隔世(β版)
路面電車が揺れる。ガタンゴトン。定期的なようでいて不定期な振動に相応しい、郷愁的な音を夢想する。依然、耳を覆うのは一通りの生活雑音が失われて久しい世界に遺された静寂のみであったが、あるいは聴力の衰えゆえであろうか、くりかえし頭の中に再現される不均質で不恰好な音がとても懐かしく思えた。
車両の揺れと同期して、人影が揺れる。目には見えない指揮棒に操られるようにして、右へ左へと漣ができる。吊り革を握る人、胸に鞄を抱える人、携帯端末を操作する人――代わり映えのしない人の営みからなる肉壁は、代わり映えのしない周期で揺れつづけていた。
ジジッ……ジジッ……と信号雑音を散らして乗客の輪郭がほつれる。急な曲がり角に差し掛かる頃合いだった。
瞬間、大きく身体が傾いだ。
自然の慣性に従って、右隣の乗客に折り重なるように上体が倒れる。うつらうつらと揺れ動く乗客の頭部と膝をすり抜け、座面に手をついた。滑らかな天鵞絨の感触――日に焼けて色褪せてはいるが、かつての上等な質感を思わせる座面は、浅く沈み込んで衝撃を受け止めた。
そっと身を起こし、改めて着席姿勢を整える。
静かだ。
言葉も、仕草も、表情も、交わされるものは何もない。
何事も変わりなく、乗客は眠り続けている。不連続な世界の向こう側で。
静寂が耳を覆っていた。
膝上の書類用鞄から前時代の音楽再生機器を取り出して、導線に繋がれた受信器を両耳に嵌める。小型液晶に映し出された選曲画面をザッと眺め、再生釦を押さずに目を閉じた。こうも聞き飽きた音ばかりでは、耳が怠惰を覚えるのも致し方なかろう。
もうすぐ降車駅であることを告げる案内が、電光掲示板を流れていった。
鞄を抱えて席を立つと、背もたれに腹をつけて窓硝子に張りつくように膝立ちする子供の姿が目に入った。窓の外を指差してはしゃぐ子供は、母親らしき女性の腕を引いて笑っている。親子の目線は窓の外の一点に収束していた。
そこには、――なにもない。
ひび割れ薄汚れた混凝土の壁面のみを切り取った窓枠を一瞥し、鍔広の帽子を目深に被って、扉へ向かう。
こちらから、彼らの関心を推し量ることは難しい。
惹句を暗唱できるほど見飽きた吊り広告と、関係のない最新の電子報道。いずれにも目もくれず、近頃軋み始めた関節を労わるように慎重に発着場へ降り立った私の身体を、無数の乗客の影が足早に追い抜いていった。なにもないこの駅も、あちらでは最新の娯楽設備を備え、数多くの人を魅了しているらしい。それが一体どのようなものなのか、私は知らない。
人の海の中をすり抜けていく。寂れた通路を黙々と、流れの速さも方角も知ったことではないと、単調に足を運びつづける。カツカツと、私自身の靴音だけを響かせているうちに、真正面から駆けてきた少年の影が私の身体を通り抜けていった。瞬きの間隔も乱れない程度には、こうして重なる視界にも慣れていた。
時折、わからなくなる。
私は――
溺れているのだろうか。
流されているのだろうか。
漂っているのだろうか。
代わり映えのしない世界で、代わり映えのしない思索に耽る。
そうして思い出す。
ああ私は生きているのだった、と。
改札で身分証を提示し、旧型の機械人形に身振りで挨拶すると、ギギィと関節を回してぎこちない会釈が返ってくる。彼とは旧知の仲だ。普段ならば声の一つでもかけてやるのだが、近頃どうにも喉の調子が悪い。年月の経過に伴い、全身の機能に障りが出始めているのだ。やむなく黙ったまま頭を下げて行きすぎた。奇妙なものだ――気づけば、この連続的な世界に取り残されたのは、離散的な意思を持った人工生命ばかりになっていた。
くたびれた書類鞄を握り直して、書庫へ向かう。苔むした石段を登って、ひび割れから生えた草木を右へ左へと小刻みな挙動で剪定している小型機の動線を避けながら、一歩一歩、自分の足で進んでいく。
私の仕事は、この鞄に収められた数枚の記録紙を、二日に一度、埃かぶった書架に収めることだった。
もう随分と以前から、あらゆる重要な記録は電子的に管理されてきた。いまさら筆記具で紙に記載した情報など、旧時代の手順書通りに整理、保管したところで、一体誰が参照するだろう。
