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「いやあ、劇場で息抜きでもしなければやってられませんよ」
紳士の顔は貴族らしく手入れがされており傷も無かったが、うっすらとくまがあった。
「恥ずかしい話なんですがね。妻のクリスティーヌが怒り心頭で。なぜかって? いやあ、まあ、浮気ってやつですよ。酒場の若い娘でね。コレットというんですが、顔は童顔なのにスタイルは抜群で。でも、浮気なんて珍しくもないでしょう?」
ローラは曖昧に微笑んだ。
「コレットが最近ふっと居なくなってしまったんです。ええ。何処にもいない。部屋ももぬけの殻でね。酒場の女将も嘆いてましたよ」
「あら。それは大変ですね」
「僕もとても心配して探したんだが、やっぱり行方がしれない。探し回っているうちに、同僚の酒場の娘のうちの一人が思い詰めたように『まずい。殺されそう』と言っていたって証言したんです。それが、うちのメイドの話によると、つい最近妻が相手を見つけたみたいなんですよ。家の暖炉で写真を燃やしながら、「殺したい」と泣いているのを見たって言うんです。物騒でしょう?」
ローラはネックレスを指先でゆっくり触った。考えるときのローラの癖なのだ。
紳士は誰かに話したくて仕方がない様子だ。
「僕はピンときた。妻が浮気相手に何かしたんだと。ただ、僕だって妻の立場も分かりますからね。どうしたものかなぁと思ってたら昨日の夜。たまたま窓に何か当たって、物音で近付いてみたら驚きましたよ。下で何かが燃えているんです。思わず窓を開け放って下を覗き込みました。すると、窓の外で何かが私の顔の横を通り過ぎ、下の炎の中に落ちていったのです」
「貴方の部屋の上は誰の部屋なのですか?」
と、ローラは尋ねた。
「それが……僕達はずいぶん長い間、寝室を共にしていなくて。まあ、だからこそ浮気だって妻にも公認のようなものだったのですけどね。妻はもう何年も前から、自分の気に入った調度品で自室を整えさせていました。ピンのように細い剣や、宝石でできた瓶。あとはラソワ製のカーテンだったり……ああ、変わったところだと甲冑まで置いてありました。廊下もすごい凝りようで、ヴィンテージのランタンを用意させて、飾り棚を作ってそこに飾るといった具合でした。僕の使う一週間分の油を妻は一日で使うんですよ……それはさておき、僕の部屋の真上は、その妻が寝泊まりしているまさにその部屋なんです!」
「まあ」
ローラはネックレスの宝石の輪郭をそっとなぞった。
「執事が駆けつけるのが見えたので、僕は頭を引っ込めて、落ちついて考えようとしました。下に落ちていったものの正体です。こんな夜中に、あたかも隠すように、妻の部屋から落とされた何かについて。突然居なくなったコレットの、愛嬌のある表情が思い出されました。僕は勇気を出して、下を見に行ったんです」
「すると、何があったのです?」
紳士はローラの相槌を待っていたかのように話し続けた。
「昨日は冷え込む夜でした。それなのに妻は、バケツを持って外で火を消していました。確かに彼女の部屋の廊下には、ランタンが燃えたときのために防火用のバケツが置いてありました。彼女は「火事かと思って驚いて降りてきた」と説明しました。おかしくないですか。仮にも貴族の令嬢が、ですよ? さすがに寒かったからか、手袋だけはしていましたがね。夜着に厚手の手袋なんて、美しくもなんともない。ちょうど花壇には冬越しのための藁が敷いてあって、そこに何らかの原因で火がついて燃え広がったのだろうと執事が言いました。乾燥しての自然発火なのか? それとも誰かが火をつけたのか? 結局分からずじまいでした」
「その後、妻が寝室に戻ったので、僕は執事に花壇のことを話して、彼に消火するように頼みました。そして、万が一『何か』出てきたら、すぐに僕に報告するように言いつけました。そして朝になり、執事から報告を受けた僕は驚きましたよ」
「何かあったのですか?」
「いいえ! 何も! 何一つ出てはきませんでした」
「燃え残った物もなかったのですか?」
「ええ。黒焦げになった花の残骸くらい。一部だけは焦げずに枯れていた。おそらく藁が敷かれずに寒さで凍っていたんでしょう。ただ、こんなに広い範囲で花が無くなるということは、土が見えるということです。妻が地面の中に何かを隠している可能性は? そこで僕は執事に花壇を掘り返させてみました。でも、凍えたミミズ以外には、何も見つからなかった」
「全ては私の思い過ごしだったようです。だけどね、お嬢さん。正直に言うと僕は言いしれない不安を感じているんですよ。花壇に放火したのは誰か? コレットはどこに行ったのか? なぜ花壇の広い範囲で花が失われているのか? 妻は浮気相手に何をしたのか? あのとき私が偶然目撃した、落下物は何だったのか? そして、それはどこに消えてしまったのか? 全ての謎は何も解決していないのです。だから、居ても立っても居られないで、ふらりとオペラを聴きに来たのです。こんな当日のバルコニー席でも、あの家にいるよりはましですから」
紳士は妻の奇妙な行動と不審な出来事に対する疑念を抱いていた。
ローラはネックレスを触りながら、
「貴方は奥様が浮気相手を殺めてしまったのではないか、と心配なさっているのですね?」
と、率直に言った。
紳士は疲れたように微笑んだ。
「まさかそんなことはないとは思うんだが……」
そのとき、会場の鐘が鳴った。
開幕だ。
ローラと紳士は黙り込み、幕の上がるステージを見た。