後宮の宝石鑑定士は黙ってない! ~「浮気して何が悪い?」と開き直る婚約者に制裁を~
「残念ですが、この宝石はガラクタですね」
琳華は父から受け継いだ宝石店のカウンターで、客の男が差出したダイヤモンドを観察して結論を下す。
人は期待を裏切られると怒りを顕にするもので、客の男も例外ではなかった。額に皺を寄せながら、眉根を釣り上げる。
「嬢ちゃんは若いから、この宝石の価値が分からないんだ。店主を出せ」
「私が店主です」
「嘘を吐け。嬢ちゃんのような若者が、こんな一等地に店を持てるものか!」
「亡くなった父から継いだ店なのですよ」
若い女だからと舐められるのは日常茶飯事だ。ただ慣れてしまえば、対処法も心得ている。
「私が店主ですし、私以外に鑑定士はいません。気に入らないのでしたら他店でお売りください」
「それは……」
街にある宝石店は琳華の経営する店だけだ。断られたら、別の街に売りにいく手間が発生するため、男は強気な態度を少しだけ引っ込める。
「俺も嬢ちゃんと喧嘩したいわけじゃないんだ。ただきちんと宝石を評価してほしいだけなんだ」
「では逆に聞きますが、あなたはこの宝石が高価だと?」
「おう。なにせ世にも珍しい七色に輝くダイヤモンドだからな。金貨百枚、いや二百枚の価値はあるはずだ」
男は自信満々に語る。その石は確かに美しい輝きを放っていたが、琳華の訓練された瞳はその真実を見抜いていた。
「これはダイヤモンドではなく、モアッサナイトという模造宝石ですね。素人目には判断が難しいですが、光の屈折率がダイヤモンドとは違うので専門家なら見間違えることはありません」
「な、なら、本当にこの宝石は……」
「ガラクタですね」
モアッサナイトは人工的に生産可能な宝石で、西の帝国で大量生産されている。琳華にとっても珍しくない品であった。
「ガラクタといっても、金貨一枚くらいにはなるんだろ?」
「出せても銀貨一枚ですね」
「そんなに安いのか!」
「他の店なら銅貨三枚が相場ですから。良心的な買取金額なのですよ」
「そうなのか……」
「ちなみにお客様はいくらで買われたのですか?」
「金貨十枚だ……」
「それは御愁傷様です」
不憫に思いながらも、琳華も慈善事業を営んでいるわけではない。男は肩を落としながら、銀貨一枚を受け取って店から出ていく。
男が去った後、琳華は緊張を解いた。
宝石鑑定士の仕事はミスが許されない。偽物の宝石を高値で買えば店の損害を生むだけでなく、信用問題に繋がるからだ。
(お父さんのためにも、この店だけは守り抜かないと……)
この宝石店は琳華の父が残してくれた唯一の形見で、命の次に大切なものだった。
(そろそろ時間ですね)
時計の針が動き、店の閉店時間が近づく。それは同時に婚約者の明軒との待ち合わせ時刻が迫っていることも意味していた。
(今日も遅刻してくるのでしょうね)
琳華は婚約者に舐められていた。それは外見に大きく起因している。
長い黒髪を低い位置でまとめた髪型と怜悧な顔付きは知的さを感じさせ、白い襦裙と深緑の袍、小さな宝石を垂らした銀の簪は宝石鑑定士としての身分を控えめに示しつつ、仕事人として印象を強めていた。
決して醜女ではなく、美女に分類される容姿をしているが、男性受けはお世辞にもよろしくない。
本人の隙のない性格と地味な印象のせいで、近寄りがたいと思われたのか、十八年の人生で一度も異性に言い寄られたことがなかった。もし明軒との婚約がなければ、生涯独身を貫いていたかもしれない。
(だからこそ明軒が最低な人だと知っていても別れられないのですが……)
遅刻すると最初から分かっているなら期待しなければいいだけだ。待ち時間を有効活用するため、店の陳列ケースに並んだ宝石を整理して床掃除を始める。
片付けが進むと、外はすでに暗くなっていた。他の商店から漏れ出る光がぼんやりと周囲を照らしている。
もしかしたら明軒は来ないかもしれない。そんな予感を裏切るように、外から足音が聞こえてくる。
