52話:夢か現か。
今回もすこし長めです。
「ここは、どこ?」
アセナは体を起こし、周囲を見渡した。
先ほどまでアスランの寝室にいたはずだったというのに。
ここがどこであるかは見当もつかなかった。
濃い霧がかかり自らの足先すら見えない。
どこまで続くのか、狭いのか広いのかすら分からない視界全てが白い空間である。
「どこなの?……リボル? リボルはいないの?」
アセナはリボルを呼んだ。
リボルは自分専属の侍従宦官だ。常に側に控え、中年太りの太鼓腹を揺らしながらあれこれ世話を焼いてくれる。
けれど、返事はない。
「リボルいないのね。うーん、困ったな」
アセナは気を落ち着かせようと大きく息を吸った。
「あれ?」
森の匂いがする。
白粉でも香水のむせ返るような香りでもない。
なつかしい森の匂いだ。
杉や桧の清涼感のある針葉樹の香りと下草の匂いに、かすかに花の香りも混じっている。この花の香り、どこかで嗅ぎ覚えがある。
何の花だったか。
あぁそうだ。
ウダの郷で春先に咲くあの白く小さな花の香りだ。
「ここは後宮ではないのね」
アセナは懐かしい香をしばらく愉しむと、ここに留まることは得策ではないと立ち上がり歩き始めた。
不思議なことに最近いつも感じていた身体の重だるさもなく、妊娠する前のように軽く軽快だった。
身体を動かすのに労を使わない。何と快適なのだろう。
「ここから出なきゃ。出口どこかな」
こんなところでゆっくりしてはいられないのだ。
戻らないといけない。
あの後宮へ。
閉塞感と重圧しかない息苦しい後宮だが、いまのアセナにとって唯一の居場所である。
自分がいないことに気付いて、皆が心配しているだろう。
アスラン、いやダイヴァにリボル、ヘダーヤト先生にエリテル将軍。……カルロッテ様。それにサヤン。
懐かしいウダの家族。
家族……。
そういえばウダの家族は元気に過ごしているのだろうか。
もう5年近くも会っていなかった。
入内した時に今までの人生は忘れるようにといわれ、あえて考えないようにしてきた。
全く環境の違う世界で生きることは簡単ではなく苦労の連続だった。日々をすごすので精一杯であったのだ。
それでよかった。
それでよかったのだ。
郷を懐かしんだところで、どうにもならない。自分は家族が一年飢えずに済むだけの金で売られた身。自由などない。
遠くから家族を案じ、無事を祈りつつ仕送りをすることができるだけでも幸せなのだから。
(でも会いたいな。一目だけでも会いたい)
子を産み落ち着いたら里帰りを許してもらおう。
アスランは、いいえダイヴァならきっと許してくださるだろう。
「あ!」
アセナは声を上げた。
前方に光差す場がある。
出口かもしれない。
アセナは考えるより先に駆け出していた。
閃光が走る。
眩しさにアセナは思わず瞳を閉じた。
そして次に瞳を開けたとき、アセナは薄暗い室内にいた。
煤で汚れた漆喰の壁に土間の薄暗く狭い部屋だった。
あまり裕福ではない庶民の家なのだろう。
家具らしい家具はなく、食卓と椅子、そしてところどころが綻んだ寝具が部屋の隅においてあるだけだ。
アセナは瞳を見開き下唇をかんだ。
低い天井の梁から下げられた干した猪肉の塊に、背負子、ザルと鎌。
部屋の中ほどの炉辺でパチパチと爆ぜる薪。
揺らぐ炎の上に夕餉用にかけられた鍋から肉の煮える食欲をそそる匂いがする。
(ここは……)
見覚えのある光景だ。
違う。見覚えのあるどころじゃない。
忘れるはずがないじゃないか。
(ウダの郷の私の家……)
未だ飢饉に襲われる前の、生活ができていたころの郷の家だった。
幸せな時代の、何も知らない子供の頃の郷の家だ。
(夢、なのかな。それでもいい)
もう一度見たかったあの景色だ。
アセナが感傷に浸っていると、若い男女が部屋に入ってきた。
背に山ほどの柴を積んだ夫とみられる男と、臨月にちかいのか大きくせり出した腹をかかえた妻であろう女だった。
二人とも厳しい生活と環境のためか肌は焼け深い皺が刻まれ、指先は節くれだっている。過酷な労働に耐えて生きているのかを物語っていた。
黒い髪と碧い瞳をした夫婦はそれぞれの荷を置くと、炉辺の周りに腰をかけた。
アセナの頬に涙が伝う。
懐かしい顔だった。
記憶よりもずいぶん若いが間違いない。
「父さん。母さん」
アセナは二人に駆け寄った。
だが二人は気付く様子はない。
何度話しかけてもダメだった。
どうやらアセナの姿は二人には見えないようだ。
