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枯れない花束

作者: 森田楡

 彰人と喧嘩した。リビングで掃除機をかけながら、彼のカバンから一枚の写真を見つけたことがきっかけだった。

 彰人には私の前に五年付き合った人がいる。彼はそのことを進んで話してくれないから、彰人の前カノの顔を見たことさえその写真が初めてだった。彰人とその女が仲睦まじげに頬を寄せている。

 なんで、こんな写真持ってんだよ。

 カバンの奥で忘れ去られていたみたいに皺だらけの写真だったから、もう不要だろうと思い、一瞬迷ったけれどゴミ箱に放り込んだ。ムシャクシャするから、女の顔のあたりにわざわざ指を突っ込んで、ビリビリに破いてやった。

 その日はずっと虫の居所が悪くて、彰人と話す気にもなれなかった。たぶん彰人も、私の不機嫌に気づいていたと思う。まるで腫れ物を扱うみたいに私の顔色を窺っていたから。

 だがしばらくすると一転して、彰人が例の写真の在処を尋ねてきた。心にぽっかりと穴が空いたみたいな眼差しを見て、ああ、やってはいけないことをしてしまったと思った。正直に写真を捨てたことを伝えると、彰人は目に見えて意気消沈したから、今度は私がムカついて、私がいて他の女のことなんて考えるんじゃねぇと勢いに任せて激昂した。それで家に居れなくなってしまった。あの彰人から「お前の顔をしばらく見たくない」なんて、絶対に吐き出させてはいけない言葉を引き出した。

 でも、悪いのは前カノを忘れてくれない彰人だよ。私の顔を見たくないだなんて、悪いことをしているのは彰人の方なのに、そんなの虫が良すぎる。

 同棲して一年近く、初めて実家に帰った。実家はさほど遠くない。電車で二駅くらいの距離にある。当初は何かあれば実家に逃げ込めばいいと思っていたけれど、今宵、初めてその機会が訪れた。

 ああ、死ぬほどムシャクシャする。落ち着こうと思っても、今の私は沸騰したティーポットみたい。いったん自室に篭ると、彰人のLINEを開き、スマホの画面が埋まってしまうほど感情を書き殴る。いざ送信しようとしたとき、ふと恐ろしくなる。これを送信して嫌われたらどうしよう。彰人からもう要らないと言われたら? しばらく考えて文章を消した。

 喉が渇いたからダイニングに降りた。夕飯の用意をする母親から「何かあったの?」と訊かれた。「喧嘩した」と伝えると、「そっかぁ、大変だったね、落ち着くまでここにいていいからね」と他人事みたいに言って、さっさと夕飯の準備に戻ってしまう。それ以上は話す気にもなれなくて、また自室に籠った。普段はこんなことでは苛立たないのに、今日ばかりは私も余裕がない。

 煩雑な私の気持ちと裏腹に、実家の自室はすっきりしている。同棲を機にほとんどは捨てたか、彰人との家に持って行ってしまった。虚しさでおかしくなってしまいそうだ。

 これからずっと、彰人と生きていくのだと思っていた。同棲しながら、そう遠くない将来に永遠を誓うのだと思っていた。さも当たり前のように。しかし今、私たちは別々の場所にいて、確約されていたはずの未来も音を立てて崩れ去っていくような心地がする。しばらく顔を見たくないと彰人が言ったこと、今でも信じられない。私は、あるいは自分の非に気づかないまま取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。分からないから不安になっていく。底なし沼に呑まれて溺れていくみたいな心地。

 ベットの上で彰人との思い出を振り返っていた。初めてのデートは映画館。告白はここからすぐ近くの夜の公園。彰人はぜんぶ私にくれた。ずっと長い時間を彼とともに過ごした気がするけど、実際はそれも一年と少し前のこと。それなのに、私の前に五年も同じ時を過ごした女がいるなんて考えただけで発狂しそう。

 数え切れないくらい撮った写真を見返す。私の写真がやけに多い。ツーショットよりもよっぽどで、ほとんどは彰人が撮ってくれたもの。写真の私は幸せの絶頂に立たされたみたいに笑っている。彰人がそばにいてくれるだけでどれだけ幸せか。そんな大切なことに今さら気づく。かすかな心労と人恋しさに身を預けると、気づけば夜も更けて、月明かりが窓のカーテンから漏れ出していた。

 久しぶりの実家のベッドはあまり眠れない。落ち着かないからか、あるいは隣に彰人がいないからか、じれったいからベッドから身体を起こす。一年と少し、彰人の隣で眠れない日はなかった。彰人の腕に抱かれると嫌なことがあっても忘れられた。この荒れた夜を通して、彰人の存在の大きさを噛み締めている。

 時計は午前一時に差し掛かろうとしていた。

 家族が寝静まったことを確かめて、玄関へふらっとやって来た。理由もなくと言えば嘘になるけれども、サンダルを履いて、部屋着の上から雑にジャケットを羽織って外に出る。秋の暮れ、ひんやりと肌寒い風がむしろ心地よい。街はすっかり静かで、自分の息遣いさえ鮮明に聞こえるよう。

 向かった先は、彰人から告白を受けたあの公園。

 住宅街に張り巡らされた広く、寂しいアスファルトの道を幾つか抜けると、間もなくそこに辿り着く。地元の人間ですらその存在を知らない人は多い。胸が躍るようなものではなかったけれど、彰人らしい告白だったと思う。

 公園といっても街中にある単なる公園ではなく、その左右を道路とポプラ並木に挟まれ、まるで一本の道が細長く、ずっと先まで広がっているような、大通りがそのまま公園になったような場所。