顔を上げると、扉を開いた婚約者の明軒が立っていた。彼は手荷物を持ちながら、微かに息を切らしている。
「おう、待たせたな」
端正な顔立ちと洗練された風貌の明軒は、店の明かりで照らされて、一層に際立っている。
ただ口では待たせたと言いながらも申し訳なさを感じ取れないため、印象は最悪だった。
「待ってはいません。どうせ遅刻すると思っていましたから」
「相変わらず生意気だな。そんな性格だから、誰からも相手にされないんだ。婚約してやった俺に感謝しろよ」
明軒の台詞は軽い冗談ではない。彼は本気で結婚してやる立場だと信じており、それが露骨に態度にも現れていた。
「まぁいい。買い物に行くぞ」
「私と出かけて楽しいのですか?」
「馬鹿言うな。楽しいわけがないだろ」
「ならどうして?」
「荷物持ちが必要だろ」
明軒は手荷物を放り投げ、琳華に持たせる。彼が自分を女性として扱っていないことに悔しさを覚えながらもぐっと我慢する。
理不尽に耐えるのは、琳華の実家が関係していた。代々、織物屋を営んできた家系の生まれである彼女には、妹がいても男兄弟がいない。
今は母が女店主として店を切り盛りしているが、その後を継ぐのは順当にいけば琳華になるはずだった。
だが琳華は宝石鑑定士として生きていく道を望んだ。だからこそ彼女の代わりに織物屋を継ぐ者が必要となり、次期店主の白羽の矢を立てられたのが明軒だった。
既に織物屋で従業員として働いており、次男坊で継ぐ家業もない彼にとっても、この縁談は渡りに船だったのだ。
(多少の理不尽は我慢しないと……)
明軒にうんざりしつつも、彼がいなければ家業を継がなければならないため、婚約は破棄できない。
グッと理不尽を飲み込んで、荷物を持ちながら夜の街を歩く。
石畳の通りには、ぼんやりと灯る提灯が並び、その柔らかな光が街角を神秘的に照らしている。遠くから聞こえる楽器の音色が静寂を破り、夜風に乗って耳に届いた。
「お、あの店がいいな」
琳華の意見を聞かずに、赤い屋根瓦と白壁が美しい商店の前で足を止める。
一瞥しただけで高級店と分かる店に足を踏み入れると、彼は細やかな刺繍が施された絹の袍を指差し、店員に購入を伝える。
「あの服、高価なのではないですか?」
「俺の給料の一ヶ月分だな」
「よくお金がありますね?」
「何を言っている。支払いは琳華に決まっているだろ」
「え!」
聞いてないと抗議を含めて目を細めると、彼は鼻で笑う。
「俺が結婚してやるんだぞ。先行投資だと思え」
「…………」
人はここまで最低になれるのかと驚かされる。ただ琳華にできることは我慢しかない。好きなことをやらせてもらえる代償だと受け入れる。
(それに明軒との婚約は、お母さんの頼みでもありますからね……)
長年、店で働いてくれている明軒を母は頼りにしており、婿養子として家を継がせることにも積極的だ。
仮に彼と婚約破棄をしても、新しい男を母が気に入る保証はない。次期店主のお鉢が琳華に回ってくる可能性さえある。
理不尽を黙って受け入れ、明軒の代わりに服の代金を支払う。彼の買い物に付き合っている間に時間が経過し、店の外は先程よりも暗くなっていた。
「デートはこれくらいにしましょうか?」
明軒と一緒にいてもうんざりするだけだ。早く帰りたいと提案すると、彼は首を横に振る。
「駄目だ。この後、大切な話があるからな」
「なら早くしてください」
「この話は場所を選ぶ。なにせ琳華の家族も交えて、今後の将来について話すのだからな」
「…………」
嫌な予感がするが、家族が関わっているなら断れない。
大人しく明軒に従い、実家へと足を運ぶ。
実家の織物屋は街の外れにあるものの、地元で長年愛されてきた老舗である。古い木造の建物は、時間が経過するにつれてその風格を増しており、足を踏み入れると、織物の豊かな色彩と独特の匂いが彼女を迎え入れてくれる。
店の奥の客室に足を進めると、長椅子に腰掛けた母親の梅蘭と妹の詩雨がすでに待っていた。室内は温かみのある灯りに照らされているが、空気は張り詰めて重い。