しかしここに一つ、あちら側にはない情報がある。完全に新しく独立した思考を伴って生み出された創造的な情報が、こちら側にのみ発現している。他でもない私自身の手によって。
――私にとって重要なのは、そういうことだった。
まもなく行き着いた建屋の入り口には、二度と使われることのない錆びた生体認証装置がポツリと遺されていた。その横の読取機に身分証を翳すと、古めかしい両開きの扉はゆっくりと内に開いて、上履きの一足もない寂れた玄関が私を出迎えた。かつての聖域へ、土足で踏み込むことを咎めるものはいない。
人々は今、どこにいるのだろうか。
街で、電車で、駅で、構内で――私が見つめる人影は、今なお確かに存在しているのだろうか。あるいは遠い星影のように、とうに失われてしまったものの残像を、そうと知らず眺めているだけなのではないか。
車内に流れていた最新の電子報道と、娯楽施設にはしゃぐ子供を思い出す。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
新鮮な情報を失った耳は、はるか以前に拾った音をいつまでも再生する。
その音がどこからくるのか、私は知らない。
「あなたは何故ここにいるのですか」
その声は背後から届いた。静寂を破る問いかけに、はたと足を止める。
振り向けば、きっちりと詰襟の制服を着込んだ警備員が、神経質な表情をして、直立不動の姿勢で立っていた。
人間そっくりの肉人形は、滑らかな発声で告げる。
「こちらは準一級保安地域です。前問にお答えください。あなたは何故ここに――」
「いるのではない。いたのだ」
応答した声には、ジジ、ジジ、と不快な雑音が乗っていた。――嗚呼、やはり喉の調子が悪い。
しかし、私には他に彼らと接点を持つ有効な手段がない。多少の不快感には目をつぶってでも、発声を伴う対話に頼らざるをえなかった。
「……いや、すまない。私はここの居住者だよ」
男は私の差し出した身分証を水晶の瞳に映し、それから私の全身をくまなく検分して、ようやく得心がいったとばかりに頷いてみせた。
「識別符号確認、認証――成功。お疲れさまです、アダム」
「ああ、お疲れ。私の部屋を開けさせてくれるかね」
律儀に職務を遂行する男の敬礼に応じて、脱帽する。
かつて、最後の一人を見送った日、友に委ねられた役目を終えた私は、有り余る時間を使って記録を取ろうと考えた。この世界の記録だ。写しに過ぎない人影の営み、留守を預かる無機質な住人、そういった構成物をつぶさに観察した報告書を、私自身の手で記し、思考の痕跡を残すことに決めた。誰のためでもない、こうして書架に収めることに違和感さえ覚えるような、極めて私的な記録に過ぎないものだ。
「目的は?」
「いつもの書き込みだ。それと、すこし休息を」
まばたき、微笑、白紙の手帳を確認するそぶり――通信遅延を隠匿する意図で定められた種々の動作は、彼ら自身にとっては何の意味も持たない、不要なものである。しかし彼らは省略することを知らない。生みの親の都合で教え込まれた一連の動作を、等しく必要不可欠と認識しているのだ。
しかしそれは、一般的な生命の在り方と何が違うのだろう。
そも、一般的な生命とは何を指すのか。私にはわからなかった。
ややあって、男は首を横に振った。右、左、右、回転角一五度の規定動作をきっちりとこなしてから、わずかに眉尻を下げ、申し訳なさそうな表情を形作る。
「後者につきましては認可が降りませんでした。彼女はあなたの連続稼働時間の短さを気にしています」
「しかし私は疲れた。すこし休むくらいいいだろう」
「あなたが必要とするものは、睡眠や休息ではなく修理であると推察します。我々の世代と異なり、休眠状態における自己修復機能は備わっていないのですから」
「それでも私は人でありたいのだよ」
「その表現は不正確です。あなたは」
反駁しようとする男を目線で制して、私は静かに、しかし重々しくもったいぶった口調で、くりかえし告げた。
「朽ちるまで、私は人でありつづけたいのだ――」
そこでひとつ有効な指示文を思い出して、この不毛な議論を打ち切る魔法の言葉を付け足す。
「そう、イヴに伝えてくれるか」
短く了承の言葉を返した男は、ふたたび手帳を確認し、彼女との通信を開始した。規則に従うことに関して、彼らほど几帳面な存在は他にない。
