神の腕
それは嫌な音だった。
「“劣等以下、アストロメアの面汚し、穢らわしい娘、邪魔だ邪魔だ邪魔だ!!”」
滅茶苦茶なアクセント、叫び散らす大声。
「っ……ん!」
じんじんと響く低音。
人のものとは思えない声に、エイプリルは両目を閉じて耐えた。
恐怖と共に、白霧を押し返そうと炎の勢いが増す。熱風に三つ編みが吹き上げられて、息も出来ずに歯を食いしばった。
瞼の裏は赤く、焦げた臭いが鼻腔入る。
エイプリルは必死に、白霧に取り込まれた僅かな自分の魔力を追った。何もしないよりはマシだ。自分の方へ霧を引き寄せて、再び勢いを弱めたい。
だが、猛烈な熱に囲まれていた。
霧は確かに炎を弱めるけれど、自分の所までは届かない。
(これ以上は……っ!)
息が出来ない。
熱さに、声にならない悲鳴を上げる。
耐えられないーー!!
「よくやった」
ぽつり。
くぐもった声が、すぐ横に。
「……!」
エイプリルは目を見開いた。
目の前には、誰かの手が翳されている。
真っ黒い革の手袋。左手の指に、透明な指輪。
「〈守れ〉!」
急に、息が楽になる。
熱風が消え、炎が離れた。
何か、見えない壁のようなものに守られている。
「おいで」
背後から腕を回され、腰を引かれた。
力なくその相手の体に寄りかかると、体の位置をズラして、その人はエイプリルを背後へと回した。
「レイ」
「任せて!」
へたり込んだ所に、あの女性が駆け寄ってくる。
「過呼吸」
「了解、落ち着かせるわ。重度の怪我はなさそうね? 移動するから捕まって!」
女性はエイプリルを抱き抱えるようにして、ゆっくりと移動しはじめた。
黒い手が離れる。それを目で追うと、朦朧とした意識の先で裾の長い黒服が翻った。
何もかもが黒い背中。
炎に照らされて、顔の下半分を覆うマスクが浮かび上がる。
(あの人だ……)
悪魔学部のフェミニスト。
黒マスクをした、気遣い上手の変わり者。
「さぁ、もう大丈夫よ」
女性の声と共に、彼女が差し出した術石が光り出す。
「〈凪〉……。ゆっくり、息を繰り返して。力を抜いて良いわ、心配しないで……ね?」
エイプリルはその言葉の通りに、目を閉じ、眠るように呼吸を繰り返した。
酸欠の所為か、周りの音が水の中のように聞こえる。
「レイチェル!」
「あら? 早いわね、ルド」
「サロンで緊急を受け取ったんだ、なんだ、この炎は!?」
「お静かに! 少し様子をみましょ、貴方達を呼んだのは念のため。ナハトは?」
「あいつは青年部代表で壮年部の会議だ」
「ヒューは出張?」
「当分戻らない」
「なら、この場は任せるしかないわね」
あの恐ろしい高笑いが聞こえる。
大図書館に反響し、何かを忙しなく叫んでいる。
「気違いめ、投獄は免れんぞ……! この場に火を放つとはっ!」
「……正常とは思えない。専攻生さん? あれは悪魔憑きかしら」
「だったら頭から熊に食わせてやる!」
自身の鼓動が落ち着いてきて、エイプリルは女性と話す相手の声に思い当たった。
確か、悪魔学部の地下階段で聞いた。
(……「派手ピアス」)
黒マスクが、確かそう呟いていた。
「だが、違う。悪魔憑きにしては程度が低い! 炎を使う割に、被害も少ないようだしな」
「それは多分、このお嬢さんのおかげよ?」
「は?」
「この子、聖書を使ったの」
レイチェルと呼ばれた女性が、優しく頭を撫でてくる。
「今時そんな古風なこと、思いつく魔術師はいないわ。聖魔相殺、十歳で習ったきりだもの。魔術師でないからこその、的確な対処法だわ」
「どうりで魔力が抜ける気がすると……いや、待て。見間違い出なければ、その女……!」
「食堂の妖精さん」
エイプリルは朧気に思った。
(なに、その恥ずかしい呼び名……)
まさか、共通認識ではなかろうが。
「ディースがファンなの。おかげでほら……ここ数年見ない、あのヤル気の出し様よ」
二人の若い魔術師は共に、黒い後ろ姿へ目をやった。
派手ピアスの方が、微妙なため息をつく。
「あの女好き……」
「上級魔術師の実力、たまには見させて貰いましょ」
エイプリルは瞼を上げた。
(上級魔術師……?)