「おかえり、琳華。待ってたわ」
梅蘭は琳華の姿を認めると一瞬だけ笑みを浮かべたものの、すぐに家族の長としての威厳ある面持ちに変わる。
琳華は梅蘭の対面に座ると、詩雨にも軽く頷く。
妹の詩雨は琳華と正反対だ。柔らかな波を描く髪を肩まで届かせ、華やかな服を好んで着る。明るく我儘で、周囲を下に見るような高慢な性格の持ち主だった。
「私に大切な話があるとか」
「そうよ、琳華にも大きく関わる話なの……実はね、詩雨に子供ができたの」
「それはめでたいですね!」
仲が良好とはいえないが、たった一人の妹だ。素直に祝福を送るが、話にはまだ続きがあった。
「それで詩雨の相手なんだけどね……明軒なの」
「え……」
衝撃の大きさに二の句を継げないでいた。明軒は琳華の婚約者のはずだ。それがなぜ詩雨との間に子供を作るのか理解が追いつかなかったからだ。
(まずは冷静にならないと……)
心を落ち着かせ、明軒に視線を向ける。彼の表情に変化はない。浮気していたと明らかになった直後の男の態度ではなかった。
「本当に浮気していたのですか?」
「ああ。悪いか?」
「…………」
明軒に反省の色はなかった。文句があるなら言ってみろと言わんばかりだ。
(私はここまで舐められていたのですね……)
悔しさに拳を握りしめながら、母に視線を移す。娘の窮地だ。親なら助け舟を出してくれるだろうと期待するが、返ってきた反応は予想外のものだった。
「そういうことだから、琳華も分かったね」
「この不義理を私に受け入れろと?」
「あんたはお姉ちゃんなんだよ。妹の浮気くらい我慢しなさい」
子供の頃から母には厳しく育てられてきた。
朝から夜まで勉強を強いられ、礼儀作法を叩き込まれた。玩具を買ってほしいとねだっても与えられたこともない。
一方で妹の詩雨には甘かった。放任し、好きな物を与え、勉学も強制しなかった。
その扱いの差に不満がなかったといえば嘘になる。だが愛ゆえの鞭だと信じていた。
(でも、もうお母さんを信じられない……)
涙を流さなかったのは、薄々、心の奥底で感じていたからだ。ようやく琳華は自覚する。家族にとって自分の価値が小さいということを。
(もし私が死んでもきっと悲しまないでしょうね……)
便利な道具が壊れたくらいの感傷しか生まれないだろう。三日もすれば忘れて、詩雨たちと楽しく暮らしていくに違いない。
「私の婚約はどうなるのですか?」
「明軒は詩雨と結婚させるからね。婚約は白紙さ」
「……明軒もそれでよいのですか?」
「もちろんだ」
婚約破棄への未練を感じさせない。彼にとって琳華は、店を継ぐための道具でしかなかったのだ。
「詩雨には子供ができて、我が家には跡継ぎができる。実にめでたいねぇ~」
琳華が我慢すればすべて丸く収まるのだからと、人の心を無視した主張に心が壊れていく。そんな彼女に追い打ちをかけたのは妹の詩雨だ。
「お姉様、結婚式は盛大にやるから。参加してね」
詩雨が口元を歪めて嘲笑する。分かりやすい挑発だった。
「私に参加しろと?」
「たった二人の姉妹ですのよ。参加しないのは不自然ですわ」
「私はあなたに婚約者を奪われたのですよ!」
語気を荒げると、詩雨を守るように母が仲裁に入る。
「琳華の気持ちは分かった。参加したくないなら不参加で構わないよ……ただし結婚式の費用はあんたに任せたよ。これから詩雨には子供もできてお金がかかる。お姉ちゃんなんだから。妹のためにもしっかりと稼いでもらわないとね」
頭が痛くなるほどの理不尽な要求だった。これを認めれば一生寄生され続ける。そう確信できるほど家族の琳華を見る目は冷たかった。
「私もそんなに裕福ではありませんから」
「宝石鑑定士の商売は繁盛しているそうじゃないか」
「それでも、宝石の需要は頻繁にありませんから。お客さんの数は多くありませんよ」
利益を客に還元しているため、琳華の手元に残るお金も少ない。妹に援助できるほどの余裕はない。