 閑静な車道を渡って公園に入る。付き合った当初、まだ同棲もしてない頃、彰人はよく私に付いてこの街まで来ていた。まだ離れたくない、一秒でも君と一緒にいたい、君の育った街を見ていたいなんて言葉と一緒に。今はどうだろう、公園を歩きながら、私の方がまるで彰人の残り香を嗅ぐような真似をしている。

「えっ」

 ふとそんな声が漏れ出したのは、目の前にいびつな影を見たからだった。

 月光がひときわ大きな樹のふもとを照らす。映し出されたのは、まるで亡霊のように空を見つめる一人の青年。右の腕に太い縄を巻きつけ、もう一方の腕で大きなステンレスの脚立を抱える。あの脚立に乗れば、きっと街路樹の枝に手をかけて、紐を絡めることもできる。そして、今まさに青年は脚立を広げようとしている。月光に融けていくような、ぼうっとした面持ちで街路樹の枝へ手を伸ばす。歳は私と同じくらいに見える。なのにどうして。

「何をしているんですかっ!」

 思わず叫んでしまった。静かな夜に、私の声はどこまでも響いた。青年は熊にでも出くわしたみたいに表情をこわばらせ、脚立に足をかけたまま目を見開き、石になったみたいに固まってしまう。十数秒と膠着した時間が流れたのち、青年はゆっくりと脚立を降りた。彼の着ている白いワイシャツが私の目を引いた。そこには白糸で彫られた花束の刺繍があり、白いパンツとスニーカーも合わさって、まるで死装束のよう。やや茶色がかった髪は、彼の目をようやく隠すほどの長さで揃えられており、鮮やかな赤の口紅が塗られ、白く整った顔立ちは女と見紛うほどだった。

 街路樹の根元に小さな花束があった。青年のシャツに彫られた模様によく似たその花束は、暗闇に溶けない程度に青白く月光を受けていた。

「すみません」

 青年は細い声を発する。私はその縄を指して訊いた。

「それ、何のつもりですか?」

「これは、その」

 腕をすり抜けていくように縄が落ちた。青年は、まるで消えない罪を負わされたみたいに呆然とした。なんと言葉をかければよいだろう。私だって、今は彰人とのことで頭が一杯なのに。

 軽く頭を下げて、その場を後にしようとも思った。見なかったふりをすればいい。彼がもし命を絶ったとしても、それは彼の選んだことで、私には関係ないと言い張ればいい。世間だってそういう風潮になりつつある。よそはよそ、うちはうち。私が彼を無視したところで誰も私を咎めない。

 でも、本当にそれでいいのかな。

 私がこの場所から離れてしまえば、彼は今度こそ脚立の上によじ登り、縄に首をかけるかもしれない。彼の人生に介入することへの億劫な気持ちがあるのも事実で、面倒じゃないと言えば嘘になる。それでも、こんな状況で彼を見過ごすなんて。

「あの、いいのです、僕は大丈夫ですから」

「どこが大丈夫だって言うんですか!」

 静かな住宅街にまた私の声がこだまする。青年は、また悪いことをした子どもみたいに斜め下に視線を逸らした。ああ、また私の悪いところが出ている。すぐに感情的になって、相手を言い負かして萎縮させる。

「仰る通りですよね。大丈夫に見える訳ないですよね。でも、うん、本当に大丈夫ですから」

 青年は首を横に振る。あなたは悪くない、ぜんぶ僕が悪いのだと言っているような態度が腹立たしい。

「あの、お言葉かもしれませんけど。どうしてあなたはそんな真似を?」

「それは、あなたに答える義理はないですよ」

 おどおどしながら青年は言う。もう放っておいてくれと言いたそうな、曇った視線を隠しきれていないのは、何か思うところがあるのだろう。なのに何も話してはくれない。言ってくれなきゃ分からないのに、こういうのが一番いらいらする。気持ちの歯止めがまた効かなくなる。

「本当にそれでいいのですか? そんなに簡単に命を絶ってしまって」

「いいですよ。いいからこうやって、死のうとしているわけです」

 青年は半ば投げやりになったような尖った口調とともに早口になった。

「あなたが死んで、悲しむ人だってきっといるでしょう?」

「僕が死んで? そんなの、悲しむやつなんていませんよ。父も、母も、誰もなにもありません。僕は独りですから」

「だとしても、そんな簡単に自分の命を手放さなくてもいいんじゃないの? 普通に勿体ないですよ、死ぬなんて」

「勿体ないって何ですか? それ、あなたにはどうでもいいことですよね? 何、僕いま間違ったこと言っていますか? 所詮は通りすがりのあなたに、僕の事情なんて分かりはしませんよね?」

 感情的になる青年に圧されながら、その言い方が煽るようにも聞こえ、ムカついたのをきっかけに、私の口撃にもスイッチが入る。

「確かにあなたの言う通り、そこらの通りすがりに過ぎませんよ。しかしこの際はっきり言わせてもらいますけれど、自分で自分の命を絶つなんて、馬鹿な真似はやめてください、ガキなんですか?」

「なんであなたに指図されなきゃいけないんですか。あなたに、いったい僕の何が分かるんですか!」

「何にも分からないですよ! でも自殺なんて本当にどうかしています。頭がおかしいと思います。それに、やるならこんな公園の真ん中でしないでください。色々な人に迷惑かかるって考えて分かりませんか? せめて人気のない山奥にでも行ってヒグマの食料にでもなってください。それとも、自分が死んだことを他人に見てもらいたいとか、認めてもらいたいとか思ってるんですか? 本当に死にたいなら人気のない場所で静かに死ねばいいのに。そうすれば私にも見つからずに済みましたよね? 死に際のくせに変な承認欲求こじらせるからこんな面倒なことになっているんですよ? 自覚ありますか?」

