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ルシアンは寒い中、馬車でじっと待ってくれていた。
お嬢様に何かあったときに駆けつけられないので、と劇場の傍でいつも待ってくれているルシアンの心遣いがローラは有り難かった。同行して、一緒に行けばいいじゃないと言うのだが、いつも断られてしまう。
膝掛けをかけながら、馬車に揺られながらローラはルシアンに話しかける。
彼はいつもローラのとりとめのない話を上手に聞いてくれるのだ。
簡素な馬車は壁が無く、寒いけれどルシアンとの距離は近い。
「ねぇルシアン。今日ね、隣の紳士からこんな話を聞いたわ」
ローラはルシアンに、劇場で聴いた紳士の話をかいつまんで説明した。
「なるほど。それは妻が怪しいんでしょうかね」
「ええ。犯人は妻のクリスティーヌよ」
と、ローラは断定した。
馬車は緩やかな坂を上り始めた。
ルシアンは頷いた。
「妻はどうやってコレットを殺したんでしょう」
と、何事もないように言った。
彼はこれまでローラに様々な話をこうして聞かされているので、今更驚かない。
「酒場からの帰りに拉致したとして、屋敷に閉じ込めて殺す。そして、遺体を処分するために燃やした……だけど、彼女の手がかりになるような物品を後から見つけて火の中に落とした」
「ふうん。ルシアンはそう思うのね。じゃあ、質問だけれど、コレットの遺体を燃やしたとしたら、その燃えた後の物はどこにあるの? 花壇には何も見つからなかった」
「うーん。巨大なミミズが土に還した……としか……いや、違いますね……」
ローラはコロコロと笑った。
いつも冷静で、完璧な執事のルシアンが、妙なことを言い出すのは面白い。
家でこんな血なまぐさい話をしたら、父や母にしこたま叱られることをローラは分かっているので、こうして聴いてくれるルシアンの存在は嬉しかった。
ローラは劇場では口にしなかった、脳裏に浮かんでいた真実めいた光景について、話を進めた。
「そういえばこの間、メイド仲間のエレーヌがマロングラッセを買ってきたの。公爵の執事のジャンの誕生日にあげるためだったのよ。でもジャンは全然気づかなくってね、もらい物か?って言って普段のお菓子みたいにばくばく食べちゃったのよ。エレーヌももう少し言葉を足せば良かったのにね。その後、エレーヌは泣き出してへそを曲げるし、ジャンは焦ってティーカップを割るしで散々だったわ」
ルシアンは首をひねった。
公爵家の無残なティーカップが、今の血なまぐさい話とどう関係があるのだろう。
「あのね。これは私の推測なんだけれど」
ルシアンは悟った。
これまで数々のお嬢様の独り言を聴いてきたけれど、いつもそうだ。
『推測』を始めたお嬢様の話は核心を突く。
「妻はコレットを殺してはいないわ」
「何ですって?」
ローラは言った。
「昨日の夜、物音で窓を開けた夫の窓をたたいたのは妻ね。上の窓から枝に糸でもくくりつけたものを垂らせばいい。それで窓に近づいた夫は下のボヤ騒ぎに気づいて思わず窓を開けて顔を出す」
「もし顔を出さなかったら?」
「それならそれでよかったのよ。妻にとってはうまくいけばいいし、いかなければまた次の機会を考えればいいのだもの。昨日は寒かったでしょう。だからきっと思いついたのね」
ルシアンは疑問に思った。
「じゃあコレットはどこにいるんです?」
「さあ。でも『もぬけの殻』だったんでしょう? もしも突然事件に巻き込まれたのなら、身の回りの荷物を全て持ち出すのは不自然だわ。きっとコレットが『殺されそう』になっていたのは酒場の女将よ。売り上げを持ち逃げでもしたんじゃない?」
「それなら妻の部屋から降ってきた物には、コレットは関係ない?」
「関係ないともいえるし、関係あるともいえるわ。そもそもの始まりがコレットであることに変わりは無いのよ」
「意味が分からなくなってきた」
「ほら、さっきのティーカップの話と同じよ。気付いてないのは男だけってこと」
馬車は坂を登り切り、ガタンと一度揺れた。
もうすぐ伯爵家に着く。
ローラはルシアンの反応を楽しんで満足していた。
「昨日の晩は寒かったわよね。ろうかのバケツの水は冷えたでしょうね。そして凍ってしまっても不思議ではない……さあ、浮気癖のある夫にまた裏切られた妻の気持ちになって考えてみるのよ。本の登場人物になったみたいに」
「降参ですよ、ローラ様。教えてください」
ルシアンはわずかに悔しさを滲ませながら言った。