「なら店を売ればいいじゃないか。一等地にあるし、きっと高値で売れるはずさ」
「それは本気で言っているのですか?」
「……冗談が嫌いなことは知っているだろ?」
「ですが宝石店はお父さんの形見ですよ」
「もちろん分かっているさ。でもね、亡くなってから何年も経っているじゃないか。死人よりも大切なのは新しい命さ」
「なら私の気持ちはどうなるのですか?」
「我慢しな。あんたはお姉ちゃんなんだから」
琳華にとって宝石鑑定士としての人生は絶対に譲れないものだ。姉だからと理不尽な理由で、その夢を捨てるつもりはない。
「分かりました」
「納得してくれたんだね」
「いいえ、私は親子の縁を切ってでも、店を守り抜くことにします」
「琳華!」
母の金切り声が部屋中に響き渡る。だが琳華も一歩も引く気はない。双方が睨み合い、空気が張り詰める中、動いたのは意外にも明軒だった。
「まぁまぁ、落ちつきましょうよ。どうせ琳華は宝石店を手放さざるを得ないんですから」
「私は何を言われても意見を変えませんよ」
「琳華の意見なんて関係ない。俺たちには奥の手があるからな」
明軒は手荷物から厚い封筒を取り出す。中にはきちんと折りたたまれた公文書が入っており、その内容が見えるように琳華に向けて広げる。
(これは借用書ですね……)
しかも書面には見覚えがあった。以前、明軒に借金の連帯保証人になってほしいと頼まれ、サインしたからだ。
「これが何か分かるよな?」
「……その借用書が何か?」
「お前も不用意なことをしたよな。こんな危険なものにサインするなんて」
「私の代わりに織物屋を継ぐ条件だと言われては呑むしかありませんでしたから」
借金の連帯保証には抵抗があったが、宝石鑑定士を続けるためには仕方のない選択だった。だが彼はその判断が間違っていたと笑う。
「この借用書の金額がいくらか覚えているか?」
「金貨五枚でしょう。最悪、私の貯金からでも十分に支払える額だからこそサインしましたから」
「残念だったな。俺の借金は金貨千枚だ」
彼の指差した書類には『金貨千枚に関する借用契約書』と題されていた。偽物だと疑ったが、その下には琳華の筆跡で署名が残されている。かつてサインした借用書で間違いなかった。
「ありえません。私は確かに金貨五枚だと……」
「金額は誰に確認した?」
「それはお母さんに……まさか!」
「推察通り、その時からグルだったのさ」
琳華がサインしたのは数年前。まだ社会人経験も浅く、ベテランの母に頼る部分も多かった。
借用書の数十ページに及ぶ分量と専門用語のオンパレードを前にして、母の「代わりにチェックしておいた」という言葉を鵜呑みにして署名したのだ。
まさか実の母親が婚約者とグルになって騙すとは思わなかったからだ。抗議の視線を母に向けると、彼女はふてぶてしい表情を浮かべる。
「仕方ないじゃないか。うちの家には跡継ぎが必要なんだから。借金の連帯保証人にされたくらい、お姉ちゃんなんだから我慢しな」
つまり母にとって琳華の優先順位は織物屋よりも下なのだ。あまりの理不尽さに怒りを通り越して悲しみが湧き上がってくる。
(どうして、こんなにも酷いことができるのでしょうね……)
乾いた笑い声を漏らしながら、しっかりと頭のギアを入れ替える。家族はもう味方ではない。明確な敵だ。
「さようなら。私はあなたたちを絶対に許しません」
琳華は立ち上がり、実家の織物屋を後にする。背中から明軒の「負け犬」と小馬鹿にする声が聞こえ、逃げ出すように宝石店へと足を向けた。
(この店だけが私を受け入れてくれます)
鍵を差し込み、店の扉を開けると宝石たちが出迎えてくれる。店内には父と過ごした無数の思い出が詰まっており、傷心した彼女を癒やしてくれた。
「お父さんが生きていれば……」
壁に掛けられた父の肖像画を見つめながら、ボソリと泣き言を漏らす。だが肖像画は何も応えてくれない。静寂な空間に反響した声が、現実を思い出させた。
(お父さんはもういません。他の誰でもない私がなんとかしないと!)