 青年が鋭利な目を向けた。青白くなよっちいとはいえ、身長も体格も私より大きくて、もし彼が暴れ出せばどんな危害を加えられるだろうか。彼は死ぬと決めている。私を怒りのままに殴り殺したとして失うものもない。

 夜の冷たい風に吹かれて身震いが起こる。それでも引き下がれないから、拳をぎゅっと握り、奥歯を噛みしめた。

「あなたに何があったかなんて知りません。でも簡単に死ぬだなんて言わないでください。生きていれば辛いこともあります。でも幸せなことだってやってきます。今はそうじゃないかもしれないけれど、そういうものじゃないですか、人生なんて」

「随分と無責任だな、あんた、僕の人生をまるで分かったようにべらべらと語る」

「そうですね。あなたに何があったかなんて分かりません。私には、あなたの気持ちを推し量ることなんてできない」

「ああ分からないだろう。ならば何も言わないでおくれよ」

「でも、あなたを止める権利は私にはあります。自分の命を大切にしてくださいよ。それが分からないなら私が言ってやります。あんたの命は大事なんだって。あんたには見えてないだけで、あんたが死んで悲しむ人はきっといますし、死んだら絶対に後悔するって言ってやりますよ!」

 自分の命を絶つなんて理解できない。生きていればそれなりに波があるのは当然のこと。悪いことがあれば良いことも起こる。どん底まで沈んだとして、命を絶とうなんて考えには決して至らない。それが私の常識。だからこそ、どれだけの苦しみに晒されれば命を絶つという思考に至るのか。想像もつかないような苦しみを背負い、それが青年を自殺という考えに至らしめたのか。でも私には分かる。それは一時の悪夢のようなものだ。それを間に受けて命を絶つなんてあってはならない。でも、そんな思いをうまく伝えられない。ダメならダメ、正しいなら正しい、死ぬなと思うなら、死んではならないと主張するだけ。自分の意見を押し付けるばかり。自分のそういう部分も分かっている。だけど、これ以外のやり方を知らない。どうすればいいか分からない。

「黙れ!」

 思いが空回りして、ただ勢い任せになった私の口撃が続いていたとき、青年はいよいよ叫んだ。沈黙が夜を覆い、重い空気が濡れたシャツみたいにぴたりと肌に張り付いた。

「あんたに僕を止める権利があっても、それをするか、しないかの判断は僕の勝手だ。そうだろう? そこまであんたに口出しされる理由はない。僕の人生は僕のものだ!」

 恐ろしいほどに細く冷え切った声と、その髪のあいだに覗く両目は、思春期の子どもみたいに、未来にかすかな絶望を抱いているようだった。私じゃ駄目なのか。私ではこの青年の心を動かすことはできないのか。私はまた、無自覚のうちにどこか間違えているのだろうか。

 自分の人生は自分のものだ。よそはよそ、うちはうち。自らの人生の行く末は自らで決めればいい。私もそう思う。私の人生は私が決めるし、彼の人生は彼が決める。彼の選択を私が否定する権利はないし、逆も然り。そうだとしても、彼は同じひとりの人間で、その命が尊くないわけがない。例え彼が死ぬという選択を取ったとして、彼が選んだことだから、彼の権利、責任だからと言って、その死を看過してよいか。人は選択を間違える生き物だ。誰かが間違った選択をしたとき、それを見過ごすことが親切か。いいや、そんなものはただの見殺しだ。

「じゃあ、ここであんたを止めるのも私の勝手だ。あなたの人生があなたのものなら、私の人生は私のもの。今ここで何をするかは私が選ぶ」

「何が言いたい?」

「いいから聞かせてよ。あなたが死のうと思った、本当の理由」

「どうして、そんなことを知りたがる」

 青年は目に見えてたじろぐ。肩がすくむように動き、髪の下で眉をひそめたのが分かった。

「いいから言ってみなさいよ。死にたいって思うのは、それだけ辛くて、生きているのが苦しいって思うからでしょう? だったら、何があんたをそんなに苦しめているのか説明してみなさいよ。それが言えない限り、私はここから離れない」

「言っているだろ、あんたに話すことはないって」

「じゃあ、何があってもここから離れない! あんたが話してくれるまで、あんたに付きまとってやってもいい」

「そんなの、身勝手にも程がある!」

「分かっている! でも、私はどうしてもあんたのことを放って置けない」

「ああ、もう!」

 青年は、とうとう取り乱したように頭を掻いた。

「僕が死のうが生きようが、あなたにとっては関係のないことだ。頼むから、僕はあなたに消えてくれと言っているんだ!」

「ふざけたこと言わないで! こんなの目の当たりにして、何もしないなんて、できるわけないでしょ! 馬鹿にするのもいい加減に……」

「頼むから!」

 刹那、青白い顔をした男の声は、死を間近にした者の叫びとは思えないほどの生気を帯び、夜の街に響き渡った。

「あんたは、どうしてそこまで……」

 波が引くような細々とした声だった。ああ、まただ。相手の気持ちを考えられずに爆発させてしまう。あの写真を見つけたときも同じだった。感情的になったまま、彰人の気持ちなど微塵も考えずに写真を葬った。ぜんぶ前カノを忘れてくれない彰人が悪いと思う。それは今でも変わらない。ただ手段は選べたかもしれない。写真を捨ててしまう前に、気持ちを言葉にして伝えることもできた。今は、私があなたの女なのだから、前カノのことなんて忘れて私だけを見てほしいと、言葉にできたかもしれない。伝えることを怠った結果、彰人の大切なものを捨てて、彼の心に大穴を開けた。公園のど真ん中で首を吊ろうとするような、到底私には理解できないような大馬鹿だけど、こいつの気持ち、少しでも考えてことあったっけ。

