帰ってきて、セィム!
『誘ったけど、セィムに断られた』と聞いた宰相閣下は、今現在、ロイがかつて見たことがないほど、ごきげんだ。
言うなら、今しかない……!
決死の覚悟で、ロイは口を開く。
「セィムは伴侶になるごあいさつに、救国の英傑シァルさまのご両親のもとへ一週間ゆくそうです」
世界が、凍った。
「………………は…………?」
噴きつける凍気が痛い。
そこで、俺を攻撃するのをやめてください、宰相閣下──!?
するならシァルさまを……ってできるわけないよね。うん。わかる。
ギギギギギ
音がしそうなほど、凍りつく宰相が、薄い唇を開く。
「……伴侶……?」
仕方なく、ロイはうなずいた。
「はい」
「……救国の英傑と……?」
びっくりだよね。うんうん。
いくら国務院の癒し担当とはいえ、セィムは平々凡々で目立たないの極致だ。
カィザ選王国だけじゃない、大陸中に名をはせるシァルさまとは、どうしたって不釣りあいに見えてしまう。
……でも、くやしいけど、とってもくやしいけど……おにあいだと、思うけど。
「最近、毎日、シァルさまは国務院にセィムを迎えに来てくださっていました」
報告したロイに、宰相の柳眉が跳ねあがる。
「見たことないけど」
こわいこわいこわい。
吹きつける凍気が痛いです、閣下。
「宰相閣下のいらっしゃらない、退勤時刻でしたので」
沈黙も痛い。
肌に霜が降りそうだ。
「……それは、僕に報告をあげるべきじゃないの?」
うん、無茶ぶりだよね?
「……え……? あ、あの、セィムを迎えにシァルさまが毎日いらっしゃいますと、宰相閣下に……? 国務院総務部長が、ご報告を……?」
思わず突っこんだ。
ぐ、と詰まった宰相は、涼やかな目をつりあげる。
「救国の英傑となんて、闘えないだろう! なんてものを釣りあげるんだ!」
おお、やはり宰相閣下でも戦えませんか。
たぶん、カィザ選王国、選王陛下でさえ、闘えないかもしれない。
選王は何人も選ばれてゆくけれど、大陸中の王国の連合軍からカィザ選王国をたったひとりで守った英傑は、シァルだけだ。
それが、凡庸きわまりない、四角い眼鏡のセィムの伴侶に……!
「……はい、あの、俺もそれは、シァルさまのお目が、大変に高いとしか……」
ほんとうに、見る目あるとおもう。
さすが救国の英傑だ。
「も、もしかして、潰した巨大悪徳密売人とか、よその王侯貴族から脅迫されてる僕を心配して、護衛にシァルさまがついてきてくださったから!? もしかして僕なのか──!」
泣いてる。
……ああ、そうだね。
宰相閣下が、シァルさまを連れてきたね。
甲冑に覆われてて忘れがちだったけど、今、気づいたよ。
しかし、泣いてる宰相閣下は見ものだが、国務院総務部長としては、仕事をせねばならんのです!
「あ、あの、宰相閣下、本日の視察は──」
「それどころじゃないよ!」
泣いてる。
氷の硝子細工の宰相閣下が……!
セィム、すごいなあ。
見せてあげたいなあ。
……ああ、どうしてここにいないんだ、セィム!
いや、セィムがいないからこそ見える光景なのか。
セィムがいない半日で、10年分くらい疲弊したロイは、そっと口を開いた。
「あ、あの、お茶でも……」
仕方なく、落ちついてくれないかと、セィムの真似をして、お茶を淹れてみた。
「まずい!」
よけいに泣かれた!
「セィムちゃんの淹れてくれるお茶じゃなきゃ、飲みたくない!」
だだっ子だ!
氷の硝子細工なのか、ほんとうに……?
「あ、あの、今月の国務院の業務報告はこちらです。納税はこちら。大口は入念に調査しております。あやしいものは、特には。
借入のうえ商売を行っている者に対する課税の陳情が、宰相閣下にあがっております」
ちらりと見た宰相の氷の瞳が細くなる。
「まとまってない。何これ」
ぱんと指ではじかれた書が、宙を舞う。
「……え、いえ、いつもどおり……」
いじめなの……!?
泣きたくなったロイに、宰相閣下は鼻を鳴らした。
「いつも僕が来るのは抜き打ちだけど、僕が来るって分かった瞬間から、セィムちゃんは書類を僕が見やすいように、調査しやすいように、資料も添付して、まとめなおしてくれるんだよ。
そんなことも知らないの?」
…………知りませんでした…………
『宰相閣下、ご来院──!』国務院の職員の悲鳴よりはやく、確かセィムは動いていた。
宰相閣下の馬車が国務院に向かった瞬間、衛士に国務院に通達してくれるよう、嘆願していたと思う。
衛士が通報してくれたらすぐにセィムは書をまとめてくれていた。
──気がきくな、セィム。
ロイはいつも感心していた。それだけだった。
監査は抜き打ちだから、そんなにすぐに資料を用意できるはずはない。
たぶん前もって準備してくれていたんだ。
いつ宰相閣下が監査に来ても、宰相閣下も国務院も仕事をしやすいように。
「納税に国務院に来たら、ものすごくおいしいお茶を出してくれるって有名だよ。納税は死ぬほどいやだけど、お茶がおいしいから、ちょっと癒されるって。
セィムちゃんが淹れてくれるんだよ。知ってるの?」
…………おいしいとは思ってました…………
『うまいな、セィム』
ねぎらったことも、あると思う。
『よかった』
セィムはいつも、何でもないように、穏やかに微笑んでくれる。
ほめ言葉も、辛いことも、苦しいことも、ぜんぶ、やわらかに、おだやかに微笑んで、受け容れてくれた。
16年も、そうしてくれるから、まるで仕事としておこなって当然みたいに思ってしまったのかもしれない。
先回りして仕事をしてくれることは、来院者のためにお茶を淹れてくれることは、セィムが微笑んでくれることは、ひとつも、当たり前なんかじゃ、なかったのに。
「セィムちゃんに対する感謝が足りないんだよ、国務院は──!」
叫ばれました。
「も、申しわけございません──!」
皆で頭をさげました。
セィム、ごめん!
ほんとうに、ごめんなさい!
わるかったから!
謝るから!
謝るためにも、帰ってきてぇええ──!