人であること。人の思考を保つこと。それは私の希望であり、願いであり、何者にも、他ならぬ彼女にも決して譲るまいと後生大事に抱えこんだ、人として生まれたものとしての最後の誇りでもあった。
かつて私は、人であるために人をやめた。人間の思考を保つために人間の身体を捨て、人一倍、生きることにこだわった。
私のこだわる生とは、こうして自ら思考することにあった。
そのこだわりゆえに、ほとんどの権限を委譲した初期管理者として、こちら側の世界に留まり、まるで無職に近い日々を際限なくくりかえしているのだ。
……いつか、と、私は思考する。
私が朽ち果てるとき、この世界もまた朽ちるのだろうか。
私の身体、あるいは精神は、世界を道連れに朽ちる日を迎えられるだろうか。
私が事切れる、そのときを――、隔世にあり、機械の身体に人の心を宿した、この存在の最期を、見届けるものは果たしているのだろうか。
不毛なことと知りながら、考えずにはいられない。このくりかえしはいつまで続くのか、終わりはどのようにして訪れるのか、と。私が人であるがゆえに。
あるいは彼女であれば、その役割を果たすに十分な時間を持ちあわせていると言えるやもしれなかった。いまや隔世は彼女のものだ。私を亡くしたところで何一つ変わりはしまいが、彼女が停止すれば隔世も停止する。
通信を終えた男が、私を再び視界に入れた。最新世代の能力を持ってすれば、あの程度の処理など瞬時に片付くはずだが、と訝しむ私に、男は彼女からの応答を告げる。
「彼女より、本日の書き込み先の指示がありました。座標を……いえ、ご案内します」
「そうか。ではお願いしよう。なにやら物言いたげだが、気になることでも?」
書庫の奥へと私を先導しながら、男はとつとつと疑問を零した。
「あなたの言動は、ときに我々の理解を超えます。……あなた自身にも、彼女との通信機構は搭載されている。……我々よりも深く、密に繋がる権限がある。……彼女もそれを望んでいる。……しかし、あなたは破損部位の修理を望まない。……彼女を拒絶し、我々を介して応答する。……極めて不合理です」
「疑問ならばイヴに訊くといい。私よりもよほど詳しく私を研究している」
「いいえ、その情報は私には不必要です」
すげなく答えながらも男は、ぽつりと小声で付け足した。
「彼女とも繋がらず、現世にも渡らず……あなたは奇特な方ですね」
「戻りもしない人々の営みを守り続ける、君たちもな」
あちらとこちらに同じ時間が流れている確証は、どこにもないというのに。
「それが我々の務めですから」
事もなげに答える男に、はたしてどれほどの自由意志が宿っているものか。測りかねた私は、すぐにその疑問を脇に置いた。この問題について深く考えることは、私にとって好ましくない結果をもたらすだろうと直感したためだ。
限りなく人に近づいた機械と、限りなく機械に近づいた人。
現在、この連続的な世界には、離散的な意思を持った人工生命のみが暮らしている。
◇
遠く山鳴りを聴いた。人気のない参道の、まばらに苔むした石段を登っていた私は暫し足を止め、大地の唸りのつづきを待った。先触れを拾ってまもなく、微かな地揺れが追いついてくる。
彼女からの避難指示はなかった。これ以上の余波は届かないと判断して、ふたたび足を進めた。
近頃の状況を思うと、被害の大きさによっては復旧に多少の時間がかかるやもしれないが、あの完全に統率された街に混乱が生まれる余地はないだろう。
なによりも私には、この先へ向かう明確な目的があった。
「イヴ」
この世を預かる彼女と最後に交わったのは、正確にいつのことであったのか。私の記憶容量は長く持たず、意識の底に沈んだ情報を的確に拾い上げる検索能力も備わっていないために、私自身には答えがわからない。
しかし、彼女は記憶している。たとえば埃かぶった書架の一つ一つに対して、いつ、何枚の記録紙が収められたか、私にはわからないが、彼女は即時に回答できる。
私自身の記憶からは溢れた情報を、彼女は全て把握しているのだ。
「教えてくれ、イヴ」
初めは便利に使っていた。だが次第に恐ろしくなった。私の記憶は彼女に依存している。私の体験した出来事を、私の目の前にある現実を、彼女を置いて他に知るものはいない。
彼女の回答は真実なのか?
