱いされる。
しかしジャンヌは、後世まで語り継がれる完璧な答えを返した。
「もし私が神の恩寵を受けていないなら、神が私に恩寵を与えてくださいますように。もし私が神の恩寵を受けているなら、神が私をその恩寵のうちに守ってくださいますように」
神学者たちは沈黙した。この答えに反論する者は誰もいなかった。
審査の結果、ジャンヌは「悪魔の仕業ではない」と判定された。シャルル王太子はついに決断を下す。
「白い鎧と軍旗を与えよう。オルレアンを救え」
1429年4月、ジャンヌは17歳にして軍を率いることになった。彼女の旗には聖母マリアの像と「イエス・マリア」の文字が刺繍されていた。
オルレアンはすでに半年以上包囲されている。食糧は尽き、市民は絶望していた。もしここが陥落すれば、フランス王国は消滅する。
しかしジャンヌは確信していた。神の声が再び響いていたからだ。
《恐れるな、娘よ。汝の使命は始まったばかり》
馬上のジャンヌは、オルレアンの方角を見つめた。そこには運命が待っている。勝利か、それとも破滅か。
しかし彼女は知らなかった。この勝利の後に待つ、さらに大きな試練のことを。政治の闇が、すでに彼女を狙っていることを。
第3章 オルレアンの奇跡
1429年4月。包囲された都市。
オルレアンの城壁が見えた時、ジャンヌは息を呑んだ。美しかった街は、今や包囲戦の傷跡だらけだった。城壁には矢の跡、焼け焦げた木造建築、そして絶望した市民たちの姿。
イングランド軍の要塞群が街を囲み、まるで鉄の輪のように締め付けている。半年間の包囲で、オルレアンは崩れかけていた。
「本当に、あの要塞を攻略できるのか?」
護衛の騎士たちは不安を隠せなかった。しかしジャンヌは白い鎧を身に纏い、聖母マリアの旗を高く掲げる。
「神は私たちと共におられます。恐れることはありません」
4月29日、ジャンヌがオルレアンの門をくぐると、民衆が押し寄せた。
「神の使いが来られた!」
「フランスは救われる!」
人々は彼女の鎧に触れようとし、白い旗に口づけを求めた。子供たちは歌いながら後に続く。まるで聖なる行列のようだった。
しかし軍の指揮官デュノワ伯爵は複雑な表情を浮かべた。
「民衆は熱狂しているが、戦況は厳しい。食糧はあと数日分しかない」
ジャンヌは答えた。
「神が望まれるなら、三日でこの包囲は解けるでしょう」
従来のフランス軍は守勢に回っていた。しかしジャンヌは攻撃を主張した。
「守っているだけでは勝てません。神は私たちに勇気を与えてくださいました」
軍議で年上の指揮官たちは反対した。
「少女に何が分かる。戦いは経験だ」
しかしジャンヌは地図を指しながら説明した。
「まずトゥーレル要塞を落とします。そこを起点に他の要塞を攻める」
彼女の戦術は大胆だった。正面攻撃ではなく、敵の弱点を突く機動戦。農民の娘が、なぜこれほど戦術に長けているのか。誰も理解できなかった。
5月4日の突撃。
夜明けと共に、攻撃が始まった。ジャンヌは最前線に立ち、真っ先に攻城梯子を登る。
「神の名において、前進!」
彼女の勇気は兵士たちを鼓舞した。普段は恐れをなして後退していた者たちが、今度は競うように梯子を登る。
しかし戦闘は激しかった。イングランド軍の弓矢が雨のように降り注ぐ。
その時、ジャンヌの肩に矢が突き刺さった。
「ジャンヌ!」
兵士たちは動揺した。しかし彼女は矢を引き抜きながら叫んだ。
「この程度で神の戦士は倒れません!旗を高く掲げなさい!」
血を流しながらも、彼女は戦い続けた。その姿を見て、兵士たちは雄叫びを上げる。
「彼女が倒れても旗は立っている!」
「神が共におられる!」
午後、ついにトゥーレル要塞が陥落した。イングランド軍は混乱し、他の要塞からも撤退を始める。
ジャンヌは血だらけの鎧を着たまま、オルレアンの鐘楼に立った。街中で鐘が鳴り響き、民衆が歓喜の声を上げている。
「神に感謝します」
彼女は跪き、祈りを捧げた。しかしその瞬間、遠くでイングランド軍の太鼓が鳴る。まだ完全な勝利ではない。
5月8日の決戦。
包囲軍の主力が反撃に出た。オルレアンの運命を決める最後の戦いだった。
ジャンヌは再び最前線に立った。今度は肩の傷が完全に癒えていない。しかし彼女は構わず剣を振るう。
「この戦いで全てが決まります!フランスのために!」
戦闘は一日中続いた。両軍とも必死だった。夕刻、ついにイングランド軍の抵抗が崩れる。
指揮官サフォーク伯爵が白旗を掲げた。
「オルレアン包囲を解く!」
街中が祝祭に包まれた。民衆は通りに繰り出し、ジャンヌの名を叫んだ。