ローラはにっこり微笑んだ。
「さあ、私がその話の妻だったらね。まず、花壇にわらを敷いておく。そして油をまいて火をつける。ランタンにたくさん油を使うのだから少しくらいなくなっていても誰も気がつかないでしょう。そして頃合いになったところで、夫に窓から頭を突き出させる。そして、凍ったバケツの中身を、『標的』めがけて落とすのよ。よく狙って……後頭部に当たれば成功。当たらなければ失敗。単純な話ね」
「待って下さいよ。それじゃあ妻が『殺したい』と言っていたのは……」
「もちろん、夫のことよ。そして、彼女のもくろみは残念ながら失敗した。氷の塊は紳士の顔の横をすり抜けて花壇に落ちた。彼女はまだ紳士の妻である必要があった。だから証拠を消しに走ったのよ。彼女は熱湯を入れたバケツを持って花壇に行った。だから夜着には似つかわしくない、厚手の手袋をはめていたんでしょう。寒さのためではなくて、やけどを防ぐためだった。花壇にかけつけた彼女は炎を消しに行ったのではなくて、氷を溶かしに行ったのよ。夫の後頭部を殴りつけ損なった凶器を跡形も無くすために。だから翌朝、花壇の花の一部が焦げずに枯れていた。妻が湯をかけたところの花は焦げずに枯れた。凍えたミミズはそのときに這い出してきたんでしょう。まさかミミズにしてみたって、こんな霜の降りる寒い日に、住処に熱湯が注がれるなんて夢にも思わなかったでしょうから」
「でもどうして、そんな失敗か成功か分からないような……博打みたいな計画じゃないですか」
「ええ。どっちだって良かったのかもしれないわ。だって妻はこれからずっと彼の妻なのよ。それこそ、夫が死ぬまで……機会なんてこれを逃しても永遠にあるわ。氷が溶ける季節になったら、氷を使わない何かを考えつけばいい話だもの。もし私が妻だったらこう言うわね、『火事が見えて思わず近くにあったバケツを手に取った。ここから水をかけようと思ったが、中に偶然氷が入っていた。それが運が悪くも、窓から顔を突き出した夫に当たってしまったようだ』って。それを夫が信じれば、それこそ品の無い推理小説を何本も書き上げるように、今回と同じような偶然を装った手口を使って、何度もやればいいのよ。もし夫が自分が狙われていることに気付けば、浮気をしたからだと気付いて悔い改めるかもしれない。それはそれで前進ね。妻は運命を天に任せた。そして、その結果、紳士は助かった。とりあえず、昨日に関してはというところだけど」
馬車は伯爵家の前で停まった。
暖色の光がカーテンの隙間から漏れ出ている。
「たまたま劇場の隣に座った、名前も分からない方だったから。それに問題を真剣に考えていらっしゃる様子もなかったわ。『一つの犠牲も払わないで幸せになりたい愚か者』って感じだったわね。だから、彼にとってはこの話もあまりたいしたことじゃなかったのかもしれないわ。それに、私は忠告はしたのよ」
「何と言われたのです?」
「浮気を奥様に謝罪したらどうか、という、ありきたりな忠告よ。ああ、ルシアンごめんなさい。貴方、風邪をひいてやしないかしら? オーバーコートのボタンがとれかかっているわね。私が金ボタンにつけかえてあげましょうか」
「とんでもない。多忙なお嬢様にそんなことをさせるくらいなら、そんな罪深いコートなんて燃やしてしまいますよ」
ルシアンは冷えた手で、ローラの身の回りの荷物を入れた鞄を持った。
菫のような良い香りがする。
週末だけこの家を訪れる、愛らしいお嬢様のことをルシアンは好ましく思っていた。
だが、執事としては秘密を共有するだけでなく、やはり忠告をしておかねばならない。
「この推測趣味だけはどうにか隠さないといけませんよ、お嬢様。殿方はこういう血なまぐさいことを話す令嬢は一般的にあまり好みませんからね」
と、ルシアンは言った。
このローラ嬢は、黙っていれば優しそうで、血や死体や殺人なんかとは無縁の顔をしているのだ。
幼い頃から天使の笑顔を見せてくれたお嬢様を、ルシアンはきちんと令嬢として送り出したかった。
「善処するわ。ところで来週はヴォルファルの新作があるのだって。またよろしくね、ルシアン」
絶対分かっていない。
というか、自分を変える気が少しもない。
生返事にもほどがあるとルシアンは思った。
だが、こちらをみあげるローラの幸せそうな微笑みと桃色の頬に、ため息をついて頷いた。
この秘めやかな彼女の悪趣味は、まだしばらくは続きそうだ。
END
ヴァレリアン公爵の話より、脇役のローラ嬢の話でした。
なんちゃってミステリー。