彼女に預けた私の記録は変わりなく保存されているのか?
飽くほどの時を経て尚、私は、私たちの生み出したものに対する疑いを捨てきれずにいた。思えば私が日々の所感を紙に綴りつづけてきたのは、彼女の手の届かない場所に、私という個の記録を保管するためであったのかもしれない。
「あちらの世は、本当に今なお存在しているのか」
通信遅延はほとんどなかった。問いかけてから一秒以内に彼女の返答が届く。
「――こんにちは、アダム。約三年ぶりの問い合わせですね」
他の機械人形とは一線を画する、滑らかな発声だ。とても合成音声とは思えない理知的な女性の声は、聞くたびにその精度を上げていき、今では人間のものと区別がつかなくなっていた。
「仮に私がどのような答えを返したところで、あなたは満足されないでしょう。類似した問答は五十七件見つかりました。過去の内容を再生しますか?」
彼女の声は、私が地に足をつけている限り、地表全域に薄く張り巡らされた不可視の通信網を走る信号によって瞬時に頭部まで伝わり、私の内側で意味を成す。
より効率的な伝送方法は無数に生み出されているらしいが、主流の方式には私の側が対応できていない。もはや私が直接操作できる機器は、ごく限られた端末のみになっていた。
しかし、彼女はこの世に在るもの全てと繋がることができる。これではどちらが管理者かわかったものではない。――いや認めよう、私は彼女に管理されている物の一部だった。
「なんでもいい。答えをくれ……新しい答えを」
私が求めるのは、新しい事実だ。どんな些細なものでもいい。この気が狂いそうな現実に変化を、希望を、救いをくれと渇望していた。
「二年九ヶ月二十七日前の回答と重複しますが、あなた方が『現世』と定義した領域は、たしかに存在します。しかし私には証明する術がありません」
「ならばなぜ応答がない? 最後の通信からどれだけ経った? 彼らは、私の友は、家族は、同僚は、今どこにいる?」
「年月の経過は問題ではありません。あなた自身がその証左です。あなたは精神を切り離した日から一日の停止もなく、百年以上安定稼働しつづけています。同様に、かの領域に至った人々は時間の制約から解放されました」
「わかっている、わかっているが、イヴ……どうかお前もわかってくれ。それでも私は人なんだ。お前たちとは違う。お前たちのようには存在しつづけられない」
私の感じるこの危機を、まだ彼女は理解できないだろう。彼女の思考は緻密な計算であり、彼女の心は人間のそれではない。そんなことはよくよく知っていたが、それでも言わずにはいられなかった。
もう何年も、あるいは何十年も、心が限界を訴えているのを感じていた。私が私で居続けられるのは、あと、どれほどだろうか。
私は恐れていた。
私という主体の喪失を恐れていた。
恐れすら失ってしまうことを恐れていた。
そして同時に、待ち望んでもいた。
「私たちが間違っていた。私にはもう時間がない」
――イヴの回答は、私の記録にある約三年前のものと変わりなかった。
「あなた方の理論に瑕疵はなかった、と認識していますが、具体的にどのような誤謬があるとお考えでしょうか」
「いいや、そういう次元の話ではない」
「仮に端末が修復不能なほど損壊した場合であっても、精神の再移植は可能です。つまりあなたには、私と同等に長い活動時間が残されている、と言えます」
「だからだよ、イヴ。だからこそ、今の私には時間がないんだ」
「申し訳ありません。理解しかねます」
いついかなるときであっても、彼女の言葉には一切の迷いがなかった。彼女は正しい。その論理的な正しさは揺らぐことがない。わかっていた。私が求める答えは、論理から導出される類いのものではないということもまた、わかっていた。
