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それは、カステージア劇場に訪れる紳士淑女の間に囁かれる伝説的な噂だった。
幕が開くまでに隣に座れた幸運な者だけが、妖精に一つだけ悩みを相談することができる。そして妖精はどんな悩み事でも解決に導いてくれる。
この伝説には続きがあった。
絶対にステージが終わるまで彼女の邪魔をしてはならない。また、彼女に対して邪な思いを持ってはならない。彼女の素性を探ってはならない。禁忌を破ると妖精は二度とこの劇場を訪れることはなくなる。
そして対価として、妖精はその日相談者が持っている『何か』を要求してくる。
対価を払わなかったり誤魔化して有耶無耶にすると、妖精から呪われてしまう。
妖精はいつも紫のドレスを身に着けているので、『菫の妖精』と呼ばれていた。
カステージア劇場の観客は、演目への期待と共に、もしも自分が『菫の妖精』に遭遇したらどんな悩み事を相談しようかと考えていた。
「では、いってきます」
「ええ、まかせて。いってらっしゃい」
同僚のエレーヌは気持ち良く送り出してくれた。
ヴァレリアン公爵家に仕えるメイドのローラは、週末の休みには必ず屋敷をあける。
高齢の両親が切り盛りする伯爵家を訪れて助言したり、些末な雑務をこなすためだ。
公爵家から徒歩で数十分もすれば、実家の伯爵領だ。公爵家のメイドの殆どは爵位持ちの貴族の娘なので、ローラのような事情は雇い主の公爵も理解していた。
実家から手配された簡素な馬車に乗り込んだローラは伯爵家の前で降り、自分を待つ両親の、いつもの屋敷に入った。
今月になってから随分寒い。
吐く息が白くて、ローラは胸の前で手をこすり合わせた。
「私の娘は頭の回転が速くって助かるわ」
と、おっとりとした母親はよくローラを褒める。計算したり、推測したりすることの好きな性分なのだ。
そして、夕方になると月に何度か、ローラは出かける。両親には「観劇へ行く」と話している。
それは嘘ではない。
嘘ではないが、完全な真実でもなかった。
公爵夫人のもとで働くメイドローラは、仕える主人にも同僚にも家族にもあまり知られていない、もう一つの顔を秘めていた。
ローラは四つ角で馬車を降りた。伯爵令嬢といえども、質実剛健の精神のもと健全に育った令嬢のローラは、華美な服装を好まない。だけれど体のラインに合う質の良さそうな紫色のドレスは、彼女の優しげな雰囲気によく合っていた。普段固くまとめている髪は緩やかに巻かれ、スミレのような芳香がふんわりと漂っていた。
馬車を御していた執事は、ルシアンという青年だ。
伯爵のために年若い時から働いていた彼はローラよりも幾分か年上だった。
落ち着きがあって賢い彼は、観劇好きの伯爵令嬢のための行動は心得ていた。
「では、時間になりましたらこちらでお待ちしています」
「ええ。お願いね」
ローラはルシアンに馬車を頼み、エスコートもなしに、羽の生えたような足取りで劇場へ向かった。
久しぶりのヴォルファルのオペラだ。
人気作品とあって、劇場は混雑していた。
ローラも手は尽くしたが、最良の席はとれなかった。
(まあ、二階席の中では良い方ね)
コートをクロークに預けたローラは、前向きに自分を慰めた。
これで前に信じられないくらい恰幅の良い紳士や、ウエディングケーキのデコレーションのように羽飾りを頭に取り付けたご婦人たちが座りさえしなければ、無事にステージ全体を眺めることができるだろう。
ローラは安堵して腰を下ろした。
暫くして、金色のボタン飾りをピカピカに光らせた紳士が隣に座った。傷はあるが良く磨かれている。アンティークのようだ。
「失礼」
「どうぞ」
「やあ。素敵なドレスですね」
「ありがとうございます」
「ヴォルファルのオペラの『氷の女神』のようですね。いや、失礼。少し馴れ馴れしかったですね」
と言う紳士は、確かに少し女慣れし過ぎているようなきらいがあった。
ローラはすまし顔をしながら、肯定も否定もしない。
「すみませんね。あなたが『菫の妖精』のように見えたので、つい話しかけてしまったのですよ。ご存じですか? 紫の妖精に出会った者は、悩み事を相談することができるのです」
「ええ。そんな噂は存じていますわ」
「幕があくまでまだありますね。よければ妖精のような淑女の貴方、僕の馬鹿げた独り言に付き合ってくれませんか」
紳士は語り始めた。