45話:真名。
あの奇跡のような一日。
ダイヴァという青年と出会えたあの麗らかな春の日は、アセナにとって大切な思い出であった。
けれど、十年という年月は残酷だ。
ところどころ忘却の彼方へ消え去ろうとしている。
ウダの郷を離れ数年がたち、目まぐるしく変化する環境において、光を授けてくれた人の顔すらも薄れてきていたのだ。
今、はっきりと蘇った。
――ダイヴァはアスランなのだ。
あの頃よりもさらに精悍に貫禄を兼ね備えて、あの青年ダイヴァはこうしてアセナの前に現れた。
アセナの碧い瞳から一筋流れ落ちる。
「なぜ……。なぜ今までおっしゃらなかったのですか?」
アスランは儀式の手を止め、するりと歩み寄るとアセナの頬に伝う涙をぬぐった。
「十年前、お前はほんの子供だった。幼すぎて覚えておらぬだろうと思っていたんだ。子供のころの記憶はなかなか残らない。それでももしも記憶に残っていたとしたら、いつかアセナ自身が俺にたどり着くだろうと、な」
柔らかな春の日差しと未だ冷たい冬のような空気のなか、先帝の皇子アスランは薄汚い身なりの貧しい子供と出合った。
生きることに必死なやせ細った女児は、厳しい現状にありながら抑えきれない好奇心でいっぱいの視線を、真っ直ぐに自分にむけた。
この世のものとも思えぬ輝く瞳は、アスランの胸中を見透かしたように射抜く。
光を受けて色を変え、若草色であったり青色であったり、宝石のように美しかった。
それが伝説に謳われるウダ族の宝、『太陽の子』であると、アスランは直ぐに気付いた。
だが、どうしたということだ。
この子供はいつ飢え死してもおかしくない状態ではないか?
『太陽の子』は帝室で庇護されるべき存在でなければならない。
それなのに何故。
『太陽の子』だけではない。
かつて隆盛を極めたウダ族、パシャにとって最大の難敵であったクルテガのすべてが飢えている。
誰かがこうなる様に欺いたのか。
若きアスランは身体が震えるほどの怒りを感じた。
この現状を作り上げた帝室に、そして今まで安穏と守られ気付かないでいた自分に。
「帝位をと藻掻いていた頃、叩きのめされるたびにお前の瞳が思い浮かんだ。お前たちの様な者のために成し遂げねばならないと、何度も助けられた」
飢えた民を救わねばならない。
その一心でアスランは修羅の道を歩みぬく力を得、志を遂げたのだ。
「俺にとって何物にも変えがたいお前が後宮に居たことは、本当に僥倖だった」
「何をおっしゃいます。アスラン様こそ私にとっての恩人でございます」
アセナはうつむき、十年もの想いを搾り出すかのようにようよう声を出した。
「私は……私はアスラン様に生きる希望をいただきました。アスラン様からいただいたご恩があまりに大きく、それなのに私はあまりに無力です。どうご恩に報いればよいのか答えがでません」
「前にも言ったが……」
アスランはアセナを抱き寄せ、
「俺の望みはお前が隣にいることだ。恩を思うなら側にいればいい」
アセナの背中に回した腕に力を込めた。
「俺はこのパシャという国を、根本から作りかえるつもりだ」
三百年の間に溜まった膿を出し切り、新たに構築する。新しいパシャの象徴として門閥貴族と血縁のないアセナの存在が必要なのだと、一片の迷いも無いかのごとく言い放った。
「大改革を成し遂げた賢帝にあやかり『太陽の子』である私が陛下の妃として立つことに、意味があるということですね」
かつてのパシャ王の妃、そして賢帝の母『太陽の子』月下香のように。
偉大な賢帝アスラン一世のことは、アセナのような学のない辺境の民ですら知っている。パシャ軍に先祖を虐殺されたウダの民の間でも、その名は伝えられていた。
それほどの偉大な皇帝である。
直系の子孫達にとっては神に近い地位であろう。
実際に連綿と受け継がれてきたこの儀式が、賢帝の存在の大きさを物語っている。
「アセナ、これで納得したか?」
アスランはアセナから身を放し、祭壇に据えられた酒瓶を手に取る。
慎重な手つきで杯に注ぐとレリーフの足元に置いた。
強いアルコールとかすかな花のにおいが漂う。
しばらくすると次第に花の香りが強くなり、周囲を包み込むまでになった。
どこか懐かしい。
(どこで嗅いだのかな……)
アセナは記憶をたどる。
同じ匂いをかいだことがあった。
(そうだ。カルロッテ様の宮の中庭に多く植栽されていた花とおなじ香り)
“夜勤”の時にリボルと中庭で詩を読み、字を学んだ頃に嗅いだ香りだ。
花の名は、そう。
夏の盛りに月の下で咲き甘くどこか扇情的な香りを放つ……月下香。
(貴女の存在はパシャに深く根付いている。ウダの郷から消され忘れさられた貴女が、この国の支配者の根底に生きている……)
何百年も前に失った魂がすぐそこに在るような、奇跡のような感覚だった。
「アスラン様、私はマルヤムになれるのでしょうか?」
「マルヤムにならなくてもいい」
アスランはレリーフを正面に見据えたまま、言葉を続ける。
「お前はアセナであればいいんだ。皇帝アスラン・パッシャールの妃としてだけでなく、ただのダイヴァとしてもお前が必要だ」
「アスラン様……」
「アスラン・ダイヴァが俺の真名だ。母が付けてくれた名だが、父も母も身罷った今、それを知っているのは俺とお前だけだ」
アセナは目を見開いた。
アスランの言葉の意味は……。
「真名を私に……それは……」
真名は秘匿するものであり公にするものではない。
古より呪術や占術が、人々の行いの大きな部分を占めていたパシャにおいて、人の名は媒体として用いられた。
祝うことにも呪うことにも、真名は必要不可欠なのである。
神聖であり、不可侵。
つまり人の真の名はその人物の全てであり、他人に教えるということはその者に魂を捧げるということだ。
アスランは動けないアセナをそのままに、祭壇の前にひれ伏し仕来り通りの作法で拝礼する。
三度同じ事を繰り返すと、すくっと立ち上がり、まるで悪巧みを企む子供のような笑顔を浮かべた。
「俺はお前のものだ、ということだ。アセナ」
読んでいただきありがとうございます!
腹黒アスランにしては頑張りました(・∀・)
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次回も是非読みに来てくださいね!
(更新は週二回 木or金、日の予定です)
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