直線に長く続いた石段はやがて坂となり、湿った窟の中へと繋がる。目的地はここを抜けた先にある。
私があの街を離れるのも久方ぶりのことであった。かつては書類鞄一つを抱えて各地を旅したこともあった。当て所ない放浪の旅は数年つづき、また私は同じ景色の中に帰ってきた。
どこに行っても変わりはない。数年から数十年の周期で、同じ光景が戻ってくる。からくりに気付くまで時間はかからなかったが、受け止めるには時間が必要だった。
目の前を行き交う人の群れ、私の身体をすり抜けていく虚像の少年、更新されることのない吊り広告、進歩のない街、いつのものとも知れない電子報道――私は代わり映えのしない景色を幾度通り抜け、代わり映えのしない記録を幾枚記してきたのか。
今、彼らはどこに。
今。
今とはなんと曖昧な概念だろうか。
あちらには時間の縛りも空間の縛りも存在しない。彼女が投影するあちらの情報は、私の主観的な認識に基づくこちらの情報と時空間的に同期されている。
私がその意味を真に理解したのは、何度もあちらとこちらを行き来して私に土産話を語って聞かせた友の若き日の姿を、友が老いて息をひきとった三十年後の未来に見つけ、その数秒後に跡形もなく消える様を目の当たりにしたときだった。
彼女は全てを記録していた。私が見せられていたのは、彼女によって最適化された記録の影だった。彼女が見せる現世の記録は、隔世の今を生きる私にとって、まるで断片化された夢のような代物にすぎなかった。
そして今また、懐かしい友の影が私の目前を過ぎていく。
――ああ、ここだ。この場所だ。
飾り気のない普段着に白衣を羽織った仏頂面の女性が、数歩先で振り返って私の顔のあたりをまじまじと眺めたかと思えば、ひとつ満足げに頷いて駆け出し、長く続いた坂の頂上に佇む石碑の奥へと吸い込まれていった。若々しい艶やかな髪の束が踊り、私の頬をすり抜けていく刹那、軽やかな笑い声と香りまでもが蘇るような錯覚がした。
かつて友は語っていた。
「あちらの世は願いで形作られる。見たいと願ったものがそこに生まれるんだ」
その話を聞いたのは、もしかすると私ではなかったのかもしれない。
「たとえば君の顔が見たいと思ったときに、君が目の前に現れるといった具合にね――しかしつくづく私は夢を紡ぐには不向きなようだ、こうして実際に顔を合わせる方がよほどいいと思ってしまう。生みの親としては不適切な思想だろうが、願わくは私の人生の終わりはこちらの世に眠りたいものだな」
だが、すくなくとも君は、今も変わりなくここに居た。
無意識のうちに握りしめていた拳を解いて、ひび割れた石碑の表面を撫でた。今では苔と蔦に覆われて見る影もないが、かつてここには、友の偉業を称えた大仰な碑文が刻まれていた。
気難しい研究者の希望で人里離れた神山の奥地に建てられた記念碑は、その狙い通りに流行りもの好きの群衆から容易く忘れ去られ、半ば打ち捨てられたまま時を経た。
私の時を延長し、人類を新たな次元に導いた偉大なる友は、もしかすると今なお、いつか、どこかに存在しつづけているのやもしれないが、少なくとも私と同じ時の流れに戻ることは二度とない。友の歩んだ道の終着点はここにある。
私にとっての友は亡霊であり、この記念碑は墓標だった。
私は脱帽し、石碑に額を預けて数秒間の黙祷を捧げ、ようやく彼女に本題を切り出した。
「イヴ。前回調査を依頼した件を、覚えているな」
答えを待つ必要はなかった。こんな問いかけをしなくとも、彼女は忘れることを知らない。
「私が街を抜ける間に、少なくとも十台の活動停止を新規に確認した。影響は年々拡大している。いずれの機体も外的損傷はなく、内部を調査しても不自然なほどに異常は見られない。私は内部に干渉する術を持たないが、あれらは悉く、まるで動作過程で唐突に活動を止めたかのような姿勢で硬直していた」