「オルレアンの救済者!」
「神の使い!」
しかしジャンヌは浮かれなかった。彼女は負傷兵の元を訪れ、敵味方の区別なく祈りを捧げた。
「戦いは神の意志ではありません。しかし平和のためには時として必要です」
ある若い兵士が尋ねた。
「ジャンヌ様、次はどこへ向かわれますか?」
彼女は遠くを見つめながら答えた。
「ランスです。シャルル殿下を正式な王として戴冠させねばなりません」
しかし宮廷では、すでに暗雲が立ち込めていた。
「あの少女は危険だ。民衆の支持を得すぎている」
「王太子殿下より人気が高い」
「戦争が終われば、彼女は必要なくなる」
シャルル王太子は複雑な心境だった。ジャンヌは確かに祖国を救った。しかし彼女の存在は、同時に王権への脅威でもあった。
「神の使いを称える者は多い。しかし政治は神の意志だけでは動かない」
オルレアンの勝利は、ジャンヌの栄光の頂点だった。しかし同時に、彼女を政治的な犠牲者にする運命の歯車も動き始めていた。
民衆は救世主と崇めたが、権力者たちは彼女を恐れ始めていた。
第4章 裏切りと審問の罠
1430年5月23日、コンピエーニュ。
勝利の栄光は長くは続かなかった。
ジャンヌがオルレアンを解放し、シャルル7世を戴冠させてから1年。戦況は再び暗転していた。
コンピエーニュは戦略的要衝だった。ここを失えば、パリへの道が開かれる。ブルゴーニュ公フィリップ善良公とイングランド軍が合流し、7千の軍で包囲していた。
対するフランス軍は3千。
「ジャンヌ様、無謀です」
ジャン・ドーロンが進言した。コンピエーニュの市長で、ジャンヌの忠実な支援者だった。
「敵は我々の2倍。城に籠もって援軍を待つべきです」
しかし、ジャンヌは首を振った。
「籠城すれば民衆が飢えます。攻撃は最大の防御。敵の包囲網を破るのです」
彼女の瞳には民のために戦う意志が燃えていた。
同日午前。城門が開かれ、フランス軍が出撃した。ジャンヌは白い鎧に身を包み、聖母の旗を高々と掲げている。
「神と共に!」
「ジャンヌ様万歳!」
兵士たちの士気は高い。その中には、世に知られぬ若い騎士フランソワ・ド・モンモランシーもいた。
ブルゴーニュ軍の布陣は完璧に準備されていた。
中央は指揮官ジャン・ド・リュクサンブール率いる重装騎兵。右翼、イングランド弓兵隊。左翼、フランドル槍兵。
フランス軍の出撃を予期していたかのようであった。
午後。戦闘は激化していた。フランス軍は敵の罠にかかり、三方から攻撃を受けていた。
その時、若兵フランソワが敵の槍に囲まれた。
「助けてください!」
彼の叫び声が戦場に響く。
ジャンヌは躊躇しなかった。彼女は馬を駆け、フランソワの前に立ちはだかった。
「私の後ろに!」
ジャンヌが盾となり、フランソワを守った。しかし、その瞬間が致命的だった。
ライオネル・ド・ヴァンドーム率いるブルゴーニュ騎兵が一斉に突進してきた。
ジャンヌは一人で十数騎を相手にしなければならなかった。
「ジャンヌ様、危険です!」
フランソワが叫んだが、すでに遅かった。ジャンヌの馬が敵の矢に倒れ、彼女は地面に転がり落ちた。
「バスタール・ド・ヴァンドームの名において、降伏せよ!」
「降伏など...するものか!」
ジャンヌは最後まで抵抗した。しかし、数十人の敵兵に囲まれ、ついに力尽きた。
「ジャンヌ・ダルクを捕らえたぞ!」
歓声が戦場に響いた。
フランソワは涙を流しながら見ていた。自分を救うために、ジャンヌが捕らえられた。
「私のせいで...私のせいで...」
最も残酷だったのは、その直後だった。
コンピエーニュの城門が閉じられたのだ。
ギヨーム・ド・フラヴィ、城の守備隊長が命令を下した。
「城門を閉じよ!これ以上の被害は避けねばならん!」
「待て!ジャンヌ様がまだ外に!」
兵士たちが叫んだ。
「ジャンヌ様は捕らえられた!もはや助けられん!」
縛られながら、ジャンヌは城壁を見上げた。
あの城壁の上で、彼女は何度も戦った。民衆を守るために。フランスのために。
今、その同じ城壁が、彼女を見捨てていた。
「神よ...これもあなたの御心なのですか?」
ボーヌヴォワ城、牢獄。石の牢獄は冷たく、湿っていた。鎖につながれたジャンヌは、膝を抱えて座っていた。
「お前の王は、お前を見捨てたぞ」
ジャン・ド・リュクサンブールが言った。
「シャルル7世は身代金の支払いを拒否した。お前など、もはや用済みだということだ」
ジャンヌの心に刃のような痛みが走った。オルレアンで共に戦った兵士たち。ランスの戴冠式で涙を流した王。あの時の絆は、幻だったのか?
