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55話:生きるために。

「ねぇリボル」


 アセナは甲斐甲斐しく動き回るリボルを呼び止めた。


「何でございましょう、アセナ妃様。お茶でもお入れいたしましょうか?」


 手際よく茶器をそろえ、リボルは窓際で庭を眺めるアセナの横に炉を置いた。



 アセナがアスランの宮で静養を始めて数日がたち、幸いなことに毒による副作用も無く日々健康を取り戻しつつあった。


 この毒殺未遂とでもいうのか、この”宮中某案件”が落ち着くと同時に、あれだけ辛かった悪阻もすっかり消えてしまい、アセナの身体は倒れる前よりもずっと快調になっていた。


 だが体が落ち着くと色々と考えてしまうもので。


 ここ数日はある考えばかりが頭を占めていた。

 以前から考えていたことではあった。が、自らの中で否定し耐えられなくなるまでは口には出すまいと決めていたのだが。

 この事件を起因にして自らの中だけで留めておくことも難しいほどに大きくなっていたのだ。


「あのね、リボル。私、宮を出ようと思うんだけど」


 アセナは茶菓子を選ぶかのように軽く言い放った。

 リボルは炉にすえた釜に水を注ぐ手を止める。


「は? 外廷を、でございますか?」


 リボルにとって想定外のことだった。

 あまりの衝撃に柄杓を取り落としそうになりながら、リボルはアセナに問い返した。


「外廷を出て、内廷に、皇后宮にお戻りになりたいのですか?」

「ううん、違うの。宮廷を出て、クルテガのウダの郷に戻ろうかと」

「ええ?? ウダに?」


 アセナはリボルから柄杓を取り上げると自ら釜に水を入れる。


「……動けるうちに戻って向こうで子供を生もうかと思ってる」

「そんなことなりませんよ。何をおっしゃってるんですか」

「無理かな」

「無理に決まっております。第一、陛下がお許しにならないでしょう。アセナ様のお気持ちは分かりますが」

「そうだよねぇ」


 やはり無謀であったか。

 アセナは肩を落とした。



 以前から後宮を離れたいという気持ちはあった。

 ただの夢想であり現実味のない感情だった。


 けれど最近では実現できる事実として考えるようになっていた。


 これほどまでに強く願うようになった切欠の一つは、第一位皇妃ヤスミン・デミレルと第一皇子ファフリ・サイの薨去こうきょである。

 密やかにアスランの腹心カルネウスが第一位皇妃宮を訪問した後、ヤスミンは間を置かずして毒をあおり自らの命を断ったのだ。



 アセナはその事実を政務を終え部屋に戻って来たアスランから知らされた。

 何事も無かったかのように冷静に告げるアスランにアセナは思わず聞き返した。


「ヤスミン様が……自ら命をたたれたのですか?」

「そうだ。毒杯をあおってな」


 アセナがヤスミンと顔を合わせたのはほんの数回だ。


 だが美しく気高い上級貴族の女性そのもののヤスミンは強烈な印象をアセナに植え付けていた。

 ヤスミンは長い歴史と誇りで作り上げられたパシャの粋といっていい。アセナがどんなに努力してもたどり着けない存在であった。


 そしてアセナの目の前で冷静に皇妃の自死を告げるこの皇帝を、愛していた。

 皇帝の愛を皇后として立つ日をこの後宮の皇妃達の中で誰よりも望んでいたのだ……。


「お前に毒をもったのはヤスミンだ。情けはいらん」


 顔色を変えるアセナをアスランは抱き寄せた。


 ヤスミンはデミレル家の財を使い宮廷の薬師を買収し、御殿医の処方に手を加え気付かれぬように微量の毒を混ぜこんでいたのだという。


 何も知らないアセナは医師の処方であるからと疑問ももたずせっせと服用していたのだ。

 幸運なことに即効性のある毒ではなく、さらに強靭なウダの民であったので命を失うことはなかったが。


 意識が戻り顛末を聞かされたときは自らに向けられた憎悪の大きさに背筋が凍った。


(私はそれほど恨まれていたのね。ヤスミン様は誰よりも皇后位を望んでいらした。アスラン様のことも身を焦がすほど好いていらしたのは知っていたけれど……)