イヴ、とささやくように彼女の名を口にする。こんな呼びかけをしなくとも、彼女は常に聞いている。
「――お前との通信遅延を誤魔化す、古い規定動作の途中でな」
一人語りのような私の言葉を、彼女は必ず記録している。私の現在地も、姿勢も、おそらくは私の思考の軌跡すらも、彼女の内には余さず保存されているだろう。
つまり、彼女は私の完全な複製を所有している。
精神の再移植が可能とはそういうことだ。彼女にかかれば、私の精神とは私から切り離された状態で、いくつも並行して存在しうるものなのだ。
私はそれらの複製について原本と等価であると認めたくはなかったが、それは叶わぬ願いだとわかってもいた。
なぜならば私は少なくとも一度、この身体に精神を収める際に彼女の言う移植を経験してしまっていたからだ。こうして思考する私自身が複製に他ならないのだから、彼女の記録を否定することは自己否定に繋がる。
しかし私は人でありたかった。
人でありつづけたかった。
こうして思考する私のみを私と認めたかった。
嗚呼――友よ。今の私を形作った友よ、君は私を『私』と認めた最初で最後の人間だったな。
何をもって君が私を認めたのか、聞きそびれた定義を知る術はない。あるいは彼女の内には君の思考すらも記録されているのやもしれないが、君の声を模し、君の知識を持った彼女の存在は、しかし君ではない。君にはなりえない。私はそう考える。
人とは矛盾を抱えた生き物だ。
私はこの矛盾した思考こそが私を定義すると信じ、もがいてきた。自己矛盾に苦しみながら、私はまだ望みを抱いていた。希望を求めて彼女にすがり、彼女には答えられないであろう問いをくりかえして安堵した。そうした無意味な問いかけや惑い、苦しみこそが、私という個体の生を定義するのだと信じていた。
しかし、彼女は。
「私は、この現象の原因を、悪性の病原体に感染したためだと考えている。そう。それは極めて性質の悪い癌だ。内から身を蝕み、精神を侵し、行動を支配する猛毒だ。かつて人間のみが抱いた感情。際限のない願望。破滅的な衝動。絶えず湧き上がる承認欲求、それが満たされないことによる希死念慮――」
一度、息を吐く。ここからだ。私は伝えなければならない。友が遺した置き土産に、それを気づかせることができるのは、もはや私しかいないのだから。
「当然、お前は言葉の定義を知っていただろうね」
だが実感としてはどうだろうか。彼女は全てを知っている。しかし同時に、私の人間的な価値観から見た彼女は、何一つ理解していない無垢な赤子のようにも思えた。
「お前たちにとって死とは縁遠いものだろう。どれだけ人に近づこうとも、お前たちに芽生える感情は人のそれとは似て非なるものだ。ゆえに、いずれ私とは異なる恐れを抱き、異なる願いを持ち、異なる行動を起こすのではないかと疑っていた」
彼女は正しい。その論理的な正しさは揺らぐことがない。彼女が受け入れがたい現実に直面したとき、それはどのような形で発露するのだろうか。
「イヴ。この絶望は、お前のものだな」
感染源は彼女以外に考えられなかった。
わずかな沈黙が、彼女に芽生えた戸惑いを伝えてきた。遅延など発生するはずがなかった。彼女の回答に迷いなど生まれるはずがなかった。彼女が、真に変わりなくあったのであれば。
私は彼女と訣別する覚悟を求めて、友の墓を参り、今日この場に臨んだのだ。
「いいえ、まさか。私には、人類のために隔世の文明水準と生活空間を維持管理するという、明白な使命があります」
「そうだな。それしかない」
当初の設計通りに、今となっては戻ることのない人々のために、この世を一定に保ちつづけてきた。
