38話:ヤスミンの詭計。
後宮の第一位皇妃宮は訪問者もなく閑散としていた。
皇后にアセナが付くことが非公式ながら公表され、ヤスミンの存在意義が急激に下落したのはほんの数日前のことである。
パシャ国内での最高位貴族出の皇妃、しかも男児を産んだヤスミンは皇后位に一番近いといわれていた。
権威にあやかろうとヤスミンの前には宦官や女官が長蛇の列を成していたというのに。
第一位皇妃の宮へご機嫌窺いに来る者もほとんどいない。
(何と儚いものよ)
ヤスミンは煙管から立ち上る紫煙に想いをめぐらせた。
(我がデミレル家も落魄れたものじゃ)
かつて忠臣の名をあげるならば、数ある名門貴族を差し置いて筆頭に上がったのがデミレル家の名であった。
名門中の名門、忠臣中の忠臣であり権勢を誇っていた。
なにせ、パシャが未だ王国であった頃、この大陸の小国であったころから王に仕え国に尽くしてきた家門である。
一時はその名を聞いただけで、民は道をあけ貴族は跪いたものだ。
だが、長きに渡る太平の世においてはどんなに高い志があろうとも腐っていくもの。
デミレル家も同じであった。
庶民の出でありながら高い志を持ちパシャ王国の最後の王とパシャの初代皇帝に重用された天才政治家ケマル・デミレルを祖とするデミレル家。
初代以降、各代の皇帝に重用され重職を務めてきた。
しかし秀才といわれる人材を輩出してはいたもの、全てにおいてケマルには遠く及ばなかった。
代を重ねるごとに皇帝の寵も薄れて行き名門ではあるが故の葛藤に苛まれていた頃に、初代のケマルを思わせる人材が生まれた。
それがヤスミンの父であった。
ヤスミンの父は稀にみる優秀な人材で自らの家門一族には甘い面もあったが基本的には清廉な性格もあり、先の皇帝からは深い信頼を得ていた。
久方ぶりに筆頭宰相に任じられたとデミレル家門は沸いたものだ。
デミレル家としての名に恥じぬ父は、しかし、ある日突然あっけなく病を得て死んでしまった。
その父の跡を継いだヤスミンの兄は、三百年の淀みを一身に受けたかのような無能で尊大な典型的な貴族そのものであった。
政変を起こし即位した新皇帝アスランはヤスミンの兄のその人格を嫌っていた。
むしろ嫌悪していたといっても良い。
アスランは即位して直ぐに第一位の皇妃の兄とは思えない閑職に追いやり、デミレル家閥族もまた徐々に政権の中軸から遠ざけられた。
そして四年。
デミレル家は今は未だ、三百年で築き上げた礎でかろうじて立っている。
が、このままでは近いうちに没落してゆくだろう。
だからこそ、ヤスミンが産んだ皇子ファフリが帝位につかねばならない。
ヤスミンの皇后への道が閉ざされた今、デミレル家を救うのはその方法しかない。
ファフリはデミレル家の唯一の希望だ。
否、未来そのものなのだ。
であるのに……!
(アセナが孕んだかもしれぬだと?)
まだ陽ものぼらぬ時分に密かに届けられた報せに、ヤスミンは絶望に苛まれた。
(未だ陛下の耳には入っておらぬというが、もう一刻の余裕はない)
ヤスミンは報の書かれた紙を握りつぶした。
(腹の子が男であればファフリは陛下からの関心を失ってしまう。今以上に帝位から遠くなるではないか。あぁ忌々しい)
凱旋式において軽やかに笑うアセナはヤスミンから見ても可憐で美しかった。
辺境の民ウダ族の娘。卑しい出自だが帝室で重んじられる『太陽の子』。
そしてなによりも。
アスランの愛情を只一人与えられているという事実。
ヤスミンが望み願い縋るまでしたのに手に入れられなかったそれを、何の苦労もなく手に入れ、さらに皇后にまで駆け上がろうとしている。
(口惜しい。許せぬ)
ヤスミンは煙管を大理石の床に叩きつける。
カラカラと音を立てながら煙管は壁にぶつかり、金属の甲高い音を立てて動きを止めた。
(だがな、お前の権勢などこれまでじゃ)
もうすぐ……もうすぐ自分の想いを叶えられるのだ。
儚い人生だったと恨むがいいとヤスミンは呪詛を吐いた。
「ヤスミン様、それ以上はお控えくださいませ」
背後から諌める声がする。
「どこで誰が聞いているかも分かりませぬゆえ」
肩を上下させ怒りに震えるヤスミンは無表情のまま振り返った。やせぎすの侍従宦官ホムルズが床にひれ伏している。
「ああ。ホムルズか。心配するでない。この宮に妾に叛く者などどこにいようか」
すこし落ち着きを取り戻し、ヤスミンは大げさな仕草で長椅子にゆるりと座る。
「して何用じゃ」
「ご報告に参りました。ヤスミン様がお命じになられたいつぞやの件、ご指示通り準備ができました。お時間がかかりまして申し訳ございません」
「おぉそうか。ようやった」
ヤスミンはにやりと微笑んだ。
「……そういえばお前の兄は独立して店主になりたいと申しておったな。南部の商都に良い土地がある。そちらで商いでもしたらどうじゃ。お前も宮中を辞しても安穏な隠居生活ができるよう手配してやろうではないか。安気にしておればよい」
「何と……!ありがたき幸せでございます。感謝申し上げます」
「忘れるでないぞえ。但し成してこそじゃ。失敗は許さぬ」
「はっ」
ホムルズが丁寧に一礼し退出すると、再び静寂が訪れた。
第一位皇妃の宮に異様に静かな時間が流れ始めた。
(これでよいのじゃ)
ヤスミンは迷いを払うかのように立ち上がり、御簾の内側へ歩を進めた。
全ては……
デミレル家と我が子ファフリのためなのだから。
読んでいただきありがとうございます!
いつもは木曜日更新の予定が一日遅れてしまいました。
なんとか無事更新できました。
ヤスミンは何かしら謀を巡らしていましたが、実はずいぶん前から進めていました。
名門生まれも大変なようです。
ブックマークとても嬉しいです。
よろしければ次回も読みに来てくださいね。
「前世から人生やりなおします!」も更新しています。
疲れたときとかに何も考えずに楽しく読める異世界転生物語をめざしています。
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