黒マスクと派手ピアス
うわんうわんと木霊する地下空間。
エイプリルは鉄の理性で、トレイだけは落とさなかった。仰天した拍子に尻餅をついて、後ろの階段にぶつかったのだ。背中は角に直撃し、じりぎりと痛い。そして冷たい。
「こ、こここ、ここここっ!?」
「……ココ」
まるで鶏の鳴き声のようだ、と突っ込む者はいなかった。
「『統計学科』」
淡々とした口調。
くぐもって違和感のある声。
ここが地下であるおかげで聞き取れるが、もはや囁きの域である。
「う、え、あ……?」
ドッドッド! 心臓が飛び出しそうだ。
いきなり暗闇から声をかけられたら無理もない。
加えて、そこにいる人物は、はたして本当に人物なのかもよく分からなかった。
その人は、黒かった。
何がというか、全てが闇にとけ込んでいた。
辛うじて僅かな肌の色と、淡い色彩の目だけが、保温術石の明かりで判別できた。まるで夜の中に顔の半分だけが、浮かんでいるような状態だ。
「く、なん……、マスク……っ?」
「ん」
その、上半分の顔が、コクンと頷いた。
下半分はそう、何故か黒いマスクに覆われていた。
シルエットからするに、その人物は何かフードのようなものを被っている。全身も黒い服で、これは魔術師たちのよくあるものだろう。問題は顔だ。マスクで半分隠れている上に、うねる前髪で殆ど見えない。
戦々恐々の少女には、驚くなとは無理な話だ。
「大丈夫?」
「うぇ」
ゆるゆると顔が降りてくる。その場にしゃがんでいるらしい。
目がスイっと動いて、また頷く。
「出前、誰?」
明かりに近づいた為、彼の手らしいものが浮かび上がった。
トレイの紅茶を指さしている。
「あ、えっと」
頭が真っ白だ。
どもって思い出せないでいると、今度は上から声が降ってきた。
「ーー 喧しい! 何か問題か、マスク野郎!」
ハッとして見上げると、すぐ上の通路から階段を見下ろす顔があった。
こちらは顔の形と、暗いが恐らくブロンドの頭髪が判別できた。
チャリン、と揺れたのはアクセサリだろうか。
「…………派手ピアス」
ぼそり。
恐らく、本来は彼本人にしか聞こえない呟きが、エイプリルの耳に届いてしまった。
(罵倒……?)
それとも事実を口にしただけか、いやまさか。
感情の読めない、何一つ変わらない様子で、彼はフルフルと首を振った。
「ふん。なんだ? その如何にも部外者というガキは」
今度は首を傾げる。分からない、というジェスチャーのようだ。
「チッ。そこの娘、用がないなら今すぐ帰れ! ここは聖霊塔の崇高な研究室だ、踏み荒らすな!」
なんて言い様だろう。
内容はともかく、彼のその言い方は、明らかな敵意と見下しがあった。
初対面の相手に対し、そんな傲岸な態度をする人間を、エイプリルは他に見たことがなかった。怒りや怖いという感情よりも、ショックの方が大きい。唖然とした。
「ひっど〜い! ルド様ったら、いじわるぅ!」
「!」
そこに更に現れた声。
階下からだ。
反射的に階段の下をのぞき込むと、そこにも顔。髪は、赤みを帯びて見える。
「きゃはは! 久しぶりにイイ悲鳴が聞こえたから、思わず出て来ちゃったよぉ。ねぇねぇ、どうしたの? 何しに来たの? 面白いこと? それとも怖いこと?」
(なんだあの人……)
つい、心の中で突っ込んだ。
「狂人は失せろ、出てくるな!」
「お偉い様は、命令すれば誰でも言うことを聞いてくれると思ってるのかなー? ここをお城じゃないよぉ? 勘違いしてるのはソッチの方じゃなーい?」
「なんだと?」
ドスの聞いた声が降ってきて、からかうような笑い声が沸いてくる。
目の前の黒マスクは、ふうと溜息をついた。
「あ、あの」
そこでようやく正気を取り戻したエイプリルは、声を上げた。
「製菓長からの、おつかいです……! シルーロス教補にメモを貰って、届けにきました……」
「あれ? あの人まだ生きてたんだ〜!」
どういう意味だ。
「勝手に殺すな、阿呆!」
「だってもう三年くらい見てないしぃ」
「マスク! 連れて行け、案内だけだ!」
黒マスクは、肩を竦めたように見えた。
立ち上がり、通路の方へ歩いてゆく。
「おいで」
その一言で、エイプリルは後を追った。
背後では階段越しの罵り合いが続いていたし、騒音に苦情か、妙な物音まで響きだしていた。
ガシャン、ゴトン、ガシャ……ン!