「それでも...それでも私は神の意志を信じます」
「神の意志?」リュクサンブールは鼻で笑った。「神がお前を救うなら、なぜ今、お前はここにいる?」
数日後、さらに残酷な知らせが届いた。
「イングランド軍が身代金を払うと言っている。一万リーブルだ」
一万リーブル。農民の一生分の収入に匹敵する。
「フランス王は一銭も払わないが、敵国は大金を払う。皮肉なものだな」
1430年11月、ルーアン。馬車に揺られながら、ジャンヌは故郷の方角を見つめた。ドンレミの村は遠い。もう二度と見ることはないだろう。
ルーアンはイングランドの支配下にあった。石畳の道を歩く民衆の視線は冷たい。
「魔女が来た」
「異端者め」
罵声が飛んだ。
ルーアン城、牢獄。新しい牢獄はさらに狭く、暗かった。湿った空気は鉛のように重く、石壁からは冷たい湿気が常に肌にまとわりつく。 窓と呼べるものは上部の小さな鉄格子だけで、そこから差し込むわずかな光も、もはや希望ではなく、ただ時間の経過を告げる無情な証のように思えた。
1431年2月21日、ルーアン大聖堂。裁判が始まった。
ピエール・コーション司教が裁判長を務めた。彼は政治的な計算で動く男だった。イングランドの金で買収され、ジャンヌを「異端者」に仕立て上げることが使命だった。
「被告人ジャンヌ・ダルクよ、汝は神の教えに反する行為を行った」
法廷には44人の聖職者が座っていた。しかし、その多くはイングランド寄りの人間たちだった。
主な告発内容は次のようになる。
一つ、男装の罪。
「汝は男装をし、神の定めた性の区別を侮辱した」
「私は身の安全を守るために男装をしています。もし安全が保証されるなら、喜んで女の服を着ます」
二つ、教会権威への反逆。
「汝は教会の権威を無視し、直接神の声を聞いたと偽った」
「私は偽っていません。神の声は確かに聞こえました。聖ミカエル、聖カトリーヌ、聖マルグリットの声です」
三つ、神の恩寵への傲慢。
「汝は神の恩寵を受けていると確信するか?」
これは罠だった。「はい」と答えれば傲慢の罪、「いいえ」と答えれば神への不信の罪。
しかし、ジャンヌは答えた。
「もし私が恩寵を受けていないなら、神がお与えください。もし受けているなら、神がお守りください」
法廷がざわめいた。完璧な答えだった。
裁判は1431年5月まで3ヶ月続いた。コーション司教は何度も罠を仕掛けたが、ジャンヌは毅然として答え続けた。
しかし、結果は最初から決まっていた。
1431年5月24日、サン・トゥアン教会。
公開法廷で、コーション司教が宣告した。
「汝、ジャンヌ・ダルクは異端者である。しかし、教会に従うなら、命は助ける」
ジャンヌは疲れ果てていた。3ヶ月の監禁、連日の尋問、そして何より、王に見捨てられた絶望。
「私は...私は間違っていたのでしょうか?」
群衆の前で、彼女は震える手で悔悛の文書に署名した。
1431年5月28日、牢獄。ジャンヌは再び男装していた。
看守が女性の服を持ち去り、男性の服しか残されていなかった。それは罠だった。
翌朝、コーション司教が牢獄を訪れた。
「再び男装をしている。これは背教だ」
「私には選択の余地がありませんでした」
「昨日の署名を取り消すのか?」
ジャンヌは迷った。しかし、その夜、再び「声」を聞いた。
《聖カトリーヌ》「恐れることはない。神はあなたと共におられる」
「はい」ジャンヌは答えた。「私は神の声を聞きました。それは真実です」
1431年5月29日。コーション司教は宣告した。
「汝は再犯の異端者である。明日、火刑に処す」
その夜、ジャンヌは一人で祈った。
「神よ、私はあなたの意志に従いました。でも、なぜこのような結末を...?」
涙が頬を伝った。オルレアンの勝利、ランスの戴冠式、兵士たちの歓声。全てが遠い昔の夢のように感じられた。
「明日、私は炎の中で死ぬのでしょうか?」
しかし、彼女は知らなかった。
ルーアンの街の片隅で、ある男たちが密かに集まっていることを。
「明日、必ず救い出す」
フランソワ・ド・モンモランシーが拳を握りしめた。コンピエーニュでジャンヌに命を救われた騎士。彼女が捕らえられたのは、自分を庇ったからだった。
「彼女は私のために捕らえられた。今度は私が彼女を救う番だ」
ブラザー・アンソニー。良心的な修道士で、裁判の不正を知っていた。
「準備は整いました。明日の朝、市場の倉庫に火をつけて混乱を起こします」
マルタン・ラディス。ルーアンの石工で、城の地下通路を知り尽くしている。
「脱出路は確保済み。修道院まで安全に運べます」
ピエール・カノン。元フランス兵で、ジャンヌの旗の下で戦った。
「馬と武器は準備した。日没まで持ちこたえれば、森に逃げ込める」
彼らは皆、ジャンヌに恩があった。コンピエーニュで救われた者、裁判の不正に心を痛めた者、単純に正義を信じる者たち。
牢獄の窓から見える空は、今夜は星が美しかった。
ジャンヌは最後の祈りを捧げた。
「神よ、あなたの御心がなされますように。でも、もしも...もしも私に使命が残っているなら...」
彼女の祈りは、天に届くのだろうか?