「ごめん言いすぎた。そこまで言うなら食い下がる。でも、最後にひとつだけ訊きたい。答えたくなかったら、答えなくていい」

 そのとき、青年は今までが嘘のようにあっさりと頭を垂れた。彼の両目から一筋の涙がこぼれて、なぜか私の目からもこぼれかかる。口を開けて、風を頬張るみたいに呼吸をした。

「あんた本当に死にたいの? もし死ぬとして後悔はないの? 後悔というか、やり残したことはないの?」

「やり残したこと、か」

「うん」

 青年はふうと息を吐いた。白いもやが北風に融けていく。

「どうして、そんなことを?」

「いいや別に、興味があるから訊いただけだよ」

「そっか、本当に意味が分からないよ」

「何が?」

「あんたのことさ」

 彼が頬のあたりを緩ませると、張り詰めた雰囲気が和らぐ。

「あんたは、どうしてそこまで僕に世話を焼いてくれるんだよ」

「別に、ただ私のやりたいようにしているだけ」

「だとしてもだよ。僕はあんたにとっては赤の他人だ。僕が生きてようが、死のうが、あんたにとって死ぬほどどうでもいいことだ。それなのに、あんたは僕のことをとても考えてくれている」

「特別なことじゃないよ。力になれることがあるなら、少しでも、あんたの生きる力になりたいって思っただけ」

 そっか、最初からあなたの力になりたいと素直に伝えればよかったのだ。どうしてそれができなかったんだろう。

 青年は伏せるように瞼を閉じると、呼吸がおぼつかないような、震えた声を発した。

「僕のような人間にそこまで踏み込んでくるやつはいなかった。僕が失意の底に沈んだとき、何人かは僕を励まそうとしてくれた。大丈夫かと心配してくれた。でも、それはみんなの優しさであって、僕を助けたいなんて本気で思っているやつなんて一人もいなかった。僕の失意なんて、みんなにとっては他人事で、聞こえのいい言葉はくれるけど、本気で僕の人生に足を踏み入れてくるやつなんて一人もいなかった」

「よそはよそ、うちはうちだから」

「そうさ、僕が死のうが死ぬまいが、他人にとってはどうでも良いことだ。みんな自分のことばかりで他人に構ってる余裕なんてない。でも外向きには良いやつでありたいから、中身のない、聞こえだけはいい言葉をかけてくれる。その度に失望した。僕なんて道草と一緒で、存在していても、していなくても世界は回る。誰も僕のことなど気にも留めないし、生きている価値もないって。でも、あんたは少し違う気がする」

「私だって自分のことで精一杯だよ。でも、あんたみたいな人を放って置けないだけ」

「凄いな、本当に凄いよ。あんたみたいな人が世界中に溢れたらいいのにと思う。世間はみんな冷たいから」

「じゃあ世間なんて気にしないで、私だけを見てよ」

「なんだよ、それ」

 自分でも何を言っているんだろうと思った。

「面白いね、ありがとう。僕は本気で死ぬつもりだったし、あなたに声をかけられて、最初はちょっと困惑したけれど、正直に言うと嬉しかった。僕のことを本気で気にかけてくれる人がいるんだって思えて」

「私も少しは、あんたの力になれたかな?」

「ああ、もう十分すぎるくらい」

「よかった。じゃあ聞かせてくれてもいいんじゃない? ねえ、何があったの?」

「それ、やっぱり気になる?」

「うん。聞かせてほしい」

 彼は静かな笑みをこぼした。

「そうだね。あんたになら話してもいいかな。まあ、でも単純なことさ。面白い話でもないよ。ただ僕の中で簡単に片付けられないだけなんだ。どうしようもないことだからさ。取り返すことのできるものなら、頑張って生きようって思えたかもしれないけれど」

「死を決意するほどのものだったの?」

「僕にとっては、そうだったな」

 青年が目を落とす。その視線の先にある、シャツに彫られた花束に私は惹かれる。若く、美しい青年。彼に何があったかは知らない。しかし何かの縁で、私たちはこの場所に居合わせた。神さまが定めた運命のようなものだと思う。

 月光が雲間から降り注ぐ。彼は安らぐような顔をしていた。青白く、軟弱で、今にも死が間近に迫っているような情けないやつ。しかし月光に照らされる彼の表情は、まるで枯れゆく花束に残った僅かな色彩のような、褪せた美しさをたたえていた。

「妻が死んだのさ」

 私は、彼の細い声を聞いた。私は、かける言葉を見失った。奥さんが死んでもあなたは生きています。奥さんの分まで生きてみてはどうでしょう。その方が奥さんもきっと喜びますよ。そんな言葉を想起しては、全部どの口が言ってんだと思う。

 私は、彼の死にゆく理由に納得してしまった。愛する人との離別ほどこの世で辛いものはない。今宵の私ほど、それは痛いくらい分かる。もし彰人が死んで独り取り残されたら、何年経っても埋まらない深い溝を抱えて生きていくことになる。彼は、そんな苦しみと向き合い続けた末に、命を絶つという選択を取ろうとしたのか。

