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「・・・カーデ、クリーニングに出して返しますね?」
「あぁ。それで帰れる?」
あたしはコクリと頷いた。
「今日はどうしたの?誰かと会う約束だったの?」
「あ、はい。友達と映画を観る予定だったんですけど、彼氏と会う事になったからってドタキャンされて。」
「あぁそう。」
「はい。」
何だか落ち着かない。
「ほ、穂積さんは?」
「かみさんが銀座で仕事しててね。終わったら、ご飯でも食べて帰ろうって言うから来たんだけど。長引いてるみたいだな。」
時計を見る仕草をした。
「奥さん、何してるんでしたっけ。」
「雑誌の編集者、編集長か。エヴリィってワーキングウーマン向けの雑誌、創刊した本人。」
本屋で目にした事はある。
まだまだ手にする事はないと思っていた雑誌の編集長が、穂積さんの奥さん・・・。
スマートな振る舞い
高そうな時計
完璧な男
銀座で夫婦で水入らず
デキル妻
それが現実。
急に、西野さんと金田さんとの会話が走馬灯のように蘇った。
「奥さん居たって、穂積さんと付き合いたいと思う女は居るよね。」
「大人の男に憧れる時期じゃん。でもさ、穂積さんがあたしを相手にする訳ないじゃんって思ったら、普通に”憧れ”だけで終了したよね。」
そうそう。
終了だよ。
穂積さんの携帯がカウンターの上で震えた。
あたしはバッグの中からお財布を取り出し、500円を震える携帯の傍へ差し出した。
穂積さんから目を逸らし、カーディガンの合わせを抑え席を立った。
「青山・・・。」
耳を塞ぎたかった。
雨は、さっきより弱まっていた。傘の花が咲く、街の雑踏に身を隠した。
帰りの地下鉄を待つ間、あたしを穂積さんが包んでいた。
香水の残り香がさも、そこに穂積さんが居るかのように錯覚させた。
「こんなの羽織ってるからじゃん?」
あたしはボソッと言った。
今まで、何とも思ってなかった。尊敬する上司、ただそれだけだった筈。
ちょっとした勘違いだよ。
何、急なドキドキ?
相手は32歳。年の差12歳。既婚者だし、完璧な奥さん居るし。
違う違う。
「違うから!」
同じように電車を待つ人の目が刺さった。
とても平静を保てる状態でないあたしは、PAUSAに足を運ぶ事に決めた。
「・・・奏ちゃん。どうしたの?今日、休日出勤だったの?」
神谷さんがあたしを見る早々、そう言った。あたしは首を振って、いつものカウンターに座った。
オープンしたばっかりのこの時間で、お客はあたし一人だった。
「土曜だから混んでるのかと思った。」
「土曜は大抵、一軒行った後に此処に来るって感じかな。キール?」
「・・・マルガリータにしようかな。」
「どうしたの?」
神谷さんがあたしの顔を覗き込む。
カウンターの奥の庄司君もじっとあたしを見つめていた。
「やだなー。たまにはあたしも違うの頼むよー。」
「・・・庄司君、マルガリータだって。」
庄司君は、氷を入れたシェイカーにテキーラを注ぐ。メジャーカップがメトロノームのように振れた。
庄司君があたしのオーダーで、シェーカーを振るのは初めてだった。
いつになく真剣な面持ちでシェーカーを振る姿に見入ってしまった。
カクテルグラスに注がれた白雪のカクテル。
「どうぞ。」
あたしは一口飲んで、間髪入れず次の瞬間には、グラスを空けた。
体が一気に火照った。
神谷さんも庄司君も、尋常ではないあたしを見守っている。
・・・酔って、何も考えられなくなれば良いと思った。
でも駄目だ。
ここで酔ったら、庄司君達に迷惑がかかっちゃうや・・・。
家で缶チューハイでも飲んで飲んで飲みまくって、倒れた方が良いか・・・。
「ごめんなさい。やっぱり今日はこれで帰ります。えっと、お財布・・・。」
あたしがバッグの中をかき回していると、神谷さんが
「酔いたくて来たんでしょ?良いよ?それで。つぶれたら、あたしの家に泊めてあげる。」
そう言ってウィンクした。
「奏ちゃん、真面目すぎんのよ。会社でも此処でも”イイコ”なんでしょ。PAUSAはイタリア語で”休憩”。頑張ってる自分を休ませてあげて良いんじゃない?」
「・・・休憩・・・。」
あたしは泣きたくなる気持ちを堪えた。
頑張ってる・・・。
あたし頑張ってるよね。
「・・・ハーパー、ダブル、水割りで。」
この前覚えたばかりのお酒のオーダーに、庄司君は応えてくれた。