家族にさえ裏切られたのだ。他人は誰も助けてくれない。信じられるのは自分自身の力だけだ。
「待っていてくださいね。必ず帰ってきますから」
どんな手を使ってでも、父から受け継いだこの店を守り抜くと決意した琳華は、父の肖像画に見送られながら、夜の街へと駆け出す。その背中から迷いは完全に消え去っていた。
●●●
《明軒視点》
琳華との婚約を破棄してから数日が経過した。明軒の日常に変化はなく、強いてあげるとすれば、この数日で彼女が姿を消したことくらいだ。
「琳華がまさか行方不明になるとはな……」
織物を店頭に並べながら、梅蘭と詩雨にぼんやりと呟く。店内に客はいないため、彼女らは手を止めて、その話に耳を傾ける。
「お姉様ったらどこに消えたのかしら?」
「俺たちの仕打ちに耐えかねて、街を離れたのかもな」
「傷心を癒やしたら、また元気な姿で帰ってきて欲しいですわね」
「今度はもう少し優しくしてやらないとな」
言葉とは裏腹に明軒の声に後悔の色はない。それは詩雨も同じで「あんまり虐めては可哀想だ」と、嘲笑を漏らした。
「琳華が帰ってきたら桃饅頭をご馳走してあげないとね。きっと喜ぶわ」
「お姉様の好物ですものね」
「美味しいものを食べれば嫌なことなんて吹き飛ぶんだから。素直で従順なお姉ちゃんなら、きっと分かってくれるわ」
梅蘭と詩雨は姉を称えるが、その声には感謝や尊敬の念はなく、ただの形式的な言葉に過ぎない。
それを見抜いた明軒は口元に笑みを貼り付ける。
姉を馬鹿にされても本気で怒らないのは、彼女らが琳華を便利な道具として扱っているからだ。
本当に家族のことを思うなら、こんな反応にはならない。無自覚で寄生している家族が滑稽で仕方ないと、口元が緩むのを抑えられなかった。
「俺は本当に幸せものだな」
「どうしましたの、急に」
「いや、しみじみと感じてな」
強く命じれば娘を罠に嵌める母親に、姉の婚約者と不義理を果たす妹。彼女らの根底にあるのは強者への服従だ。
織物屋を継ぐために、ノウハウを習得してきた明軒は実質的な経営者となっていた。彼がいなければ仕事が回らない。欠かせない存在となったからこそ、どのような不義理も梅蘭は店のためだと受け入れる。
詩雨もそうだ。次期店主としての力を持つからこそ、明軒を誘惑したのだ。
「美人な嫁に、大金まで手に入る。俺は三千世界で一番の幸せものだ」
明軒は独り言のように呟く。その言葉に反応した梅蘭が優しげに微笑む。
「琳華も明軒のような素晴らしい人と出会えるといいわね」
明軒は思わず吹き出しそうになる。その琳華から婚約者を奪っておきながら、娘の幸せを願う矛盾がツボに入ったのだ。
「談笑中に失礼するぜ」
団欒を打ち壊すように、織物屋の扉を乱暴に開き、男が足を踏み入れる。広い肩幅にガッシリとした肉体、ヘビのような鋭い目付きは忘れたくても忘れられない。
彼は借金取りだ。身に纏う雰囲気だけで、店の静かな日常を一変させる。梅蘭と詩雨が固唾を飲んで見守る中、明軒が対応する。
「本日はどのような御用で?」
明軒が腰を低くしながら訊ねると、借金取りの男は眉間に皺を寄せる。
「俺の仕事はなんだ?」
「金貸しですよね?」
「そうだ。なら用件は一つだろ。貸した金を回収しに来たんだ」
「ちょっと待ってください!」
借金取りには琳華が連帯保証人であり、彼女が街の宝石店を所有していると伝えていた。
「あの宝石店を売れば、俺の借金を返してお釣りが来るはずです」
あれだけの一等地ならすぐに現金化できるはずだ。だが男は期待に反して首を横に振る。
「借金はな、借りたお前から回収させてもらう」
「な、なぜですか!」
人はより楽な方向に流れるものだ。明軒から無理矢理に金を回収するより、換金の容易な宝石店の処分を選ぶはずだ。
その疑問に借金取りは答えない。それどころか拳を振り上げ、明軒の顔に叩きつけた。鼻を潰され、血が溢れ出した彼は、涙目で抗議の視線を向ける。
「……どうして殴るんですか?」
「お前が俺を騙そうとしたからだ」
「……騙す?」
「あの宝石店を差し押さえられるわけがないだろ。なにせあの物件は後宮の担保になっているからな」
「はぁ?」
後宮とは皇帝の妃や側室が住まい、数多くの宦官が働く内廷である。次代の皇帝を輩出する組織だからこそ、その政治力は大きく、街の高利貸しなど吹けば吹き飛ぶような権力を有している。
