答えのない夜
作品の発表自体は自分のYaHooブログで行っていましたが、YaHooブログが閉鎖されたこともあって、加筆・訂正とタイトルを加えて転載しました。なろうでは初投稿となります。今後ともよろしくお願いします。
深夜まで営業している小さな古本屋。私はそこのカウンターで店番をしていた。これでも経営者だ。バイトから始めて経営権を買い取り、店を持って5年あまり。はっきり言って寂れている。私の怠惰な性格を写し取ったような雑然とした店。個人的にはこの生活は気に入っていたが、経済的にはもう限界が近づいていた。それでも惰性に任せて店を開ける。現実から目をそらせてふわふわとした気分で店番を続けていた。
そんなある日のことだった。深夜1時を大きく過ぎて、さすがに店を閉めようと片付けを始めたときに、「彼」がやってきた。
「彼」は元常連客だった。「彼」が中学生の頃は良くやってきたものだ。顔は良く覚えている。さすがに思春期のあどけなさは抜け落ちて顔つきはシャープになっていたが、どこか少年らしさを残している。今はもう、大学生ぐらいだろうか。実年齢よりも若く見えるかもしれない。
「マスター」
「彼」が私を呼んだ。何故か、彼らの間では、私はマスターと呼ばれていた。店長でも親父でもなく、マスター。なんとなくかっこいいので、気に入っていた呼び名だ。もっとも、彼らにそんなことを話したことはない。
「なに?」できる限り気さくな兄貴を演じつつ、私は声をかけた。久しぶりに会う古い知り合いに、気分が浮き立つのを感じる。私にも見栄やプライドはある。できる限り頼もしい人生の先輩の顔を見せておきたい。
「彼」は言いづらそうに、しばらくの間躊躇っているようだった。無言で待つ。焦らせることはない。
「マスターは」
躊躇い、恐怖、羞恥、懇願、決意。短い間にいくつもの表情が見えたような気がする。何度か様々な表情を繰り返して、彼はようやく冷静な表現の乏しい仮面を選び、言葉を続けた。
「人を殺したいと思ったことはある?」
「それはあるさ」私は即答した。「誰だって殺したいと思った奴の一人や二人、いるものだ」
それはあるだろう。生まれ落ちてから一度も人を殺したいと思わなかった者など、いたとしてもごく少数派だと私は思う。いじめられた経験があれば確率は桁違いに上がるだろう。幼稚園の時のケンカの際、いじめっこの手首の動脈を狙ったのを思い出した。私は結構過激な園児だったのだ。敵も然る者、力で阻止されたのだが。思考がかなりそれた。閑話休題。
ところが、「彼」が浮かべたのは納得でも反発でもなく、苦笑だった。
「違うんです、マスター。殺したいほど憎い奴の話じゃあない」
間が空く。空気が変わる。嫌な予感がする。このあとの台詞は聞きたくない。聞いてはいけない。だが聞かなければ。
「僕が殺したいのは、可愛い子、愛しいと思う女の子なんです」
ついに聞いてしまった。
「彼」が続けて言うには、物心ついた頃からそんな欲望が頭から離れない。いくら、異常なことだ、危険だと自分に言い聞かせても、女の子を可愛い、愛しいと思うたびに殺意が湧いてくるのを感じる。憎いんじゃない、殺したいのだ、と。そして殺し文句を吐いた。「マスターなら、理解ってくれるでしょう?」
このとき、私はなんと応えたら良かったのだろう。そう、私は彼の心が、彼の周囲にいる人間の誰よりも「理解できる」はずだ。しかし、それは心理学的な見地からだ。共感できないし、共感してはならない。共感を示せば、彼の欲望にGOサインを出してしまうことになる。そうなれば私は一生後悔することになるだろう。
だが、例えば漫画のワンシーンのように、冗談で紛らわせて聞かなかったことにできるか。答えはNOだ。「彼」は心の内のすべてを振り絞って、じぶんの闇をさらけ出したのだ。それを無かったことにすれば、「彼」の絶望は取り返しのつかない所まで行き着く羽目になるかもしれない。
それとも、面と向かって叱りつけた方がいいのだろうか?バカなことを考えるな。君の将来はどうなる。ことが起こった後に残された家族はどうなるのだ、と。「彼」もそれを望んでいるのだろうか?だが、それならわざわざ私の所へ来るだろうか?
「彼」は聡明だ。自分の将来と引き換えの欲望だなんてとうの昔に理解している。それでもあふれ出す欲望に苦しんでいるのだ。どうする?どう答えれば良い?
私の顔は、短い間に様々な表情を見せていたに違いない。永遠にも感じる5分ほどを費やしながら、結局、私は大して気の利かない台詞をひねり出すのがやっとだった。
「済まない」一息入る。「君のためではない。私のために、それだけは止めてくれ」
その時、「彼」は何を思ったか。悲しげに笑いながら、「分かった」と言った。それは納得の笑いだったのか、絶望の笑いだったのか。私には分からない。
その後、彼が二度と店を訪ねることはなかった。一年ほどで店は経営難で潰れ、私も田舎に引きこもることになった。再びあの場所へ行くこともないだろう。それでも、今でも思い出すのだ。「彼」のあの悲しそうな笑い顔を。そしてまた、自分に問うことになる。あのとき、私はどう答えたら良かったのだろう。