 嫉妬というものは恐ろしい。

 デミレル家であることを誇りに思っていたヤスミンでさえも狂わせてしまったのだろう。

 出自が卑しいアセナが未だ生きていることは奇跡とさえ思える。


 アスランはアセナを椅子に座らせた。


「次期皇后の殺害を企て何の咎もないというのはありえない。ヤスミンはデミレル家である上に、さらに死に値する罪を犯したのだ。処刑される前に自らその名誉を守ったのは賢明だった」


 確かに処刑による死よりも、自ら死す方が名を汚すことはないだろう。だが……。


「ヤスミン様は仕方のないことであったのかもしれませんが、ファフリ殿下は何の罪もなかったはずです。何故罰したのですか」


 ファフリは二つか三つになったばかりの幼子であったはずだ。


「ファフリ殿下はアスラン様の御子でしょう? 血の繋がった我が子ではありませんか。まだ幼児であったというのに、何も命を奪わなくても」


「……ファフリは俺の血だけを継いだものではない。デミレルの血を継いでいる。反逆者の血だ。例え俺の子であったとしても禍を残しておくわけにはいかん」

「そんな……」


 ウダの民にとって命は何よりも尊ばれるものだった。

 過酷な環境で生きることは、並大抵のことではなく、すぐに命は失われた。特に小さな子はウダの強い身体をもってしても簡単に死んでしまう。

 たとえ望まれない血筋であっても子は育み愛おしまなければならない。未来を紡ぐ大切な存在であるのだから。


「納得がいかないか、アセナ」


 アスランは気遣うような表情でアセナの頬に手をやる。


「申し訳ございません。未だ皇妃としての心得が不十分なのでしょうが……どうしてもアスラン様の御子ですから、ファフリ殿下だけでも救っていただきたかったと思ってしまいます」

「お前ならそう考えるだろうと思っていた。だがな、生かしておくわけにはいかなかった。ファフリが利用される可能性を残しておくことはできない」


 確かに皇帝としては正しい。政敵がつけこむ可能性は断っておかねばならない。

 アセナでも理解はできた。


 アセナもファフリがただ幼子であるというだけで同情しているのではなかった。


 ファフリの姿が未来の自分の子と被ったからだ。


 アセナは思う。

 自分の腹で育つこの小さな命も、皇帝であるアスランの意に反することがあれば、簡単に殺されてしまうのだろうと。


 母である自分が上手く乗り切らねば、この宮廷という化け物の巣食う世界では行きぬくことができない。

 けれどアセナにはその力はない。


 幼い頃から教育を受け、強大な家門を背負っていたヤスミンでさえも達せられなかったのだ。アスランの愛情に頼るしかない自分の不甲斐なさが身に染みる。






「だからね、一度、ここからはなれて自分を立て直したいと思って。皇妃とか寵姫とかではなくて、ただのアセナとして」


 強くならねばならない。

 何をもにも揺るがない柱を自分の中で育てないといけない。

 アスランの横に立つために自らの足で立つ力が欲しかった。


「リボルはアセナ様のお気持ちも分かります。まぁアセナ様がお決めになられたことですからね。反対はいたしませんよ」


 ぶくぶくとあわ立ち始めた釜をリボルはしばらく眺め、


「ただ陛下のご説得はかなり厳しいと思いますがね。最近の陛下はアセナ様を常に視線に入れておかないと気がすまないご様子ですからね」

「……そうね。あの方心配性だものね」


 外廷に移ってきてからのアスランの溺愛ぶりを思い浮かべ、お互いに顔を見合わせて苦笑したのだった。

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