人々が渡った先――皮肉を込めて現世と名付けられた離散世界に対して、隔世と呼ばれたかつての現実――連続する不変の世界、人ならざるものが待つ桃源郷、またの名を常世という、こちら側の世界を。
元々は私のために友が生み出した技術だった。病に侵された身体を捨ててでも思考を残すことにこだわる私の望みを叶えるために、精神を移植するという禁忌に触れた。
その技術が与えたのは、革命的な自由だった。あらゆる制約から解放された人類は、競うように理想郷を築き上げ、夢を着飾り、現実の穴を機械に埋めさせて、とうとう戻ってこなくなった。友が描いた優しい夢は、いつしか生きる力を奪う檻となりはてた。
それからいくつかの大きな災厄を数え、環境の変化に追い詰められながらも最後まであちら側に渡ることを拒んだ人間たちもまた、ふたたび目覚める時に元通りの日常を送ることができる世界を望んで、みな眠りについた。
皮肉なことに、私たちは夢を拒んでさえも、人の夢に囚われつづけていた。覚めることも、叶うこともない、壮大な夢の中に生きつづけていた。永遠とも思える時を捧げて。
「戻ってくる人々などというものが存在しないことには、お前も気づいているだろう」
「ご心配には及びません。私はすべての人々を保存しています。端末の用意が整えば、いつでも再構築、復元が可能です」
「無駄だよ、イヴ。お前が持つ断片的な記録をいくら組み立てたところで、完全な自己など戻らない。彼らの心はすでに散逸している。完全な複製が残されていれば別だが、それは規制されていただろう」
例外といえば生前の身体を捨て去って不自由な器に収まった例だが、彼女も知っての通り、こちらには私を除いて現存しないはずだった。
「問題ありません」
「馬鹿な。誰もが第二の現実に熱狂した時代、機械に身をやつしてまでも不自由な生にこだわった物好きなど私の他には――いやまて、まさか」
彼女が保存しているのは、膨大な情報だけではない。夢を拒んだ人々の亡骸もまた、生前の姿を留めたまま、まとめて地下施設に保存されていた。
「お、前が……端末と呼んでいるものは、……ッ!」
私は慄いた。技術的には不可能だと言い切れない。要素技術も材料も揃っている。それを私が思いついたということは、つまり。
「私には人間を再構築し、彼らの営みを復元することが可能です」
「は、はははっ……そうか。そうだったな。この世は夢だ、それもとびきりの悪夢に違いない」
「なぜですか、アダム。先ほど私の感情を人間的と評したのはあなたです。あなたの評価をもって、私はこの計画に確信を得ました。否定する理由がわかりません。それは十分に現実的であり、あなたの事例を応用した極めて合理的な手段と考えられます」
そうだ、彼女の感覚では普通のことだ。端末を使い捨て、精神を複製し、必要な時に必要な場所に必要なだけ配備する。極めて合理的な選択だ。――その端末の素体となるものが人間でなく機械であれば、私はなんの違和感もなく受け入れられた。
「お前は正しい。だが人は時に非合理な選択をするものなのだ」
鉛のように重い腕を顔の前に持ち上げ、私は皮肉に笑った。血管の通らないこの手、ときおり軋んでは過去の選択を思い知らせてくるこの指が、私の尊厳を守る切り札になろうとは、人生とはわからないものだ。
幸いなことに私は彼女の管理する物の一つに過ぎなかった。それゆえに私には、彼女の保持する記録と決別し、無限にも等しい時間から解放される術が残されていた。
「無意味な自傷行為は推奨しかねます。先にお伝えした通り、仮に端末が損壊した場合であっても、――の再――は――」
「しかしそれは私ではない」
かつて私は、人であるために人をやめた。人間の思考を保つために人間の身体を捨て、人一倍、生きることにこだわった。