明日、その答えが明らかになる。
歴史は「運命」だと言う。
しかし、運命に抗う者たちがいる。
明日、ルーアンの処刑場で「奇跡」が起こることを、ジャンヌはまだ知らない。
第5章 救出〜炎を越えて〜
1431年5月30日、ルーアンの処刑場には朝6時の鐘の音が響き渡り、イングランド兵に警備された中で民衆が集まっていた。高く積まれた薪の上に、ジャンヌ・ダルクが立つための柱が立てられていた。
処刑前、ジャンヌはサン・トゥアン教会で最後の告白を許された。付き添った修道士ブラザーは、彼女を救出する意思のある者だった。彼はジャンヌに「恐れることはありません。友人たちが待っています。すべて神の御心です」と囁き、彼女の使命がまだ終わっていないことを伝えた。彼女は目を見開いて答えた。「神のご加護でしょうか……信じます。どうか私を導いてください」
午前9時、ジャンヌは重い鎖に繋がれて馬車で処刑場に向かった。
道の両側には群衆が並び、その中に帽子を深く被った救出のリーダー、フランソワがいた。石工のマルタン・ラディスは仕事の装いで脱出路の最終確認を行い、兵士ピエール・カノンは商人に変装して馬車を広場の片隅に停めていた。すべては計画通りに進んでいた。
処刑台の前に立つコーション司教は、3ヶ月の裁判でジャンヌの人柄を知り、彼女が純粋で神の声を信じる娘だと感じていた。
しかし、イングランド摂政ベッドフォード公からの「ジャンヌ・ダルクは生かしておけない。フランス軍の士気を永遠に削ぐために、彼女を異端者として処刑せよ」という命令に縛られ、その胸中は複雑だった。
午前10時、ジャンヌが処刑台に連れて行かれた。白い簡素な服を着た彼女は小柄で、群衆は「普通の娘に見える」「本当にあの戦場の英雄なのか?」とざわめいた。
コーション司教が最後の問いかけとして「ジャンヌ・ダルクよ、最後に教会に従うか?」と尋ねると、ジャンヌは「私は神と、神の聖人たちに従います。そして、天国の教会に従います」と答えた。
午前10時30分、ジャンヌが柱に縛られたその時、広場の反対側から黒い煙が上がった。「火事だ!」という叫び声とともに、マルタン・ラディスが仕掛けた火薬が爆発し、群衆はパニックに陥った。イングランド軍の隊長が持ち場を離れるなと叫ぶも、兵士たちも動揺していた。
混乱の中、ブラザー・アンソニーが処刑台に駆け上がり、「最後の祈りを!」と叫びながらジャンヌの前に立った。彼の修道服の下には濡れた厚い毛布が隠されていた。
彼は油を注いだ薪に火をつけ、炎が上がった瞬間に毛布でジャンヌを包み込んだ。煙が立ち込める中、フランソワが処刑台の後ろから梯子を上がってきた。彼らは、マルタンが掘った地下通路へと繋がる小さな穴から脱出する計画だった。
煙が晴れると、柱に縛られていたのは焼けた遺体だった。
しかし、それはジャンヌではなかった。
ブラザー・アンソニーは3日前に病気で亡くなった若い女性の遺体を密かに運び込み、身代わりにしていたのだ。本物のジャンヌは地下通路を通って姿を消していた。
ルーアン城の狭い地下通路を、ジャンヌは這うように進んだ。先導するマルタンは石工として城の建設に関わっており、隠された通路を知っていた。「なぜ...なぜ私を?」と息を切らして尋ねるジャンヌに、フランソワは「コンピエーニュで、あなたに救われました」「あなたが捕らえられたのは、私を庇ったからでした」と答えた。ブラザー・アンソニーも「あの裁判は不正でした。あなたは無実です」と続けた。
午後6時、ジャンヌたちは馬車でブルターニュ郊外の聖母マリア修道院に到着した。院長のマドレーヌがジャンヌを迎え、「神はあなたに新しい使命を与えられました。剣ではなく、愛で人を救う使命を」と告げた。
その夜、ジャンヌは長い間祈った。
明け方には「私は修道女として生きます。ジャンヌ・ダルクは死にました。これからは神の母聖母マリアのように、すべての人を愛し、癒したいのです」と院長に告げた。
ルーアンの処刑場で焼けた遺体を見つめるコーション司教は、その死体が本当にジャンヌだったのか疑問を抱いたが、それを口にすることはなかった。フランソワは故郷へ馬を走らせ、借りを返したことに安堵した。ブラザー・アンソニーは修道院に残り、マリーの新しい人生を見守ることにした。
歴史の本には「1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクは火刑に処せられ、19歳の若さで殉教した」と記されている。これが史実である。
しかし、この日の出来事を知る者たちは「1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクは炎を越えて、新しい人生を歩み始めた」という、聖女の転生を心に秘めていた。
第6章 新たな使命
最初の夜、ジャンヌは悪夢で飛び起きた。
炎が迫り、群衆の罵声、鎖の音が聞こえる。
「ジャンヌ様!」
若い修道女が駆けつけた。
「すみません...私は...」
「ここは修道院です。危険はありません」
握られた手の温かさに、彼女は涙を流した。
「私は死ぬはずだった」
「でも生きています」
「なぜ...なぜ私だけが?」
異変に気づいて訪れたマドレーヌ院長は、静かに答えた。
「神の意志は、人には分からないものです。だが一つだけ確かなことがあります。」
「何ですか?」
「あなたには、まだ果たすべき使命があるということです」
マリー・ド・ラルム。それがジャンヌの新しい名前だった。
「ラルム」は「涙」を意味する。神への涙、民衆への涙、そして自分自身への涙。