「…………?」
しーん。
急に音が消えて、思わず振り返った。
「ナハト、キレたかな」
と、前をゆく黒い固まりが呟いた。
エイプリルは困惑したが、最初の怖いばかりの時よりはマシだった。
少なくとも、話の出来る人間に出会えただけでも良かった。
「仲は、悪くない」
「へ?」
「良くないだけで」
それは、誰と誰のことなのか。それとも全員のことなのか。
「部外者が苦手」
「は、はぁ……」
「魔術師は、変なの多いから」
貴方もですよね、とは言えない。
(なんでマスクして、いや、なんでマスクが黒いんだろう……)
素朴な疑問が浮かんできた。
聞いてもいいだろうか。
「ごめんね?」
「!」
その人は、肩越しに振り返って言った。
目は、まるで飼い犬が主人の様子を伺うような、邪気のないもの。
視線は高く、身長はけっこう高いようだ。見上げているにも関わらず、威圧感はない。
顔が隠れていて年齢は分からないが、全身が闇に紛れている怪しさを除けば、悪い人ではなさそうだ。
「……お気になさらず……」
呆気にとられて、そんな言葉をこぼしていた。
目が細まる。
微笑んだようだ。
「俺は、部屋に入れない」
とか言いながら、彼はある部屋の前に立ち止まると、間髪入れずノックした。
「えっ? あ、あの!」
「大丈夫、生きてる」
(そうじゃなくて、心の準備が……!)
訴える暇もなく、間延びしきった返事と同時、その部屋の扉は開かれた。
「じゃ」
「う、ちょ、ひあっ!?」
くるんと回され、背中をぐいっと押される。
中に、入る。
背後で扉は閉められて、有無を言わせぬ沈黙が押し寄せた。
「っ〜〜!」
(良い人かもなんて、思い違い!)
少なくとも年下の女の子を、未知の部屋に押し込めるなんて。
製菓長と一緒に並べて、頭の中でキックした。
「ーー 誰?」
エイプリルは顔を上げ、息を吸って姿勢を正した。
「失礼します! 製菓担当員の、エイプリル・アストラーナです。製菓長からの指示で、ご注文の品をお持ちしました!」
「あぁ、それは何とも素敵な話……」
薄暗い部屋だった。
何かがキラキラしているような、だけど不格好な室内だ。
輝いているのは、自分が持つ術石の明かり。それは反射だ。恐らく、部屋の中には無数の鏡が置かれている。
反射して広がる明かりの中で、何度か似た光景を見たことがある。即ち、本に埋もれた魔術師の部屋。いや、もはや人間より、本のための部屋と言わんばかりの占有量である。
「甘いシュトーレン?」
「はい」
「薫り高い紅茶?」
「は、はい」
「砂糖いっぱい?」
「山盛りの、角砂糖を」
「うっふ。嬉しいなぁ……」
ぞくり。
さっきの黒マスクとはまた別の意味で、囁くような、違和感のある声だった。
(はっきり言って……幽霊と話してるみたい……)
人の姿は確認出来ていた。有り難いことに、白いシャツを来ている。部屋の中央で、何かを床に書いているらしい。
「可愛らしいウエイトレスだ。はじめまして? ロードン・シルーロスと申します」
「はじめ、まして」
「怖かった?」
「とっても!」
「あぁ、申し訳ない。ここから動けないもので。暗くて分かりづらいだろうに」
「案内をして頂きましたから、なんとか」
何故動けないのか、とか、そういう業務に関わりそうなことは、何となく避けた。
エイプリルは足下に気をつけながら、近づいていった。
「ウチの魔術師?」