 とても、深い愛だったのだろう。

 青年の優しい笑みを見た。目尻に皺を蓄えた柔和な笑みは、本当の意味で愛と悲しみを知る者にしかできない表情だと思う。自分の命に代えても、誰かの幸せを願うことができるような人の顔。根拠はないけれどもそう思う。

「奥さんのこと、愛していたんだね」

 そんな言葉が口を衝いた。失礼な言動だったかもしれない。しかし彼は納得したように首を縦に振り、「ああ、とても」と言う。

「とても、愛していたと思う」

 一歩、彼がこちらへ歩み寄った。

「死にたいと思ったことは今に始まったことじゃないよ。母を亡くし、父親に捨てられたあたりから、僕は要らない人間なんじゃないかって思って生きてきた。それに元々、生きることに向いていない人間だったから。世間で言われる普通にあんまり馴染めなかった。でもね、あの人と出会って僕は生きる理由を得た。あの人のためなら全てを捧げようと思えた。あれだけ人生が輝いたことなんてなかった」

 月光が、青年の頬にきらめいて見えた。

「だからいいんだ。あの人のいない世界を生きる意味は、もうないと思った」

 ああ、もう何も言えない。

 死して、冷たくなった青年のことを想像してみる。それでも彼は穏やかなで優しい笑みを浮かべ、愛する人のことを思って逝くのだろう。

 写真を破り棄てたことも、ムシャクシャしていることも、青年を前にすると、子どもっぽくて馬鹿みたい。青年が亡き妻に捧げる愛情には、理屈も理由もなく、在るのはただ、その人を愛する気持ち。ああ、そうだ、私にもあったはず。いや今でもあるはず。彰人を愛しているというただそれだけの気持ちが。

 夜風が背中を撫でる。

 私がここを去れば、彼はどうするだろうか。どこかで生きているだろうか。分からないけど、私のやるべきことは決まった。彰人の元へと急がなければいけないと、強烈に胸が訴えてくる。

 なんだか笑えてきた。彼のほうがよっぽど私を救うヒーローみたいじゃないか。そうやって、私がうっすら口角を上げたからか、彼はにやりとして訊いた。

「ところで、あなたはどうしてここに?」

 そういえば言っていなかった。喧嘩のいきさつを思い出すと、くだらなくて笑えてくる。さっきまではイライラして話す気にもなれなかったのに、なんだか、とてもちっぽけな話に思えてきた。

「彼氏と喧嘩をしたのです。彼氏の、昔の彼女と映っている写真が出てきて、それが癪に触って、怒って、私、馬鹿みたいに彼を責めて」

 まるで酒の席でする世間話のひとつみたいに、私は事の顛末を話していく。写真を破り捨てた話をしたあたりで、青年は突然、夜空に高笑いする。

「ちょっと、笑わないで!」

 青年の喜怒哀楽が初めてはっきりと見えたから、少し戸惑ったけれども、嬉しかった。彼は、まるで深く見知った友人みたいな気さくな口調で話す。

「いやあ、だって、その女の、顔のあたりに指を突き刺してから、そこから広げるようにビリビリの、ケチョンケチョンに破り捨ててやったなんて、恐ろしいことを言うから」

「笑い事じゃないよ、もう!」

「すまん、すまんよ、でも面白くて」

 誇張しているわけじゃない。本当にあったことを、そのまま言ったまでのことなのに、笑われるくらいおかしな話なのかな。ああ、やっぱり私はまだ若いのだと思う。感情のセーブが効かないし、我を通すことに慣れてしまっている。そんな自己嫌悪も、青年が笑ってくれると薄らぐ心地がする。こんな私でもいいのかなと思わせてくれる。

 また、彰人が頭をよぎった。

 今ならもっと落ち着いて話ができると思う。前カノへの嫉妬や、彰人への不信感だけじゃなくて、彰人を愛する気持ちも確かめながら話ができると思う。どうしてあの写真を持っていたのか、あの写真を捨てられて、どうして悲しんだのか、どうして私を許せなかったのか。理由次第では、この身が裂けるほどに辛い思いをするだろう。だけど私たちは話さなければならない。

 青年の白い線のような吐息が、冬っぽく雲ひとつない夜空に融けていく。北風がわたしの背中を押すように吹いた。青年の静かな声が聞こえた。

「そろそろ、彼氏さんに会いに行くかい?」

「どうして分かったの?」

 テレパシーでも使っているのかと思うほど、私の気持ちは筒抜けで、思わず笑ってしまった。

「なんとなくだよ、特に理由はない。でも、あなたの目尻がふと柔らかくなった気がして。妻が、よくそんな顔をしていたから。だから何だって思われるかもしれないけれど。君も、愛する人のことを考えていたのかなって」

 ああ、そうか、彼は知っているのだ。人生で誰かひとりを心底愛し、愛されたことがあるから、私がいま彰人を想う気持ちも、それが顔に出ていたことも分かってしまうのだ。この人には敵わない。悔しさすら込み上げてくる。私と同じくらい若いくせに、私の心を知ったような生意気なことばかり言う。でもそれが間違っちゃいないから余計に悔しい。

「変なこと言わないでよね」

 かすかな抵抗を交えて言ってみる。彼はちょっと驚いた顔をして、ああごめんと呟いたから、くすっと笑ってやる。

「それはつまり、私がちゃんと恋人を愛せているということかな?」

「それは、どうして?」

「だってあなたの奥さんと、おんなじ顔をしていたんでしょ?」

 彼はきょとんとした。そりゃそうだ。私が彰人を愛せているかどうかなんて、私にしか分からないことだ。しかし彼は、なぜか腑に落ちたようにほほ笑んで、静かな声で答えてくれた。