鏡を見るたび、彼女は戸惑った。
短く焼けた髪、やつれた頬、手首に残る鎖の傷跡。
「私は...誰?」
しかし時間が答えを教えてくれた。
マリーに与えられた仕事は薬草園の世話だった。
「戦場で傷の手当てをしたことがあるなら、適任となるでしょう」
院長の言葉通り、オルレアンで覚えた応急処置の知識が、ここでは人を救う技術になった。
ラベンダー、カモミール、セージ...。
静かな植物たちが、彼女の心を癒していく。
「以前は剣で戦った」
マリーは薬草を摘みながらつぶやいた。
「今度は祈りで戦うのですね」
ある日、修道院に負傷した旅人が運ばれてきた。
足に深い傷を負った中年の男性で、農民風の身なりをしていた。
「膿んでいる。このままでは...」
若い修道女が青ざめた。
「私にやらせてください」
マリーが前に出た。戦場で何度も見た傷だった。
まず傷口を洗浄し、膿を取り除く。男性は痛みに呻いた。
「大丈夫です。すぐに楽になります」
マリーの手は迷いがなかった。薬草の汁液を塗り、清潔な布で包んだ。
「あなたは...医師ですか?」
男性が弱々しく尋ねた。
「いえ、ただの修道女です。マリーと申します」
「ありがとうございます、マリー様」
その夜、男性の熱は下がった。傷も順調に回復していく。
「見事でした」
院長が言った。
「神はあなたに、癒しの手をお与えになったのでしょう」
1431年8月、フランスから知らせが届いた。ジャンヌ・ダルクの復権に向けた動きが始まっているという。
マリーは複雑な気持ちだった。
「彼女の名誉は回復されるでしょう」
院長が言った。
「ですが、あなたはもう彼女ではない」
「それで良いのでしょうか?」
「神がそう望まれたのです」
マリーは薬草園で膝をついた。夕日が美しい。
「神よ、私はあなたの意志を理解しようとしています。戦う代わりに癒すこと。殺す代わりに生かすこと。それが私の新しい使命なのですね」
風が吹き、ラベンダーの香りが漂った。
1431年12月、修道院の冬は厳しかったものの、マリーは初めて本当の平安を感じていた。
朝の祈り、薬草の世話、病人の看護、夜の祈り。
規則正しい生活が、戦争の記憶を少しずつ癒していく。
「夜中に叫ぶことは無くなりましたね」
若い修道女が言った。
「ええ。やっと眠れるようになりました」
「何の夢を見るのですか?」
「平和な風景です。羊が草を食んでいて、子供たちが笑っている」
それは、ドンレミの村の記憶だった。戦争が始まる前の、美しい思い出だ。
1432年1月1日、新年の朝、マリーは一人で祈った。
「神よ、あなたは私を二度生まれさせてくださった。一度目は戦士として、二度目は癒し手として」
「今度は間違えない。剣で傷つける代わりに、手で癒す。憎しみを広げる代わりに、愛を広げる」
「私の残りの人生を、あなたに捧げます」
その時、不思議な安らぎが心に降りてきた。あの「神の声」とは違う、静かで深い平安だった。
外では雪が降っていた。真っ白な雪が、過去の全てを覆い隠している。
マリー・ド・ラルムの新しい人生が、本当に始まったのだった。
院長の日記より
1432年1月1日
あの少女は変わった。最初の頃の混乱と絶望は消え、今は静かな確信に満ちている。
神はなぜ、あの炎から彼女を救われたのか。その答えが少しずつ見えてきた。
ジャンヌ・ダルクは戦士として祖国を救った。
マリー・ド・ラルムは癒し手として魂を救うのだろう。
これもまた、神の深い計らいなのかもしれない。
第7章 静かなる使命
1435年春、ブルターニュの修道院。
マリーが修道院に来て4年が経った。
彼女はもう、かつての戦乙女ではなかった。静かで穏やかな癒し手になっていた。
「マリー姉妹、また患者です」
若い修道女が駆けてきた。今度は商人の一行で、その中に高熱で倒れた男性がいた。
「運んでください」
マリーの声には、自然な威厳があった。それは戦場で身につけた指揮能力が、平和的な形で現れたものだった。
戦場での経験と修道院の薬草知識が合わさって、マリーは独特の治療法を編み出していた。
「まず、傷を清潔にします」
彼女は沸騰させた湯で傷口を洗った。当時としては画期的な方法だった。
「次に、この薬草を」
セージとカモミールを混ぜた軟膏を塗る。抗菌作用がある組み合わせだった。
「そして、安静に」
患者を静かな部屋に寝かせ、定期的に様子を見る。
多くの場合、患者は数日で回復した。マリーの評判は、密かに広がっていった。
1438年秋。ある日、特別な患者が運ばれてきた。30代の男性で、体に傷はないのに震えが止まらない。戦争から戻った兵士だった。
「夜中に叫び声を上げるのです」
付き添いの妻が涙ながらに説明した。
マリーは、その症状をよく知っていた。自分も経験したからだ。
「大丈夫です。時間はかかりますが、必ず良くなります」
マリーは男性の手を握った。
「あなたは悪い夢を見るでしょう? 炎や血、仲間の悲鳴...」
男性の目が見開かれた。
「どうして...分かるのですか?」
「私も同じ経験をしたからです」
マリーは静かに答えた。
「戦争は体だけでなく、心も傷つけるのです」
マリーは男性と毎日話をした。
「戦う必要があったのです」
男性が言った。
「分かります。でも、もう戦いは終わりました」
「仲間を見殺しにしました」
「あなたは生き延びました。それには意味があります」
「どんな意味が?」
「それを見つけるのが、これからの人生です」
マリー自身、同じ問いと向き合っていた。なぜ自分だけが救われたのか?