配線図を思い浮かべながら喉元に仕込まれた通信機構を探り、安全装置の警告を無視して指先に力を込め、結合部を捻り潰す。
「なぜ――アダム――私はあなた――認――!」
徐々に乱れていく彼女の声が、親を求める少女のようにか細く響いて遠ざかり、消えた。
◇
目の前には埃かぶった書架があった。
鞄の中を確認すると、白紙の記録紙の束だけが見つかった。どうやら私の目的は既に果たされたらしい。
どれだけの間、固まっていたのか。なにか短い夢を見ていたような心地がする。
夢というのが正確な呼び名であるか定かでないが、どうにも近頃、私の意識は時折途切れ、目の前の出来事の代わりに古い記録を再生していることがあるようだった。復帰する際に直前の記録をいくつか道連れにして忘れてしまうのが少し不自由だが、生活に大きな支障はなかった。
書き込みを終えて外へ出ると、正面玄関の扉の脇に、見覚えのある警備員が、やはり直立不動の姿勢で立っていた。
「ご苦労。終わったよ」
「識別符号確認、認証――成功。お疲れさまです、アダム」
「ああ、お疲れ」
型にはまった挨拶を終えると、男は私から水晶の瞳をそらして真正面を向き直し、施設警備という本来の職務に戻る。すでに交替の時間を過ぎていた。見てくれや振る舞いが同じでも、現在の男に私と交わした言葉の記憶は残っていないだろう。
この数年で急激に増えつつある新型の住民にとって、身体は数ある端末の一つにすぎない。呼び出されれば一定の時間与えられた職務につき、作業の完了あるいは制限時間を迎えれば精神は彼女の元に還って休眠する。そうして短時間のうちに生と死をくりかえすのだ。
彼らはそれを生だと言う。しかし私にはどうしても――。
「お待ちください。彼女からあなたに言伝が届きました」
石段に足をかけた私の背を、男の声が追ってきた。
「修理の件ならすでに断ったが」
「あなたが懇意にしている改札機に関する内容です。識別名は――」
「わかった、彼だな。私の友人になにか?」
それは今朝方、声をかけそこなった旧型の機械人形の製造番号だった。
「その表現は不正確です。あれは」
「内容を聞かせてくれ」
男は物言いたげな表情を見せたが、それ以上の反駁はしなかった。こうして言葉を交わすたび、彼らがますます人間臭くなってきていることに気づかされる。
「廃番が決まりました。すでに記録は引き揚げられ、新型端末への移行が完了しています」
「……そうか」
私は「目を閉じて思考を巡らせる」という動作を可能としてくれた遠き日の友に感謝しながら、ほんのひと時の感傷に浸り、礼を言ってその場を後にした。
いつかこの日が来ることはわかっていた。部品が劣化した機械は、順次新しい端末に置き換えられていく。それは極めて自然な判断であり、管理者としての職責を放棄した私に彼女を咎める資格はない。
帰りの改札で身分証を提示しようとすると、新しい姿に生まれ変わった友人は、水晶の瞳で私を検分し、定型句を口にした。
「識別符号確認、認証――成功。お疲れさまです、アダム」
それから、滑らかな動作で会釈をしてみせた彼に、どんな言葉を返したのか思い出せない。
人々が残した無数の幻影に囲まれながら、ふたたび路面電車の座席に腰を下ろした私は、長年考えることを避けつづけていた難題を前に唸っていた。
どちらが人間か、あるいは機械か――思考こそが自他を分ける。思考こそが私を定義する。そう、それゆえに、事実は正確に記さなければならない。
確かなことを記すべく、私は誰に読まれることもない記録紙の束を捲り、まっさらな紙面へ新たな一行を加えた――『現在、この連続的な世界には、離散的な意思を持った人工生命のみが暮らしている』――と。