幾分かクリアになった視界で、影が動いた。
青年の前で、男は奇妙に首を倒した。
「“……? 堅い壁だ、目障りだ!!”」
歪んだ表情、人間らしさの欠如した動向、仕草、雰囲気。
青年は目を細めた。
「ギャハ! “もっと、燃えろ!!”」
「…………」
ごう、と炎が渦巻いた。
透明な壁は動じない。
広がろうとする火は、たゆたう白霧に押しとどめられている。だが、この霧はそう長持ちしない。発動した術者が離れたからだ。
状況を確かめた。炎の位置、男の様子、魔術の呼応、魔力の質。
青年は、黒服の合間から何かを取り出した。
カチン、と音がして、現れた刃。ナイフだ。
「〈名乗る、我は姿無き代弁者にして代行者〉……起きろ、小さな処刑者」
ぼう。
黒い影の固まりが、そのナイフを覆い込む。
「“!”」
青年がナイフを構えた。
足下を揺らいでいた影が、急に広がり、色濃くなって行く。
男は見た。
彼の周囲に広がる影が、笑った。
「“まさか!?”」
黒い姿が駆けだした。同じ速度で、影が走る。
薄れた白霧と炎の中を、一息に距離が詰まる。
とん、と軽い足音。
ナイフが一閃。赤い火を反射して、光が横切った。
次の瞬間。
男の目の前に、影の顎が迫った。
「“ゥ……ァア、アアアアア!?”」
さん、と風切り音がした。
男は自身の上半身が、影に喰われたのを感じた。
「やっぱり……」
くぐもった声が、冷淡に響く。
「悪魔じゃない」
炎が消えた。
すべて跡形もなく、赤いものは消え去った。
「“ーー燃えろ!”」
男は腕を振り下ろしたが、空虚を裂いただけだった。
「“燃えろ、燃えろ、燃えろぉおおお!!”」
何も起こらない。
狂った怒号だけが繰り返される。
哀れな男に、青年は片目を眇めた。
「“貴様……この贖宥者めが!!”」
「ん?」
「“ええい、消えろ、消えろ! 悪魔に口付け跪け!! 汚れた神の腕、腐った正道の殉教者!!”」
男は体をぐねぐねと揺らしながら叫び続けた。
狂った罵倒を口にして、次々と意味の分からないことを並べる。
「“我らの願いは叶ったのだ! 貴様ではない、我らの! 我らのだ!!”」
青年は静かに、その言葉を聞いていた。
駆けつけてくる職員や魔術師。男の異様な様子に、他の者達は青ざめていた。
「補佐官!」
彼をそう呼ぶ声がした。
少し離れた所に集まった面々へ「近づくな」と手のひらを見せる。
青年はナイフを傾け、男を少しずつ本棚の端へ追いつめた。
「“来るな、来るな!!”」
青年の行動は淡々としていた。まるで、決まった手順で作業をこなすかのように。
男はばたばたと転がるように逃げ回る。
とん! 軽い物音で、足下にナイフが突き刺さった。
「“!!”」
「捕えろ、処刑者」
影が再び立ち上がり、大きな顎を開いた。
「“来るなぁあああ!!”」
ガチン!
ギロチンでも落ちたかという音と共に、男は痙攣した。
白目を剥いて、泡を吹きだし、卒倒する。
どさり、横たわった体を見下ろした。
青年は沈黙する。
暫く辺りを見回し、そして頷く。
金属音。
ナイフの刃を仕舞い、ローブの中へ。
彼の手のひらから武器が消えたのを見て、レイチェルが声をあげた。
「対象の連行を! 第七牢所に空きがあるはず。念のため拘束して運んでちょうだい!」
「はい!」
応えて動き出したのは、およそ若い魔術師たちだった。
倒れた男に駆け寄り、縛り上げていく。
すれ違いに、青年がこちらへと足を向けた。
「検証はこのまま青年部が受け持ちます。アルファルド、任せても良いかしら?」
「そのくらいさせろ。見物だけなぞ味気ない」
「職員は残って、被害の確認を! 現場近くに居合わせた魔術師は、聴取に協力をお願いします! 第二小講堂を使えるわね? 聴取は私と補佐官が担当します。それ以外の者は、真っ直ぐ帰宅! 以上!」
了解、と共に、大きな歓声が上がった。
もう安全だと分かって、皆ほっとしたのだ。けが人の治療や、現場検証がすぐさま始められる。
「ディース」
青年が戻ってきた。
彼は瞬きだけで応じる。
「これだけの騒ぎよ、今夜にも老年部から調査員が派遣されるわ。簡潔な聴取だけ取って、すぐに報告書を提出しましょう」
「ん」
「聴取は私がやっとくから、それを元に報告書は貴方が作成・提出ね」
「え。俺?」
「聴取も現場検証も、二時間もすれば終わるでしょ? 私それ以上は付き合えないわ。他にやることあるもの。あと、ルドはそれ以上放って置くと人間関係でトラブル勃発の危険性ね。ナハトが当分来ないんじゃ、イリニのフォローも期待できないし」
「元々しない」
「不機嫌の矛先が分散できるって意味。あなたに時間をあげるから、最初の数分だけ付き合って。あとはよろしく」
「面倒」
「だーめーよ! 貴方は当事者だし、周りからの信用があるの。一番早く仕事が終わる方法を選ぶわ。貴方以外の全員が、早く就寝できるように」
「えー」
「どうせナハトに頼まれた本を運ぶくらいしか用はないでしょ? たまには仕事らしいこともしてください、補佐官さん。 それに! 怖い思いをして頑張ってくれたお嬢さんを、最初に事情聴取して家まで送り届けるのも、貴方の仕事の内よ?」
はた、と。青年は停止した。
レイチェルは意味深に微笑む。
「こんな好機、なかなかないでしょ?」
こっそり耳元で囁いた途端、彼は勢いよく頷いた。