若い女――アセナの母は『ふぅ』と息をつきながら荷物を下ろすと、夫であるアセナの父の隣に腰を下ろした。
「それで今日アセナを長老にみていただいたのでしょう? どうだったの?」
父は柴を炉辺にくべる。
「アセナは『太陽の子』であるらしい。それもここ百年は生まれてこなかった完璧な『太陽の子』だと」
「あら。アセナが? いいんじゃないの。めでたいじゃない」
母は本当に嬉しそうに笑った。
「俺は違っていて欲しいと思ってた。子供のうちは色変わりしても大人になれば落ち着く子もいる。アセナもそうであって欲しいと思っていたんだ。……なぁ今の世に『太陽の子』であることが幸せと思うか?」
「……そんなことわかんないわ。歴代の『太陽の子』とは違って幸せな人生を送ることができるかもしれないじゃない。それにアセナはまだ十にもなっていないのよ。自分で未来を切り拓く事だって不可能じゃない年よ」
「そうはいってもなぁ」
アセナの父は部屋の隅から素焼きの壷を持ってくると、中に入っている濁酒を欠けた茶碗に注ぎ一気にあおる。
「俺は畑を耕すくらいしか能がない。ウダの誇りである『太陽の子』のあの子を、成人するまでにきちんと育て上げることができるかどうか」
「郷で生きるのだから、大丈夫よ。皆が助けてくれるでしょう。どうしても心配なら、早めにお嫁に出しましょう。郷長のところのサヤンなら喜んでもらってくれるわよ。あの二人は気が合うみたいだし。何とかなるわよ」
「お前は気楽だなぁ」
「定まったことを悩んでも仕方ないでしょう? もうすぐ四人目の子も生まれるのよ」
母は大きな腹をやさしくさすった。
「アセナならどんな環境でも生きていけるわよ。あの子は強いわ。だって神の祝福を受けた子だもの」
失われた神の祝福。
それは呪いではないの?
のど元まであがった言葉をアセナは飲み込んだ。
父や母が望んだことは恨みに身を任せることじゃない。前を向き運命に抗い自分で人生を拓くことだ。
「うん、そうだね。私は生きないといけないのね」
アセナはふと戻らなくてはと思った。
あの場所に戻らなくては。
あの人のところに。
(なんだろう。この香り)
アセナは鼻をひく突かせる。
今度は乳香の匂いがする。穏やかでとても落ち着く。
香りだけではない。
どこかから木々のざわめきや小鳥のさえずりがする。
「アセナ妃様!」
誰かが呼んでいる。聞き覚えのある男とも女とも判明しない甲高い声……。
「リ……ボル?」
「アセナ妃様。お気づきになられましたか!」
アセナはゆっくりと瞼を開けた。
いつもの顔が消耗しきった様子で寝台を覗き込んでいる。リボルだ。
「良かった! お目覚めになられた! ヘダーヤト様をお呼びいたします」
アセナはリボルを呼び止めた。
唾液もわかないくらいにひどく喉が渇いている。
「のどが……かわい……」
「はい。すぐにお持ちいたしますよ」
そそくさと太鼓腹を揺らしてリボルが寝台から離れていくのを視界の隅で確認し、アセナはもう一度瞼を閉じた。
あれが何だったのかは、分からなかった。
夢だったのか、走馬灯だったのか。
何だって良い。
帰ってきたのだ。この世界に。
読んでいただきありがとうございます!
今回もまたしても3000字……。
削って2話にとも思ったのですが1話でいくことにしました。
すこし長めですが愉しんでいただけたらな!と思います。
ブクマ・沢山のPVありがとうございます。
いつもいつも励まされています!
ムーンライトノベルズにスピンオフを書いています。
ムーンライトということでR18含むお話です(「きみに光を~。」は念のためのR15ですwR15じゃなくてもいいくらいですが)
このお話でも出てきているマルヤムとアスランのご先祖様パシャの最後の王のお話です。
過激ではありませんがちょっと性的なエピソードもあります。大丈夫な方は読みに行ってみてくださいね。
(※タイトルは「碧玉の乙女は草原の覇者の腕の中で夢を見る。」です)
不定期更新になりますが、次回も是非読みに来てください!
皆様に多謝を。またお会いできることをいのって。
↓よろしければ、こちらもどうぞ。
[連載中]
ゆるゆるご都合異世界恋愛物語です。
「前世から人生やりなおします!」
https://ncode.syosetu.com/n6147gb/
[完結済]
ただひたすら幼馴染が主人公を愛でるお話です。
「アイのある人生は異世界で。」
https://ncode.syosetu.com/n1461ft/