答えは、目の前の患者の回復した笑顔にあった。
1440年。マリーのもう一つの使命は、教育だった。
「文字を覚えたいのです」
若い農民の女性が言った。
「なぜですか?」
「子供に読み書きを教えたくて」
マリー自身、長い間文盲だった。文字を覚えたのは宮廷に入ってからだ。
「一緒に学びましょう」
マリーは教室を開いた。主に女性と子供が対象だった。
「神は男女を分け隔てなく愛されます」
これは当時としては革新的な考えだった。
「だから学ぶ権利も平等です」
1442年夏。ある日、見覚えのある顔の老兵が修道院を訪れた。足を引きずる古い傷が悪化していた。
マリーが手当てをしていると、老兵が細い目を凝らして言った。「その手つき...戦場の衛生兵か?」
「修道院で多くの傷を見てきました」マリーは俯いたまま包帯を巻き続けた。
老兵は突然、彼女の左手首を指さした。「その十字の傷跡...!」
マリーの手が微かに震えた。甲冑の隙間から受けた矢傷の痕だった。
「百戦錬磨の老兵が、戦友の傷跡を忘れるものか」老兵の声が詰まった。「まさか...貴女が生きていたとは」
沈黙が流れた。蝋燭の炎が揺らめく中、マリーはゆっくり顔を上げた。
「あの戦乙女はルーアンの火刑場で死にました。今ここにいるのは、神に仕えるマリーです」
老兵は机に手をついた。「皆、貴女が英雄として語り継がれるべきだと...」
「英雄などいりません」マリーの声に初めて熱が宿った。「生き残った者がすべきことは、次の命を守ることです」
老兵は長い間、彼女を見つめていた。そして、ゆっくりとうなずいた。
「分かりました...マリー様」
老兵が去る時、雨上がりの庭でマリーは彼を見送った。
「伝えてください」マリーの声は静かだが確かに響いた。「剣を置いた者の戦いが始まったと」
老兵は杖をつきながら振り返った。「その戦いとは?」
「憎しみが傷を広げるなら」マリーは薬草畑のラベンダーを撫でながら言った。「私はこの手で癒しの種を蒔く」
老兵の頬を一粒の涙が伝った。「では...どうかお健やかに。マリー・ド・ラルム様」
彼の足取りは確かに来た時より軽く、まるで重い鎧を脱ぎ捨てたかのようだった。
その夜、マリーは一人で祈った。
「神よ、私はようやく理解しました」
「あなたは私に二つの人生をくださった。最初の人生で私は剣を取り、二番目の人生で私は祈りを選びました」
「どちらも、あなたへの奉仕でした」
窓の外では、薬草園の花々が月光に照らされている。
ラベンダーの香りが、静かな夜気に漂っていた。
かつて戦場で嗅いだ硝煙の匂いは、もう記憶の奥に沈んでいた。
「人を救う方法は。一つではなかったのですね」
そうつぶやいて、マリーは深い眠りについた。
もう悪夢を見ることはなかった。
商人の手記より
1443年
ブルターニュの修道院に、不思議な修道女がいる。
マリーと名乗るその女性は、どんな傷でも治してしまう。
しかも、心の傷も癒すのだという。
多くは語らないが、その瞳には深い悲しみと、それを乗り越えた強さがある。
きっと、何か大きな試練を経験したのだろう。
そして今、その経験を人々の救いに変えているのだ。
第8章 歴史との和解
1456年7月7日の朝、修道院に一人の書記官が訪れた。シャルル7世の勅命により、ジャンヌ・ダルクの復権裁判が完了し、異端の罪が完全に取り消されたという公式通達を携えて。
マリーは薬草園で膝をついていた。25年前、彼女を火刑に処した教会が、今度は彼女を聖女と呼んでいる。皮肉な運命の輪だった。
「マリー様」院長が静かに声をかけた。「お聞きになりましたか?」
「はい」マリーは立ち上がらずに答えた。「ジャンヌ・ダルクは無罪になりました。でも、マリー・ド・ラルムには関係のないことです」
しかし、その夜の祈りで、マリーは初めて涙を流した。それは悲しみではなく、解放の涙だった。神が彼女の無実を証明してくださった。たとえ25年遅かったとしても。
1458年の秋、修道院に一人の老騎士が現れた。白髪に深い皺を刻み、片足を少し引きずって歩くその男性は、マリーを見つめて静かに言った。
「お久しぶりです。ジャンヌ様」
「私はマリー・ド・ラルムです」マリーは静かに答えた。しかし、その瞬間、記憶が蘇った。
「フランソワ様...」
「お気づきになりましたか」老騎士は涙ぐんだ。「私はフランソワ・ド・モンモランシー。あの日、あなたを炎から連れ出した者の一人です」
マリーは驚いた。27年前、処刑台から彼女を救い出した騎士が、今は白髪の老人となって目の前に立っていた。
「なぜここに?」
「あなたに謝りたくて」フランソワは頭を下げた。「私があの時、もっと早く動いていれば、あなたが火刑台に上ることもなかった」