トレイを置く場所を探していると、シルーロスは疑問符を上げた。
「ここの魔術師は、あまり他者に関わらないけど」
「そう、聞きました。えっと……黒、マスクの方に」
黒い人、と言いそうになって、ここでは誰もが黒衣服なので止めた。的確なのは、やはりマスクだろう。
「あぁ……道理でね。二人分の足音がしたのに、入ってこないわけだ」
「?」
「外で待ってるさ。君を送っていく気だろう。彼はフェミニスト」
そうだろうか。
何も言えずに、ひとまずトレイを置いた。
「返却は?」
「いつでも」
「どうも有り難う」
「またのご利用をお待ちしております」
笑顔を残して、エイプリルは扉の方へと戻っていった。
「ーーん? 待った」
「はい?」
「エイプリルさん、君、今いくつ?」
突然の質問に、面食らう。
「十五歳です。なにか?」
「十五……じゃあ『古美術小路』の『貴婦人』にいた子?」
エイプリルは驚いた。
「はい」
「いや、ちょっと縁があったなぁって。それだけ。でも……そう、何か困った事があったら来るといい」
「え?」
どういう意味だろう。
目を瞬いていると、白シャツの魔術師は細長い輪郭に笑みを浮かべた。
「私は『貴婦人』のファンなんだ。君はもう働いているのだね? 感心感心。それだけさ」
「ファン、ですか……! それは、ありがとうございます!」
「今もやってる?」
「はい、もちろん。開店と閉店はいつも手伝ってますし、おばあちゃんも元気です!」
「よかった。また行きたいなぁ」
また来てください、そういうと、彼は嬉しそうに頷いた。
「気をつけて、お帰り」
退出の礼をして、エイプリルは扉を開けた。
外に出て、扉を閉める。と、明かりが何もないことに気がついた。
「あ」
目は暗さに慣れていたが、とても心許ない。
これと行って灯りもなしに、ここの魔術師たちはどうやって生活しているのだろう。
「こっち」
「ーーはい」
声がした。
シルーロス教補が言ったように、彼は少し離れたところで待っていた。
足音についていく。
黙々と歩き、エイプリルもこれと言って話しかける内容がなかった。
やがて階段に出て、そこはまた冷たくて静かな場所になっていた。そして、たまによく分からない音がするのも同じ。
足音は階段を上りだした。
「あの!」
「?」
「ここまでで大丈夫です」
最後まで付き合わせては申し訳ないと、そう言った。
黒マスクはまじまじとこちらを見て、それから、ニコリと笑った。
「ついでだから」
「ついで……?」
「甘いの、食べたい」
そのまま歩き出す。
エイプリルは慌てて追って行って、また彼の後ろを歩いた。
「…………」
シルーロスの言葉が頭を過ぎる。彼はフェミニストだと。
(優しいんだ)
部屋に入らなかったのには理由がある、ようにも言っていたし。無理矢理押し込められたのは、そういう形になってしまっただけかもしれない。
少なくとも、気遣ってもらったのは事実だ。
地下階段を上りきって、玄関ホールに出るとすぐにエイプリルはお礼を言った。
「ありがとうございました!」
黒マスクは、それを受けて片足を少し後ろに引いた。
「お気になさらず」
「!」
まるで物語の王子様がするような礼で、返してくる。
ダンスにでも誘われているかのようだ。
「……ふふっ」
思わず笑ってしまう。
怖かったり驚いたりで目まぐるしい、奇妙なおつかいは終了した。