「後宮が絡んでいるとはいったいどういうことですか!」
「知らん。だが結論は只一つ。多少面倒だが、宝石店を処分できない以上、お前から回収するしかないということだ」
借金取りが鋭く言い放つ。その言葉は彼の胸を圧迫した。
事態の不穏さを梅蘭も感じ取り、焦燥感を隠せずに声を上げる。
「つまり借金は明軒が返さないといけないの?」
「借りた奴が返すことになった。ただそれだけだがな」
「そんなの困るわ。これから子供が生まれて、お金もかかるし、結婚式の費用もたくさん必要なのよ。琳華の店を売ったお金がないと、盛大に祝えないわ」
「知ったことか。俺たちはしっかりと金を回収する。それだけだ」
「そう。でも残念ね。明軒から回収は無理よ」
明軒は一文無しの遊び人だ。無い袖は振れないため回収は無理だと伝えると、借金取りの男は笑う。
「聞いたぜ。明軒はあんたの娘との間に子供を作ったってな」
「それがどうしたっていうんだい?」
「もう明軒はあんたの家族の一員だ。身内の借金返済には当然協力してもらう」
「協力?」
「この織物屋をもらっていく。街から外れた位置にあるから、物件の買い手を見つけるのには苦労するだろうが、後宮と揉めるリスクを背負うよりマシだ」
「この店は代々続く老舗なのよ。売れるわけないじゃない!」
「俺は金を回収するためなら何でもやる。無理矢理にでも売らせるだけだ」
借金取りの男は絶対に退かないと、目の鋭さを増す。強面を向けられ、梅蘭は耐えられずに黙って俯く。
二人の様子を傍観していた詩雨もさすがに不味い状況だと気づいたのか、焦燥で口を開く。
「待ってくださいまし! もし店がなくなったら私の生活はどうなりますの?」
「街に出れば仕事はいくらでもある。働け」
何なら店を紹介してやると、借金取りの男は続ける。詩雨は蝶よ花よと育てられてきた。働いたことのない彼女が今更、額に汗を流すような生活に耐えられるはずがない。肩を落として落胆する彼女を庇うように、明軒が足を前へ踏み出す。
「この店がなくなるのは俺も困る!」
「それは金を返せないお前が悪い。ひとまずは金利代わりに商品を貰っていく。次までにしっかり金を用意しておけよ」
明軒の懇願は、借金取りの心を動かすには至らなかった。容赦なく、店内の布地を回収し始める。
金利分の商品を肩に乗せると、借金取りは店を去っていく。その背中を見つめながら、足から崩れ落ちた明軒は叫ぶ。
「いったい、何をしたんだ、琳華!」
罠に嵌めたはずの琳華が、明軒の理解の及ばぬ方法で宝石店を守り抜いたのだ。詩雨と梅蘭の嗚咽と共に、明軒の絶望の叫びが空しく店内に反響するのだった。
●●●
時を遡ること数日前。
琳華は宝石店を守り抜くために夜の街を駆け抜けていた。
(借金は暴利で有名な金融屋からです。生半可な手段では店を守り抜けません)
黒い噂をよく聞く街の高利貸しだ。連帯保証人に署名した以上、換金が簡単にできる宝石店を放っておくはずがない。
暴力を振るわれるリスクもある。守り抜くには後ろ盾が必要だった。
(ここですね……)
いつ宝石店に借金取りが押し入ってきてもおかしくはない。事態は一分一秒を争う。宝石鑑定士としての人脈を駆使し、多くの人に相談した結果、琳華の辿り着いた答えは後宮を頼ることだった。
(もし後宮が力になってくれれば百人力ですからね)
もちろん後宮のような権力が、何の理由もなく店を守るのに協力してくれるはずはない。
だが琳華には勝算があった。
一つ目は皇帝の妃たちが暮らす後宮では宝石が必需品であり、何度か後宮の宦官と取引の実績があること。
もう一つは後宮が芸術や経済の発展のために、資金を貸与していることだ。彼らは勢力を高めるために、優秀な人間に資金を惜しまない。琳華がそのお眼鏡にさえ適えば、助力も十分に期待できた。
(さすがに立派ですね)
後宮の門の前に立った琳華は、その壮大な建物に深く息を吸い込む。
後宮の出入口となる門は、深い朱色に塗られた巨大な扉と金色の装飾が施されており、気品と権威が漂っている。
門の上部には、緻密に彫られた龍と鳳凰のモチーフがあり、後宮の威厳をさらに高めていた。
(いきなり捕縛されたりしないですよね?)