マリーは微笑んだ。「フランソワ様。神は私に二つの人生をお与えになりました。一つは剣で、もう一つは愛で。どちらも必要だったのです」
「あなたは...変わられました」
「人は変わるものです。神がそれを望まれるなら」
フランソワは数日間、修道院に滞在した。かつて戦場で共に戦った二人は、今度は静かな祈りの時を共有した。
「私は戦争で多くを失いました」フランソワが告白した。「家族も、領地も。最後に残ったのは、あなたを救えたという誇りだけでした」
「それで十分ではありませんか」マリーは包帯を巻きながら答えた。「一つの命を救うことは、全世界を救うことと同じです」
「あなたのように、静かに人を癒すことができれば良かった」
「いえ、あの時のあなたがいなければ、今の私もいません。すべては神の計画だったのです」
フランソワは涙を流した。長年胸に抱えていた罪悪感が、ついに解放された瞬間だった。
1460年代、修道院には多くの若い女性たちが学びに来るようになった。マリーの医療技術と、その背後にある哲学に惹かれて。
「シスター・マリー、なぜ戦うことをやめたのですか?」年若い教え子が質問した。
「戦いをやめたのではありません。戦う相手を変えたのです」マリーは包帯を巻きながら答えた。「昔は人と戦いました。今は病気や絶望と戦っています」
「でも、悪い人間はどうするのですか?」
「悪い人間は、実は傷ついた人間です。憎しみは憎しみを生み、愛は愛を生みます。どちらの種を蒔きたいですか?」
マリーの生徒たちは、このような対話を通じて、単なる医療技術以上のものを学んでいった。それは生き方の哲学だった。
1465年の聖ミカエル祭の夜、マリーは久しぶりに「声」を聞いた。しかし、それは戦いを命じる声ではなかった。
《大天使ミカエル》「よくやった、我が娘よ。剣で救えなかった魂を、今度は愛で救っている」
「大天使ミカエル様...」
《大天使ミカエル》「ジャンヌの使命は終わった。マリーの使命はこれからも続く」
「私はもう老いました」
《大天使ミカエル》「肉体は老いるが、愛は永遠だ。お前が蒔いた種は、お前が去った後も芽吹き続ける」
マリーは目を覚ました。外は深い夜だったが、心は光に満ちていた。
1470年、58歳になったマリーは、修道院の運営を若い世代に委ねることを決めた。
「私の時代は終わります」彼女は集まったシスターたちに言った。「でも、皆さんの時代はこれからです」
「シスター・マリー、私たちはあなたのようになれるでしょうか?」
「私のようになる必要はありません。あなたたち自身になってください。ただし、一つだけ覚えていてください」
マリーは全員を見回した。
「愛は炎より強い。憎しみは一時的ですが、愛は永遠です。これが私の最後の教えです」
1470年の冬、マリーは小さな部屋にいた。窓からは雪景色が見える。39年前、火刑台で見た最後の景色も雪だった。しかし今は、その雪が美しく見える。
彼女は日記に言葉を記した
「ジャンヌ・ダルクは国を救おうとした。マリー・ド・ラルムは魂を救おうとした。どちらも神の意志だった。私は二つの人生を生き、両方で神に仕えることができた。フランソワ様のような優しい魂に出会えたことも、神の恵みだった。これ以上の幸せはない」
窓の外で、雪は静かに降り続けている。まるで天使たちが祝福を降らせているかのように。
マリーは微笑んだ。歴史は彼女を忘れるかもしれない。しかし、彼女が癒した魂たち、教えを受けた女性たち、そして彼女を救った勇敢な人々は覚えているだろう。それで十分だった。
真の勝利とは、敵を倒すことではない。敵を友に変えることだ。そして、自分自身の心の平和を見つけることだ。
マリーは静かに祈りを捧げた。
感謝の祈りを。
第9章 悠久の祈り〜静かな終幕〜
1476年5月29日、聖母マリア修道院。
マリー・ド・ラルム。かつてのジャンヌ・ダルクは、小さな部屋のベッドに横たわっていた。64歳。髪は真っ白になり、顔には深い皺が刻まれていたが、その瞳には静かな光が宿っていた。
扉を軽く叩く音がした。
「どうぞ」
現れたのは、白髪の老修道士だった。ブラザー・アンソニー。45年前、火刑から彼女を救った男だった。
「お久しぶりです」
「アンソニー様...よくいらしてくださいました」
マリーは微笑んだ。枯れた声だったが、温かみがあった。
「最期を見届けたくて」
彼は椅子に座った。85歳になる彼の背中も、すっかり曲がっていた。
「明日は...あの日から45年ですね」
「ええ。神がお呼びになるのでしょう」
「アンソニー様」マリーが静かに言った。「私はこの45年間、ずっと考えていました」
「何をですか?」