「少なくとも、僕にはそう見えたよ」

 北風が、また背中に吹き付けた。

「よかった」

「うん」

 青年はこくりと頷いて、一歩こちらへ歩み寄る。街灯のかすかな灯りに白い吐息が映る。彼は表情をいっさい崩さないまま、向かい風に吹かれ、唇を少し震わせて開口する。

「当たり前だと思っていた幸せが、実は当たり前じゃなかったりする。ずっと続くと思っていたことが、何かのきっかけで崩れ去ってしまうこともある」

 私は眉唾をのんだ。

「僕はもう一生会えなくなってしまった。これからたくさん伝えようと思っていた『ありがとう』も、『愛している』も伝えられなくなった。それが僕のやり残したことさ。もっと沢山の言葉を伝えたかったなと思う。当たり前だと思っていたのに、実は当たり前じゃなかったって、気づいた時には遅かった」

 愛する人と死別して、どうして今みたいなセリフを飄々と言えてしまうのか。私なら、きっと何年かかっても無理な話なのに。やっぱり彼には敵わない。ふと涙がこぼれた。頬を伝うそれは、冬の近い、荒んだ夜風とともに、私の肌に凍りつくかに思えた。涙は冷たくて、ちょっと痛い。同時に、私ってこんなに温かかったんだと実感する。

「彼氏さんの元へ、行ってあげて」

 青年は再び告げた。

「うん、ありがとう」

 頭を下げて、いよいよ彼に背を向けた。途端に、糸がぷつりと切れたみたいに、その気配が消えてしまう。はっとして振り返る。そこには一本の立派なポプラの樹が屹立し、根本にあの青い花束がひとつ添えられているばかりで、彼の姿はなかった。

 彼はどこに行ってしまったのだろう。幽霊か、幻覚の類いだったのだろうか。分からないけれど、彼は確かな輪郭を伴ってここに生きていた。彼の存在の証人は私だ。

 だから、どこかで生きていてほしいと思う。

 月光が、あの青白い花束をぼんやりと照らしている。青年のシャツに彫られていた花と同じもの。月光を浴びるように一斉に花弁を広げる姿に、なんて美しい花だと思う。あれもいずれは枯れ、散ってしまうのだろうか。そうして何者にも見届けられないまま、その存在を忘れられてしまうだろうか。

 ポプラの根元に向かい、両手を合わせた。

 あの花束が、彼の愛する人の手に届けられますように。


 公園を歩いていると、またいびつな影を見た。

 街路樹に紛れるような黒い影には、どこか既視感があった。その正体に気づき、声をかける前に彼のほうから声があった。黒いコートを羽織り、ポケットに両手を突っ込んだ立ち姿、少し丸まった背中と黒髪。

「由依?」

 彰人の声がした。

「由依、だよな」

「彰人、どうしてここに」

 驚く私に、彼は歩み寄ってくる。

「特に理由はないさ。なんとなくここに来たくなって。でも、お前に会えるなんて思っていなかった。いてくれたら嬉しいなって思ってたけど」

「何それ、会いに来てくれたんじゃないの?」

「本当に会いに行ってたなら、今ごろ実家に突撃してただろうね。でも意識してなかったわけじゃないよ」

 彼のコートと、その下にある固い肋骨の感触が私を包む。ごめんなと、彼の優しい声が耳元でした。

「ちょっと酷いことをしたよな」

「ううん、私こそ不甲斐なかった」

 彼の温もりをいっぱいに受けると、不安が嘘みたいに消えていく。温かくて安心する。ずっと、このまま抱き合っていたいとさえ思う。

 誰もいない公園に月明かりが差し、ポプラ並木が風に吹かれて葉音を立てる。ああ、普段と何も変わらない彰人がそこにいる。あの喧嘩が夢だったのかと思えてくる。

「帰ろうか」

「そうだね」

 何事もないように手を繋ぎ、帰路につく。これでいいのかなと思う。いいや、きっとよくない。私たちには話さなければならないことがある。それでも、いつものように彰人の隣を歩いて、同じ家に帰ることの安心感に、一旦は身を委ねてしまう。

 告白を受けた日を思い出す。秋の夕暮れ、まさにこの場所で、こんな風に隣を歩いているときだった。彰人が沈黙を破るように開口して、伝えなければならないことがありますって、畏まって様子で、好きです、付き合ってくださいなんて言ったっけ。今宵もどこか、そんな雰囲気があった。一年近く時を遡って、付き合う前に戻ったみたいな、ちょっとぎこちなくて初々しいあの感じ。

「ねえ、彰人」

 今日は彰人じゃなくて、私が開口する。数分の沈黙を破る呼びかけに、彰人は前を向いたまま、喉仏を鳴らすような返事をする。身を切るような思いを胸に、私は言い放つ。

「あの、説明してくれない?」

「まあ、そうだよな」

 彼はふうと息を吐き、月を見上げた。

 彰人はいつも落ち着いている。私に比べれば控えめで口数の少ない性格だけど、静かな情熱を秘めたみたいな佇まいがあって、普通とは一線を画すような独特な雰囲気を持っている。そんな不思議な魅力に、私から惚れたことを思い出す。

 彼は表情ひとつ変えないまま、低い声で、淡々と話し始める。遠い過去を懐かしむような目を浮かべている。私との思い出が届かないくらい昔の記憶を想っているのだろうか。分かっていたことだけど悲しくなる。

