19話:ヤスミンの陰鬱な思い。
「……この宮に何の用だ?」
アスランは足元に蹲るヤスミンに高圧的で体温を感じさせない声で問いただした。
その瞳にさげすみと怒りが入り混じった光を宿し、周囲の者は苛烈さに立ちすくむ。
只一人ヤスミンだけを除いて。
第一位皇妃は満面に喜色を湛え、
「この宮の新しい主殿と新しい皇妃に挨拶に参りました。まさかここで珍しい御方とお会いできるとは思いませんでしたが。この雨も吉兆だったということでございましょうね」
ねっとりと嫌味をこめて言った。
夫であり息子の父親であるアスランと直々に顔を合わせるのは二月ぶりだった。
変わらない夫の凛々しく精悍な姿にときめきも覚える。が、その喜びを覆すほどの腹の底からふつふつとわきあがる強烈な感情に身を囚われていた。
(私には決して許されぬというのに。何故、あの蛮族の娘には未だ伽もなしに御心をお許しになられるのじゃ)
賤民出身皇妃との睦まじい様子はヤスミンをその感情――激しい嫉妬に浸らせるには充分であった。
「ヤスミン。お前のその傲慢さは目に余る」
「何とおかしなことをおっしゃられますか。陛下や私と下賎の民とでは口を利くことすら許されぬ格の差がございます。どれほど時が過ぎようが変わることはありませぬ。ゆえにそれ相応の対応をとったまでのこと」
「……聞く耳を持たぬか」
アスランはもう何の興味もない表情でヤスミンを一瞥する。
アセナの額に口付けし「先約が片付くまで向こうへ行っておく」と言い残すと、窓際に置かれた背もたれと肘掛のない寝椅子へ移動した。
アセナは小さく息を吐く。
「ヤスミン様、おかけください」
まるで女王のように横柄に微笑むとヤスミンは長椅子の向かい側に単座した。
パシャの数百年にわたる伝統で作り上げられた矜持とでもいうのか。
ヤスミンは積み上げられ磨かれた美の結晶、パシャの貴族文化の象徴といってもいい。
しかし同時に澱のように醜悪なものも層になる。
深く冥い塊がヤスミンの底に蠢いているのをアセナは感じていた。
(怖い……この方……)
緊張と上級貴族の物言わぬ圧でアセナは次の言葉が継げない。
「お待たせいたしました」
様子を伺っていたリボルが絶妙のタイミングでテーブルに茶碗を置いた。
茶碗には澄んだ薄緑の液体が満ち、香ばしい茶と薬草の混ざった独特の香りがたちのぼる。
「何ぞ、これは」
ヤスミンは茶碗をこわごわ持ち上げ、一口含むと顔をゆがませた。
「……このような物を第三位皇妃の宮では供されるのか」
「御口にお合いになりませんでしたか? クルテガ皇領から献上された品なのですが」
アセナは自らの分を一気に半分ほど飲んだ。クルテガのあの山岳地帯で育まれた強さを感じる野生的な味である。
痛んでいた胃に優しく染み渡り気力がわいて来る。
「独特の風味がありますから、好みが分かれます。別のものをお持ちいたしましょう。リボル用意なさい」
アセナは後ろに控えていたリボルに指示し、
「慣れてしまえばとても美味しいのですが。特に体を温める効果が高いので今の季節にはちょうど良いのです」
「薬効が高いとはいえ、あの味は……。クルテガはあのような茶を常用しておるのか?」
茶とも言えぬが、とヤスミンは嫌悪感を隠さない。
上流貴族の洗練された食生活ではありえない味なのだろう。
「いいえ。この茶の茶葉は切り立った岩場に生える茶木からわずかに採られるもので大変高価な品です。クルテガでも富裕な者しか嗜む事はできません。私もこちらに来て初めていただきました」
「ウダの民であったな、おぬし」
ヤスミンは不躾な視線をアセナに浴びせた。
北の辺境に住む少数民族ウダ。パシャに併合され今では険しい山地にわずかに暮らすのみであるが、かつては隆盛を極めクルテガ地域全域に居住し支配していたという。
パシャ人とは異なり男女問わず端整な顔立ちに黒い髪、そして『ウダの碧玉』と称えられる碧い瞳は都においても高名だ。
目の前の娘もウダの特徴を引き継いでいた。黒い髪に整った容姿。そして碧い瞳。
しかも不思議なことにその瞳は光により色変わりする。
(もしやこやつ……)
ヤスミンはふと思い出した。
まだ入内する前のことだ。亡き父から聞かされたことがある。帝室で重用される瞳の色が変化する“先祖がえり”という者がいることを。
「その眼で魅惑したのじゃな、陛下を。何も知らぬ風でさすがウダじゃ。男を手玉に取る術は心得ているとみえる。貧民は生きるために何でもするとは真のようじゃのぅ」
「ヤスミン様、そのような事は!」
アセナは声を荒げた。
「ご訂正くださいませ。私を貶めるのはまだしも、ウダの民を悪しくおっしゃるのは容認できかねます」
「この私に口答えをするというのか? 蛮族が逆らうではないわ。たかだか“先祖がえり”如きで陛下の御寵愛を得たと驕り、さらには皇妃を望むとは。身のほどを弁えよ、アセナ」
ヤスミンは目を細め、
「皇妃を辞退いたせ。今ここで」
「何をおっしゃって……」
アセナは声を失った。
学もなく育ちの悪い自分が皇妃になるなど相応しくないというのは重々承知している。
自分の望みは無位として平穏無事に過ごすことだ。この状況も自ら希望したわけではない。
が、この後宮の主の意向に否と言うことなどできるはずもない。この国の民で皇帝の意に背く者が存在していようか。
「私が皇妃に相応しくない……そのような事、自分でも分かっております。けれども辞するなども出来かねます」
「これほど言うても分からぬのか。ウダの小娘。賢いところもあるのではと思うておったが、幻だったようじゃのぅ」
ヤスミンは自らの侍従宦官を呼び、煙草の準備をさせる。優美な手つきで煙管を持ち上げ、ゆるゆると紫煙をくゆらせた。
「陛下にはもう御子がいらっしゃる。次期皇太子は我が子ファフリじゃ。そなたが皇妃になる意味もない。お手が付く前に去れと申しておるのじゃ」
「それを決めるのはヤスミン様ではございません」
アセナは語尾を強め言った。
「陛下が辞せよとおっしゃるまで決して辞しません。五人目の皇妃は私ですから」
読んでいただきありがとうございます!
PVとブックマークうれしいです。
挫けそうになるたびに眺めてがんばってますw
女の舌戦回でした。
アセナsageな感じでしたが、最後はリボルが大喜びする感じになりました。
この後きっとアセナにケーキを出したりしそうです。
年末ちょっと忙しくて予定通りに更新できていません。
すみません。
年内はあと数回更新できたらなぁと思ってます。
またお会いできることを祈って。