「私の人生は正しかったのでしょうか?」
老修道士は驚いた。
「もちろんです。あなたは多くの人を救いました」
「でも私は逃げたのです。火刑台から逃げて、新しい名前で生きました。それは正しかったのでしょうか?」
アンソニーは深く息を吸った。
「マリー様。神はあなたに二つの使命をお与えになりました」
「二つの?」
「一つは剣で国を救うこと。もう一つは愛で魂を救うこと」
マリーの目に涙が滲んだ。
「もしもあの日、炎で死んでいたら、後半の使命は果たせませんでした」
その夜、マリーは45年間の記憶を辿った。
修道院で出会った数百人の病人たち。彼女の手で癒された傷。教えを受けた若い女性たち。
特に印象深いのは、修道院に運ばれた最初の患者だった。
足に深い傷を負った中年の農民。膿んでいて、危険な状態だった。
「私にやらせてください」
マリーは前に出た。戦場で何度も見た傷だった。
まず傷口を洗浄し、膿を取り除く。男性は痛みに呻いた。
「大丈夫です。すぐに楽になります」
薬草の汁液を塗り、清潔な布で包む。その夜、男性の熱が下がった。
「ありがとうございます、マリー様」
男性は涙を流して感謝した。マリーの手が、本当に癒しの力を持っていることを実感した瞬間だった。
5月29日 深夜。修道院の鐘が12回鳴った。
マリーは静かに祈った。
「神よ、感謝いたします」
「ジャンヌとして19年、マリーとして45年。合わせて64年の人生をお与えくださり、ありがとうございました」
「剣で戦った日々も、愛で癒した日々も、すべてが意味あることでした」
「この修道院で学んだ娘たちが、私の教えを受け継いでくれますように」
「戦争より平和を、憎しみより愛を選ぶ人が増えますように」
「そして...」
マリーは微笑んだ。
「昔の私を知る人が、もう誰もいなくなった時、真実を語ってもよろしければ、語らせてください」
「愛は炎より強いということを」
5月30日、早朝。
この朝、マリーは静かに息を引き取った。
アンソニーが最期を看取った。彼女の顔は安らかで、まるで美しい夢を見ているようだった。
「よく頑張りました」
老修道士は彼女の額に十字を切った。
「マリー・ド・ラルム、安らかに眠りなさい」
しかし心の中では、別の名前で祈っていた。
「ジャンヌ・ダルク、よくやりました。あなたは本当の聖女でした」
埋葬の日。
修道院の墓地に、質素な十字架が立てられた。
墓石にはこう刻まれた。
《修道女マリー・ド・ラルム》
《1412-1476》
《愛は炎より強し》
その後、不思議なことが起こった。
マリーの墓の周りに、季節を問わず小さな白い花が咲くようになったのだ。
修道院の娘たちは言った。
「シスター・マリーが天国から送ってくれる花よ」
実際は、マリーが生前に植えた薬草の種が、深く根を張っていたのだった。しかし、それもまた小さな奇跡と呼べるものだった。
2023年7月、ルーアン市立図書館。
改修工事中の図書館で、作業員が古い石壁の隙間に木製の小箱を発見した。
中には、羊皮紙に書かれた古い手記があった。
《ブラザー・アンソニーの証言》
「1431年5月30日、我らは炎の中から彼女を救い出した」
「彼女は多くの人の命を救ってくれた。今度は我らが彼女を救う番だった」
「マリーと名を変えた彼女は、剣を捨て祈りを選んだ」
「45年間、誰にも真実を語ることはできなかった」
「しかし神よ、いつかこの記録が見つかる日を待っています」
「愛は炎より強いということを、後世の人々に知ってもらうために」
歴史学者のマーク博士が手記を読み上げると、研究チームは息を呑んだ。
「これが本物なら...」
「ジャンヌ・ダルクの死に、もう一つの物語があったということになる」
しかし博士は首を振った。
「真偽のほどはわからない。でも...」
博士は微笑んだ。
「本物でも創作でも構わない。大切なのは、この物語が伝えようとしているメッセージだ」
「愛は炎より強い」
戦争が続く世界で、憎しみが渦巻く時代に、500年以上前の小さな修道女の声が聞こえてくるようだった。
「戦いではなく愛を選びなさい」
「復讐ではなく許しを選びなさい」
「炎ではなく祈りを選びなさい」
マリーの祈りは、時を越えて届いている。
彼女が蒔いた愛の種は、500年を経ても芽を出し続けている。
それこそが、真の奇跡だった。
この物語は史実に基づいたフィクションです。
ジャンヌ・ダルクの処刑は歴史的事実ですが、
その後の「マリー」としての人生は創作です。
平和のために命を捧げた彼女に。
悠久に続く魂の平穏が訪れることを願います。
すべての戦いに疲れた人々へ。
愛は、必ず炎より強い。
当方は、そう信じます。