「僕には君と出会う前、ずっと長い間付き合っている人がいた。あの写真の人が、その人なんだ」

 彼の、静かな声が夜空に融ける。心臓がどんどん早くなる。

「知っているよ。大丈夫、それは彰人の過去だし、それを否定するような真似はしない」

「うん、ありがとう」

「ただね、私が気になるのは、どうしてあんな写真を残していたのか。どうして写真を捨てられて、あそこまで取り乱したのか。ずっと一緒にいて、彰人のあんな顔を見たの、初めてだったから」

「うん」

「正直ね、あんな態度を見せられると、元カノに未練があるとしか思えない」

「まあ、そうだよな」

 感情的にならないように、させないように、慎重に言葉を選んでいく。彰人はやっぱり、怖いくらい淡々としていて、私の言葉を文句ひとつ言わずに受け止めていく。

「私だって、怒りに任せてあなたを怒鳴り散らしたことは反省している。でもね、然るべき理由がないとさ」

 呼吸を置いて、言い放つ。

「彰人のこと、もう何も信用できない。これからあなたと歩んでいく未来も、考えられなくなる」

「そうだよな、うん、ごめん」

 彰人は足を止め、私に身体を向けた。コートのポケットからハンカチを出すと、優しい手つきで私の目元を拭ってくれる。相変わらず憎たらしいくらい良い男。ああ、やっぱり彰人が好きだ。嫌いになんてなれるわけがない。だからこそ、別れを切り出すようなセリフを言いたくなかった。ずっと一緒に生きていきたいのに、こんなこと言わせないで欲しかった。そんな私の気持ちも、彰人はたぶん知っている。

「正直に言うと、隠していたことがある。いつか言わなければいけないと思っていながら、今までずっと、由依に言い出せなかったこと」

 彼の視線はやっぱり遠い過去に向けられる。そんな遠い場所に、いったい何を置き去りにしてきたのだろう。そんなの知りたくないに決まっている。今の幸せと、これから訪れる未来だけを二人で見て、笑い合っていたいに決まっている。このシナリオに彼と私以外の登場人物は要らない。それでも、例えこの身が裂かれるほど苦しくても、彼の話を最後まで聞かなければならないと思う。過去が私たちを苦しめるなら、それを越えた先に、私たちの幸せがあると思うから。

 胸が詰まりそうだ。苦しくて、もがくような呼吸をしてしまう。彼は遠い場所に虚しい目を向けながら、その喉仏がゆっくりと動き出す。刹那、時が止まったような心地がした。かすかな風に乗せられて、静かな声が夜空に響く。

「由依、あの人はね、僕がかつて結婚しようと思っていた人なんだ。でも二年前に他界した」

「それって」

「死別したんだ」

 思わず口元を覆ってしまった。驚きと、それとは別の感情からくる、かすかな吐き気に襲われる。

 そんなのってないよ。

 呼吸を見失って、地上にいるのに溺れそうになる。彰人にどんな顔を向ければいいだろう。彰人もまた空を見上げて、感情を失ったみたいな顔をしている。私も、彰人も、誰も幸せにならない過去の告白。彰人にそれを吐かせた自分がいっそう憎くなる。

 最愛の人を失う悲しみなんて私は知らない。それでも彰人の気持ちを想像してみる。心にぽっかりと穴が空いたに違いない。私にとってもそれは残酷な話だ。彰人には、かつて結婚しようと思えるほどに最愛の人がいて、それは私じゃない別の女だった。もしその人が生きていれば、彰人は私になど目もくれず、その人と幸せを分かち合っていたかもしれない。

 なんだ、彰人は悪くない。ただ昔亡くした大切な人との写真を鞄の奥にしまっていただけ。それでも彰人に当たり散らしそうになる。こんな思いをさせるくらいなら一切の隙を見せないくらい隠し通してほしかった。私には幸せな夢を見せたまま、前カノのことは墓場まで持って行ってほしかった。あんな写真、見つけてやらなければよかった。

 ダムが決壊したみたいに涙が溢れ出した。彰人は私を胸に抱き寄せ、背中を撫でてくれる。ごめんと低い声で呟く。本当に、憎たらしいほど、私は彰人に惚れている。

 彼は夜空の向こうを見た。雲間から星の輝きが見える。遠い宇宙にある恒星の光。あそこに、かつて彼の愛した人がいるのだろうか。彼の視線はまっすぐと夜空の星々に向けられている。そんな目をしないでほしい。私の知らない、あなただけの物語。

「最初は信じられなかったよ。僕はその場にいなかったんだけど、向こうの親御さんから連絡があった。あの人が病院に搬送されて、そのまま亡くなったって。実感はなかった。あり得ないと思った。それだけ、あの人との毎日が当たり前になっていたんだと思う。葬式になってやっと涙が出てくれた。それまでは泣こうにも泣けなかったから、自分は凄く薄情な人間なんじゃないかって不安になった。でも大切な人が死んで、その死に様を目の当たりにして、ちゃんと涙の流せる人間だったんだって安心した」

「ずいぶん、淡々と話せるんだね」

「あの人が死ぬまではそうじゃなかった。でもね、死っていうのは皆が思っている以上に呆気ないものなんだって今だから思う。悲しみも、時が経つと薄れていく」

「そっか」

「うん。あの人が死んでから、しばらくは毎晩泣いていたし、生きる理由がぽっかりと抜け落ちてしまったみたいだった。日常生活もままならなくて、いっそ死んでしまった方が楽だと思った。でも、そんなとき由依に出会った」