琳華は恐る恐る門に近づいていく。取引はいつも後宮から店に遣いが来る形だったので、彼女から訪問するのは初めてだった。
「そこのお前、何者だ!」
後宮の入口を守る宦官が、近づいてくる琳華を呼び止める。身の丈ほどもある長槍を持つ姿に威圧されながらも、警戒を解くべく口を動かす。
「私は怪しいものではありません。宝石鑑定士の琳華と申します。本日は大切な話があって来ました」
「約束はしているのか?」
「ありません……ただ宝石の仕入れを担当されている方に琳華が来たと伝えてもらえれば私の身元を証明してくれるはずです」
必死に説得するが宦官に動きはない。眉間に皺を寄せて、怪訝な目を向ける。
(このままだと追い返されますね……手を打たないと!)
相手に要求を呑ませるコツは利益を提示することだ。彼の宦官という立場と琳華の扱える手札から自ずと答えは導かれる。
「私の身元を確認してくれたなら、私の店で買物をする時に安くしますよ」
「俺が宝石を欲するとでも?」
「あなたが身に着けなくても贈り物として購入する機会はあるはずですよ」
「……それは俺が宦官だと知りながら言っているのか?」
宦官は去勢されており、基本的には家庭を持たない。故に宝石を恋人へのプレゼントとして贈る習慣もなかった。
だが琳華も馬鹿ではない。事前知識として知った上での提案だった。
「宦官だからこそ提案しているのです。恋人に贈る機会はなくとも、後宮では女官と共に仕事をしているはずですよね。ならお礼や謝罪で宝石を活用する場面もあるのでは?」
「それは……」
ないとは言い切れないはずだ。気持ちが傾き始めた宦官に追撃を加える。
「冷静になりましょう。あなたは私の身元を照会するだけで、宝石を安く買える機会を得られるのですから。悩む余地はないはずですよ」
「う、うむ。そうだな」
説得された宦官は門をくぐって後宮の奥深くへと消えていく。冷たい夜風が吹いているが、希望を得た琳華は寒さを感じない。彼が帰ってくるのを待っていると、宦官が白髪の老人を連れてくる。
老人は知性を感じさせる容姿をしており、顔には人生の知恵を刻んだ皺がある。絹で織られた品位ある服装は、彼が高い立場にある人物だと証明していた。
「お主が琳華だな?」
「はい。宝石鑑定士の琳華です。あなたは……」
今まで宝石の取引で見たことのない顔だ。立場を問うと、老人は想像もしなかった答えを返す。
「儂は総監の地位にある慶命と申す」
「そ、総監ですか!」
琳華が驚くのも無理はなかった。後宮において、宦官たちを統括する最高責任者であり、皇帝への奏上まで許されている立場だ。
慌てて膝を突こうとするが、慶命に止められる。
「堅苦しいのは嫌いでな。同じ目線で話をしよう」
「慶命様がそう仰るなら……」
「それで、儂らにどのような用件だ?」
「実はお願いがあって参りました。私にお金を貸してくれませんか?」
琳華は今までの経緯を説明する。騙されて、父親の形見の宝石店を奪われようとしていることや婚約破棄されて家族も頼れないことを洗いざらいぶちまける。
興味深げに耳を傾けていた慶命は、すべての話を聞き終えると、顎を撫でながら思案する。
「話は分かった。実際、後宮が資金援助することはあるから前例がないわけではない……ただし簡単ではないぞ。秀でた能力がなければ出資は認められん」
「尤もだと思います」
援助を得るには、如何に後宮へ貢献できる力があるかを示す必要があり、筋の通った話だった。
「私に出資いただければ、必ず慶命様の力となります」
「具体的には?」
「後宮は多くの宝石を扱います。その際に宝石の真贋を見抜く鑑定士の力が役立てるはずです」
