64話:心の底に潜むもの。
寂々として物音一つ聞こえない夜である。
アセナはアスランのために造られた庭を一人そぞろ歩く。
庭園の紅葉した木々と冴え渡る月光がなんとも美しい。
(ほんとうに静かね)
アセナは地に落ちたカエデの葉を手に取った。
(外廷にいるというのに、まるで人の気配がしないわ。不思議ね)
ここは外廷の要である皇帝専用宮である。
パシャの政の中枢だ。
膨大な業務を捌くために昼夜問わず官僚や武官たちが詰め、さながら不夜城の如くの賑わいである。
が、広大な宮の更に奥まったこの庭園まではそのざわめきは届かない。
元々この宮は初代皇帝アスラン一世が俗世の煩わしさを一時でも忘れるために造らせた離宮であったという。
以降三百年、離宮は歴代の皇帝が自らの趣味に合うように手を加え、現在では離宮から外廷の中心と変容しながらも、広大な中庭は廃されることはなかった。
一人の人間がパシャという国を統べること、それは常人が考える以上に苛烈なことだということであろう。
当然今上帝であるアスランにも計り知れない重圧がかかっているはずだ。
(私がアスラン様に出来ることは何なのだろう)
常に心を悩ませていることだった。
皇后になる以上、慰みとしての役割だけでなく、国の支配者であり改革者という強烈な個性の隣に供に立てる強さを身に付けねばならない。
そして……。
サクサクと落ち葉を踏みしめる音が響き渡る。
音はアセナの側で止まった。
「誰かと思えばアセナか」
執務を終え私室へ戻る途中のアスランが笑みを浮かべ立っていた。
「アスラン様。……お帰りなさいませ」
アセナは夜目でも分かるほどに破顔する。姿を見るだけで心が躍ってしまうのはどうしようもない。
アスランは侍従を遠ざけ、
「もう夜も遅いというのに、こんなところで供も連れず何をしているんだ。リボルは? 侍女はどこへやったのだ」
随分冷たくなっているじゃないかとアセナの手のひらに触れた。
豆だらけの厚いアスランの手のひらからふわりとぬくもりが伝わってくる。
「リボルも侍女も休ませました。一人で散歩したくなったのです。こんなに月が綺麗な夜なのですもの。部屋に篭るのももったいないでしょう?」
アセナは両手でアスランの手を握りしめる。
「……というのは建前です。そうでも言わないと一人にしてくれませんから。本当はアスラン様をお待ちしておりました。あまりに素敵な夜なので一緒に過ごしたくて」
「月か」
アスランは空を見上げた。
沈もうとする上弦の月が西の空に煌く。
「夜の散歩も悪くないな。……だが長くは居られないぞ」
「お許しくださって、ありがとうございます。お心遣い嬉しいです」
二人だけのゆるりとした和やかな時が過ぎていく。
手を取り合い取り留めの無い話をするだけなのに、アセナは心の澱が解けていくのを感じる。
アセナはふと足を止めた。
「あら皇帝宮にも月下香が植えてあるのですね。気づきませんでした」
花は既に終わってしまい真っ直ぐに伸びた茎と葉のみの月下香が数多く植栽されている。
「月光香は帝室にとって特別な花だからな。ここだけでなく色々なところに植えられている。カルロッテの宮にもあっただろう?」
言われてみれば後宮・第三位皇妃宮の中庭でも大切に育てられていた。
カルロッテは北国出身だ。月下香は温暖な地方でしか育たない。
皇妃にゆかりのある花ではないのに中庭の最も良い場所で丁寧に育てられていたのを疑問に思っていたが、こういう意味があったのだ。
「重要な儀式で使われる香は月下香から作ると定められているほどに大切にされている」
「そういえば世祖祭でも用いられておりましたね」
「建国者アスラン一世の父王がお決めになられたらしい。側室であった賢帝の母マルヤム妃を悼んでな」
夏の夜に芳香を漂わせる白く可憐な花・月光香。
かつてウダ族に同じ名をもつ女性がいた。
パシャに亡ぼされし国クルテガの民でありウダの宝『太陽の子』であったその女性は、ウダ族の生存のために、自らの屈辱にまみれた人生を後世に伝えることを許さなかったという。
ゆえに歴史の闇に消えほんの僅かな記録しか伝えられることは無かった。
だが、三百年前の『太陽の子』は子孫たちの記録には残らずとも、パシャ帝室の奥深くに根付いているようだ。
「マルヤム様は今も生きているのですね」
亡ぼされた国の精神の象徴『太陽の子』が敵国の基幹に浸透し存在している。
三百年前、焼き落ち亡ぼされる祖国をなす術もなく見つめたクルテガの民は、想像もしなかっただろう。
勝者のなかで何百年も生き続けるのだ。
国が滅んだとしても魂は残る。
なんと皮肉なことか。
「お前は寝込んでいて見られなかったが、今年の花もとても美しかった」
花の盛りの頃、数多くの命が失われた。
暗殺未遂の当事者として花を愛でる余裕など無かったことを思い出し、アセナの胃がずんと重くなる。
「……左様でございましたか。残念です」
「来年見ればいい。子と一緒にな」
「では来年はアスラン様と私と子の三人で楽しみましょう」
「来年だけではない。再来年も、その次の年もだ」
アスランは月下香の風に揺れる葉を眺めながら言った。
この花を二人して毎年愛でることができるのならば。
なんと素晴らしいことだろう。
――そのためにやらなければならないことがある。
「アスラン様、お伝えしておかないとならないことがあります」
ウダへの療養の件を伝えねばならない。アスランは許可は下したものの心からは納得していないのは明白だった。
「里帰りのことです。昼間、スナイ隊長から警備計画の説明を受けました。ウダへの出発は本格的な冬の直前になりそうです。クルテガは冬が厳しいのでもう少し早い出発が理想でしたけど……アスラン様?」
アスランが複雑な表情で何か言いたげな眼差しをアセナに向けている。
(もしかして? もう……本当にこの方は……)
妬いているのだ。
サヤンに。
冷淡で有能な支配者と広く認められているアスランは、幼い頃から皇子として感情の制御を厳しく躾けられ腹心の部下の前以外では表に出すことは無い。
しかし政変後はアセナと二人だけになると感情を全く隠さなくなった。
こんなにも色々な感情と表情を持っているのかとアセナは驚き、そして意外なほどに嫉妬深く甘えたがりだということも知ることになった。
ただこのことは後宮の他の皇妃との間にはないアセナだけが知る今上帝の秘密である。
「何をお知りになりたいのかは分かりかねますが」
アセナは瞬きもせずにアスランの夜の闇よりも暗い瞳を見つめる。
「私が愛おしいのはこの世でアスラン様だけですよ。誰よりも何よりも愛おしく思っております」
読んでいただきありがとうございます。
ラストスパートに入りました。
もう少しで完結予定です(まだ書いていませんが(笑))
閑話つけるかどうか迷い中です。
不定期更新になりますが、最後まで是非読みに来てください!
皆様に多謝を。またお会いできることをいのって。
ムーンライトノベルズにスピンオフを書いています。
(※タイトル少し変更しました。「滅国の巫女は草原の覇者の腕の中で夢を見る。」 https://novel18.syosetu.com/n9540gf/)
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