いい子には
質素倹約を旨とするセィムの荷物は少ない。
シァルが手伝ってくれたら、あっという間に荷造りは終わってしまった。
手配してくれたのは白い幌のついた荷馬車だ。
「はやく引っ越して、ふたりきりになりたい」
ほんのり朱く染まるまなじりで、シァルが手を握ってくれたら、噴火するしかない。
「…………っ!」
鼻血を噴かなかった鼻の血管を、セィムは全力でほめた。
──よくやった、セィム!
シァルさまの前で鼻血とか、真剣に泣いちゃう……!
鼻をさすったセィムは、今日は自分を二度もほめたことに気がついた。
今まで『自分をほめよう』なんて思ったこともなかったのに『よくやった!』自分をほめるたび、くしゃくしゃに小さく縮こまって歪んでいた自分が、ふわふわあたためられ、やわらかに舞いあがるみたいだ。
……干した海藻が戻るみたいに?
この間、市場で初めて見て冒険する気もちで購入した海藻が、めちゃくちゃ硬かった小さな塊が、水に入れてしばらく置いておくと、ぶわんとやわく膨れあがったのにびっくりしたことを思いだした。
おんなじ海藻でも、ちいさく硬くも、大きくやわくもなるみたいに。
おんなじ人間でも、どんなに仕事ができなくても、小さく硬く縮こまるんじゃなくて、胸を張ってやわらかに生きていってもいいのかな……
「ほいじゃあ、出しますぜ!」
御者のおじさんが手をあげる。馬が蹄をあげた。
ずっと死ぬまで暮らしてゆくのだと、いつからか思いこんでいた部屋が、遠くなる。
ふしぎだった。
シァルが隣にいてくれる。
ただそれだけで、見えるものが、変わってゆく。
考えることが、変わってゆく。
シァルの隣にいる。
ただそれだけで世界が、一瞬で、変わってゆく。
「俺の食費は限られているので、市場で買った野菜で適当に作って食べてもいいですか」
荷馬車に揺られながら話すセィムに、シァルの凛々しい眉がさがる。
「どうしたらセィムは敬語をやめてくれるのかな?」
セィムは顔をおおった。
「だってシァルさま、まぶしい──!」
真実を告げた。
存在自体が、輝いてる。
町ゆく人が、荷馬車で揺られてゆくシァルを覗きこんでは拝んでる。セィムも一緒に拝んだ。
ものすごく自然に、当たり前のように、存在を前にするだけで拝みたくなる人と一緒に暮らすとか、絶対夢だ──!
また頬を引っ張ろうとしたセィムの手を、シァルの指が止める。
「じゃあ敬語を使うたびに、口づける、というのは?」
「…………は……?」
「恋人なんだから、当然だろう?」
「(仮)です──!」
噴火するセィムの指に、シァルの指が、からまった。
「次、敬語を使ったら、ちゅうするから」
輝くようにシァルが笑う。
耳まで燃えて、ささやいた。
「……それは、俺に敬語を使えとおっしゃっているのと、同義です」
馬車が、揺れる。
空の瞳が、まるくなる。
「じゃあだめだな」
シァルの輝くかんばせが、近づいた。
ちゅ
ふわふわの、やわらかなくちびるが、セィムの頬にふれて、はなれてく。
「今度敬語を使ったら、二度と、ちゅうしてあげない」
つながる指を、にぎられる。
シァルのくちびるが、自分の頬にふれてくれたなんて夢みたいで、なのにすがるようにシァルの指をにぎった。
「……わかった」
燃える頬でうなずいたら、シァルが微笑む。
「いい子には、ごほうび」
ちゅ
やわらかなくちびるが、まなじりにふれる。
発火しそうなセィムは、シァルの指を握った。
ぎゅうぎゅう、にぎった。