「ほぉ……」
「私以上の宝石鑑定士はこの街にいません。出資いただいた以上の貢献をしてみせると約束します」
慶命の表情の真剣さが増す。説得が心に響いたのだ。
「悪くない。事実、宝石の真贋を知りたい場面は後宮だと少なくない」
「なら――」
「ただ金貨千枚は大金だ。簡単には貸せないな」
後宮が財に富んだ組織とはいえ、金貨千枚は安くない。だがその回答は想定通りである。琳華は最初から大金を借金するつもりはなかった。
「金貨千枚もいりません。一枚で十分です」
「だがそれでは借金を返せないぞ」
「構いません。その代わり、私の宝石店を担保にして欲しいのです」
「ん? どういうことだ?」
「私は連帯保証にサインしました。そのせいで、私が借りたわけでもない元婚約者の借金返済の義務を共同で背負う羽目になりました」
「そうだったな」
「ですが金を貸したのは街の金融屋です。後宮が私の宝石店を担保にしてくれれば、共同の債務者である明軒から回収しようとするはずです」
「なるほど。金貨一枚の借金は店を守るために使うのか」
明軒は詩雨と婚約している。ハイエナのような借金取りは、婚約を理由に実家の織物屋から回収を図るだろう。
人は易きに流れるもの。回収する見込みがないならともかく、後宮と揉めるリスクを背負ってまで宝石店を狙わないはずだ。
「評判通り、お主は優秀な人材のようだな」
「評判ですか?」
「なぜ総監の儂が直接会いに来たのかと、不思議に思わなかったか?」
「それは……」
約束もなしに訪れた琳華に対し、宦官たちを統括する立場の慶命が時間を融通することは本来ならありえない。何かしらの理由があるとは予想していた。
「宝石の買付を担当している部下から、お主の話は聞かせてもらった。恐ろしく優秀で、人当たりも良いと。しかも一人ではなく、複数人からの評価だ。儂が時間を割くだけの価値はあると判断した」
宝石鑑定士として懸命に働いてきたからこそ、琳華はチャンスを得られたのだ。今までの努力が報われたようで、思わず笑みが溢れてしまう。
「儂は優秀な人が好きでな。助けてやりたいと思う」
「本当ですか!」
「ただし無条件とはいかない。儂は『互惠互利』という考え方が好きでな。差出した分の価値を返してもらいたい」
『互惠互利』は相互に恵み、相互に利益をもたらすウィンウィンの関係を意味する。琳華の宝石鑑定の知識を後宮のために役立てるため、慶命は具体的な要求を口にする。
「一年でいい。後宮で働いて欲しい」
「私が後宮でですか?」
まさか皇帝の妃としてという発想には至らない。琳華は自分が異性受けする外見かどうか自覚しているからだ。
「実は人手不足で困っていてな。特に文字の読み書きができる女官は貴重だ。宝石鑑定の知識が必要になった時、傍にいたほうが頼りやすいという理由もある。どうだろう? 後宮で働いてはもらえないだろうか?」
一年は短くない期間だが、助けてもらうなら恩に報いるべきだ。琳華は迷わずに即決する。
「私を後宮で働かせてください」
「よろしい。そしてこの選択はお主にとっても悪くない話だ。後宮は俗世と隔離されているからな。面倒な家族とも距離を置ける。そして何より給金も悪くない」
「それは楽しみですね」
「ではよろしくな」
「はい、よろしくおねがいします」
この決断が琳華の運命を大きく左右することになるのだが、この時の彼女はまだそれを知らない。慶命と握手を交わし、輝かしい未来に胸を躍らせるのだった。
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