17話:手放さない。
「ねぇリボル、ちょっと」
アセナは小声で侍従宦官であるリボルを呼ぶと、腕を掴んで足早に部屋の隅へ移動した。声を潜めて問いただす。
「今日いらっしゃるのってヤスミン第一位皇妃様だよね?」
「はい。ヤスミン皇妃様でございます」
今朝方、第一位皇妃の宮から使いがあり来訪の予告があったのは確かだ。こちらの予定を無視して午後の二時に面会指定があった。
「なんでヤスミン様でなくて……」
アセナはちらりと部屋の中央に目をやった。
アスランが座り心地の良いヘマント様式の長椅子に寝そべり寛いでいる。
「陛下がいらしてるの?」
「何故でしょう? 今日の来宮のご連絡、外廷からはいただいておりません。リボルにはわかりかねます」
前触れなしで後宮を訪れるなどは通例ではありえないはずだった。
ほんの数分前のことである。
ヤスミンの来室予告時間ちょうどに来訪者があり、静々とリボルが戸を開けるとするりと無遠慮に入ってきたのが……この後宮の主であった。
アセナとリボルはアスランの姿に冷や汗をかいた。
第一位皇妃に弱味を握られないように細心の注意と準備を以って迎えられるように、朝から全力で行っていた準備が終わった頃合であったので、結果的に問題なく皇帝を迎え入れることが出来たのだが。あやうく不測の事態も起こりえる状況に陥るところで間にあった。
連絡なしの渡りというのは迎え入れるほうには大変な負担である。事前連絡は必須だ。
リボルは首をかしげながらも、ポンと手を叩き、中年太りなのかホルモン不足ゆえの肥満なのか大きく育った腹をぶるると揺らした。
「でもそれだけアセナ様にお会いになりたかったという事でしょう。五人の皇妃で一番の御寵愛を賜っていらっしゃる。めでたいことではありませんか」
「わぁ前向きねぇ。あんたのそういうところ嫌いじゃないよ」
どんなときでも変わらないリボルである。
「おい、そこの宦官と妃よ。聞こえてるぞ。後宮の主が前触れもなく訪れるくらい許されると思うがな? そうだろう? アセナ」
「左様でございます。陛下の御心のままになされば良いと思います。ただ振り回される警備の者が不憫です。またいらっしゃる時はぜひしきたり通りにお知らせくださいませ」
窓のある壁際に深い疲労と困惑を隠さないシャヒーンともう一人の武官が控えている。
アスランが移動するならば、例え予定外でも後宮でもどこにでも同行せねばならない。上級武官に属する彼らは処理しなければならない案件も多く抱えているはずだ。それを放ってアスランのわがままにつき合わされているのだろう。
予定のない渡りは周りにとって不都合だらけである。
「努力しよう」
そうは言ったもののさして反省した様子もない。
アスランは身を起こすと手招きをしてアセナを隣に座らせた。黒い瞳の下に、うっすらと隈が出来ている。
「ずいぶんお疲れのようですね。最近ヘダーヤト先生の講義にもおみえになられなかったのも御政務のご都合ですか?」
「あぁ。山のように仕事がある。裁可しても裁可しても終わらないというのはこういうことかと身に染みた」
長く息を吐き目を閉じると、アスランは長椅子の背もたれに身を預けた。
「……ヴィレットブレードと戦が始まる」
「存じております。早く終わらせてくださいませ」
戦は国土も民も疲弊させる。あらゆる試みを以ってして避けるべき事象だ。それでも戦に突入してしまうのはその国の指導者と上層部の失態といえる。
「俺が至らなかった故のこの事態だ。早期終結にむけて最大限の力をつくす」
「陛下……」
アスランは口元に意地悪な笑みを浮かべ、アセナの唇をなぞった。
「呼び方がちがうだろう?」
「……アスラン様」
あの身分を隠してのお忍び時だけかと思っていたが、どうも違うらしい。アセナは羞恥で顔を赤らめた。
「アスラン様でもその様に思われることもあるのですね」
「……俺を何だと思っている? 悩みもすれば失敗も多くする只の凡人だ」
絶大な権力を握りながらも苦悩に身を浸すこともあるのかとアセナは意外に思った。この国の支配者はその完璧な外見から分からない苦しみを多く抱いているのかもしれない。
アセナはリボルに茶の用意をするように指示し、
「御出陣なされなくともよいのですか? 皇帝が出向くだけでも戦局は変わりましょうに」
「俺が都を離れて最前線に出るのは国が滅びる時か、乾坤一擲の勝負のみだ。皇帝が戦場に出ねばならぬ状況に陥る方が問題だろう?」
(陛下が出陣しなくても良いくらいの局地的な紛争で治まる程度なのね。よかった)
アセナは胸をなでおろした。
北の国との国境線はウダの郷のあるクルテガ皇領とも近い。あの貧しい地域で戦が起これば、一気に荒廃し人々は流民と化してしまう。厳しい環境で生きている辺境の人々には災厄でしかない。
「それに総大将はエリテルだ。あれは希代の戦上手ゆえ、民まで被害が届かぬうちに早急に終わらせてくれるはずだ。戦後処理もなかなかに上手い。任せておいて間違いない」
「閣下が……」
あの商家で一度だけであった自分の後見人であり養父、そして黒豹のような幼馴染サヤン。
二人ともアセナにとってかけがえの無い人である。無事に任務を終え五体満足での帰還を心の底から祈った。
アセナの神妙な面持ちにアスランは片方の眉を上げる。
「あのウダの男……名はサヤンだったか。あれも出征しているはずだ。気になるか?」
「十五歳まで一緒に育った幼馴染ですので。同じウダの民としては心配です」
『ウダの碧玉』に例えられる碧眼の若者。静寂につつまれた庭園で月光を浴び不遜な眼差しを皇帝であるアスランに向けたあの青年。
強靭でしなやかな肉体と精神を兼ね備えた姿はアスランに強烈な印象を与えた。
「あれは面白い男だ。武の腕もあるし頭もきれる。将に相応しい才覚を持っている」
アスランはアセナの顎に手を伸ばし、
「サヤンは武勲を上げた褒美としてお前の下賜を望んでいるらしいぞ」
「私をですか?」
「まぁやらんがな。他の無位なら考えんでもないが、お前はダメだ。例えサヤンが英雄となり下賜を望んだとしても、な」
と甘くこの上ない極上の笑みを浮かべたのだった。
読んでいただきありがとうございます!
17話目の更新です。
PV・ブクマ、本当に励みにしています。
久しぶりにちょっぴり甘かったです!
ジャンルを一応異世界恋愛にしているのですが、ヒューマンドラマの方がいいのか悩みます。
恋愛ちょっぴり風味ならジャンル変更もありですかね?!
次回更新は、明後日。隔日更新でがんばります!
またお会いできることを祈って。