 彼は視線を私のほうへ戻す。月明かりに照らされる彼の表情が笑って見えたのは気のせいだろうか。

「愛する人を失って、ひとりで生きていくのだと思っていた毎日に、風穴を開けたのは他でもない君だった。由依が僕の生きる理由になってくれた。これからは由依と生きていこうって思えた。本当のことだ。だから確かに、過去に色々あったことは事実だし、未練がましいことをしてしまった自覚はあるけれど、今は由依のことだけを見ている。それだけは誓って言える」

 簡単に鵜呑みにはできない。色々な感情が溢れて、どう処理していいか分からなくなる。それでも、彰人は嘘をついていないことだけは分かる。過去にあったことや、今の私に対する気持ちも、全て正直に告白してくれた。だから私も、彼を信じたい。

 彼の胸元に顔を埋めた。

「ひとつだけ、約束して」

「うん」

「これからは、私だけを愛して」

「そんなの、当たり前だよ」

 背中に温もりを感じる。強く抱きしめられると、一筋の静かな涙が頬を伝った。そのとき光の雫が空から降ってきた。私の左手首に触れたそれは、鋭い冷たさを放つと、融解して水になり、跡形もなく消えていく。

「雪」

 彼が言った。見上げると夜空の暗闇から、街灯の光を受けた雪が降ってくる。初雪だ。もうそんな季節なんだ。でも雪ってこんなに綺麗だったっけ。もっと灰色で、汚れていて、ドロドロしたものだと思っていたのに、今宵の雪はどこかキラキラしている。

「雪って自分では輝けないんだよね」

 彼は言う。

「月もそう。月は太陽の光を受けて、雪は街灯の光を受けて初めて輝ける。人も同じだと思う」

 人間はみんな弱い。ひとりで生きていけないから、誰かと手を取り合って生きていく。その過程に家族があって、友情があって、恋愛がある。人生のステージを着実に進みながら、本当に大切なものを見つけていく。私にとっての彰人がそうだった。同じように、彰人にとっての光が、私であったらいいなと思う。

 ふと彼のコートのポケットに刺さる、一輪の花が目についた。

「ねえ、それって」

 青白く月光を受けるその花弁に、どこか既視感があった。そうだ、あの青年のシャツに彫られていた刺繍の花に、ポプラの根元に添えていた花束によく似ている。でも、どうして彰人がそれを?

「ああ、これ、さっき拾ったんだよ。珍しいなって思って、青い胡蝶蘭」

「コチョウラン? その花の名前?」

「そうだよ、胡蝶蘭。青いのって珍しくて、誰か、わざわざ花屋さんに行って仕入れたんだろうね。花束のおこぼれかな」

「よく知ってるね」

「まあね。しかしこんな素敵な花、いったい誰が、誰に贈るつもりで用意したんだろうね」

 彼は不思議そうに首をかしげて、ポケットから胡蝶蘭を取って差し出す。青白く月光を受け、輝きを放つ花弁に、私は目を奪われる。

「綺麗だと思って。由依に会ったら、見せたいと思って」

「そうなの?」

「うん」

 雪がひとひら花弁に触れた。私は右手でそれを取ると、左手を彼に引かれながら、いつものように歩き出す。無言が再び私たちを包むけれど、それが心地よくて、彰人との日常が戻ってきたのだと確信する。

 果たして、彰人はいつ私の前からいなくなってしまうだろう。

 当たり前だと思っていた日常は、何かのきっかけで音を立てて崩れ去る。そう思うと、今この瞬間に過ぎ去っていく一分一秒さえ愛おしく思えてくる。

 雪は、まるでアスファルトに薄い絨毯を張るように積もっていく。私たちの足跡がそこに連なる。手が悴んできたから息を吹きかけていると、彰人がコートを着せてくれた。

「ねえ、彰人は、私のどこを好きになったの?」

「そうだなぁ」

 なんとなく言ってみた。彰人は顎に手を置いて、真剣な眼差しになって、しばらく考え込んでいたけれども、最後は吹き出すように笑って答える。

「実のところ分からない。でもなんだかビビってきたんだよ。電撃みたいな」

「何よそれ」

 あまりにも馬鹿らしい答えだったから、彼の背中をひっ叩く。私に惚れた理由なんて幾らでも言えたはずなのに、この男はどこまでも不器用で正直なやつだ。でも、そういうところが好きなのだ。

「本当なんだって、ビビってきた。そこに理由なんてなくてもいいんじゃないかな?」

「そうだけど。リップサービスでもいいからさ、何かなかったの? 私のどこに惚れたのかって」

「そうだね、じゃあ髪がさらさらで撫でると気持ちいいところと、おっぱいが結構大きいところ」

「殺されたい?」

「ごめんなさい」

 雪が降りしきると月光が乱反射し、夜更けなのに街は明るくなる。ああ、もうじき冬がやってくる。北風がぴゅうぴゅうと高い音を立て、荒涼としたアスファルトの中を二人きりで歩んでいく。

 運命のいたずらで私たちは出会った。何かひとつでも違えば巡り合うことはなかったかもしれない。それでも今は、私が彰人の最愛の人だ。

「そういえば、さっき不思議な人に会ったんだよ」

「へぇ、どんな人だったの?」

「なんか月に向かって大笑いしていた」

「何それ変態じゃん」

 左手で彼の右手をとり、コートのポケットに突っ込む。右手には青い花が、月光を受けて静かに輝いている。なんだろう、長い夜が始まる気がする。




【続く】


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