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午後になり、会社が変に浮ついていた。
あの一部始終を見ていた社員の誰かが、誰かに話したのだろう。
さっきから山本さんもチラチラ、あたしを見ていた。
あたしは仕事に集中しようと必死になった。
それでも、ひそひそと聞こえる小声全てが、水嶋さんとあたしの事を噂しているようで、心が乱れた。
丁度調べる事が出来、7階の外れにある資料室へと逃げ込んだ。
資料室の鍵を乱暴に解錠し、ドアを後ろ手で力強く閉めた。
・・・あたしは手の甲で、唇を強く擦った。
水嶋さん、何であんな事・・・。あれじゃ、周りに誤解される。
資料室のドアがノックされ、「青山?」と声がした。
穂積さんの声。あたしは振り返り、ドアを開けた。
穂積さんは、資料室に入るなり電気を消し鍵を締めた。
保存箱を陳列する為の大型スチールラックが何個もあり、資料の入出庫を記帳する為の小さなデスクが置いてある資料室。
採光も少なく、一気に室内が暗くなった。
いつ会社に戻ったのだろう。
あたしは穂積さんに背を向け、ブラインドの掛った窓際へと足を進めた。
直ぐ後ろで穂積さんの足音もした。
「青山。」
あたしは立ち止まる。振り返る事は出来ない。
「青山。」
さっきのとは声色が違っていた。あたしは俯いたまま振り返った。
穂積さんがあたしの顎を持ち、顔を上げさせた。
「血が滲んでる。」
あたしはそれを振り切った。どうしても穂積さんを直視できない。
「何かあったの?」
・・・知らない?・・・でも何れは耳に入る。
「お昼に行く前に・・・。」
「うん。」
「昨夜水嶋さんにご迷惑をお掛けしたことで謝ろうと思って声を掛けたんです。」
「うん。」
「それを見てた西野さん達が・・・。」
「うん。」
「あたし悔しくなって、いつも好き勝手な事ばっかり言う西野さん達の事考えたら悔しくって、気付いたら・・・こんなになってて・・・。」
「うん・・・やっぱり、嫌な思いしてたんだな、青山。」
あたしは穂積さんを見上げた。
「・・・俺の為に我慢しろって、水嶋に言われた?」
水嶋さん・・・。
「・・・ん。」
「あいつ優しいからな。言いそう。」
そう言う穂積さんの顔も優しかった。
二人は本当に仲良いんだなぁ・・・。
水嶋さんが、あたしの唇に触れて拭った血を舐め取ったなんて話・・・。
「でも余計な事もしてくれたみたいだな。」
「!」
穂積さんの親指が、あたしの唇に触れた。
知ってる・・・噂聞いてたんだ。あたしは身を固くした。
さっきの事が思い出されて、記憶を閉ざすようにあたしは目を強く閉じた。
穂積さんがあたしに軽く触れる位のキスをした。
それから”あたし”を確かめるように抱きすくめる。
「明日さ、1泊で旅行行こっか、青山。」
「え?」
「青山と一緒に居たい。」
体を少し離して穂積さんのその目を見たら、何だか小さな子供みたいに見えて、愛おしくて仕方なかった。
あたし、やっぱり、この人じゃなきゃ駄目。
穂積さんじゃないと、やだ。