後悔
自分は,何をやってもダメなんだ。もうどうにもならない。
いつの頃からそうだったろう,などと言えるほど長くは生きていない。うまくいかなくなったのもせいぜいここ数年の話だ。だが確かに,世の中上には上がいるのだ。否応なしに自分の能力の限界を思い知らされた。明らかに自分より遊んでいるはずなのに,自分より成果を上げる同輩。対して,いくら努力してもろくな成果が得られない自分。そんな自分が許せなかった。
視界が切り替わる。もう一度だけ,と全てを賭けて挑んだ最後の勝負。結果は,敗北。圧倒的で絶対的な失意。世の中への関心が急速に薄れていく。
また視界が切り替わる。眼下には,世界。自分が居ようと居まいと,関係なく動いていく世界。忙しそうに歩いてゆく人,人,人…。ひどく無意味なことのように思えた。
その世界が急速に大きくなっていき,そして,暗転…。
「…!…!」
声が聞こえる。何を言っているかは分からないが,とても必死な様子だ。何に?何故?そこまで必死になる?なったところで,どうなる?関係なく世界は動いていく。これまでも,これからも。それは変わらない。世界を動かすことなど,できはしない。
「…ル!…シャルル!」
その名前には聞き覚えがある。そうだ…小さいころに見た物語の主人公。非凡な能力と絶対的なカリスマをもった英雄。ああなりたいと思って,真似て…。それが,かなわないと思い知った。必要とされる,価値ある存在になれないと思った。夢という名の魔法が解けて,残ったのは色あせた現実…。
何かが頬を流れていく感覚。泣いているのか?俺が?何に?どうして泣く必要がある?泣いたところで,どうにもなりはしない。世界は関係なく動いていくだけだ。
「目を覚まして!シャルル!死なないでっ!」
そこで突然に,急速に意識が覚醒する。
「ん…」
「あ…」
目を開けると,泣き顔の娘がいる。こちらに気づいて大きく目を見開き,その後また顔をクシャクシャにする。
「シャルル!」
抱きついてくるが,そこからひきつるような痛み。
「うぐ!つぅ…」
「あ,ご,ごめんなさい!」
娘は慌てて離れる。それまでぼんやりしていた頭も,痛みで急速にはっきりしてきた。
「…エリィ?ここは…?俺は,いったい?」
「お主の部屋のベッドの上じゃよ。お主は戦場で倒れ,救護室で治療を受けた後ここまで運ばれてきたのじゃ」
「…あー」
ハーディの言葉から,苦痛がまるまる損になったことを悟る。
「…戦闘は,どうなったんだ?」
「お主の手柄じゃよ。指揮官を失って敵は潰走した。友軍の勝利じゃ」
「そうか…」
手柄などはどうでもいいが,あそこで戦闘を終わらせることができただけでも良しとしよう。エリィの安全は曲がりなりにも確保し通したのだ。とりあえずホッとする。
「俺は…重傷なのか?」
「…隠したところでどうしようもない,正直に言うが…」
言いよどむハーディ。消え入りそうな表情のエリィ。しかししばしの沈黙の後,ハーディの口からは予想もしない言葉が発せられた。
「あまり大したことはないのぅ。数日もすれば完全復調じゃよ」
「…は?」
拍子抜けする。
「フレイアの対抗魔法が早めに効いたからのぅ。深刻なダメージにはならずに済んだのじゃ。特に酷かったところは相殺しきれずにご覧のとおりじゃが,まぁダメージらしいダメージはそれだけじゃな」
待て,それじゃエリィのこの反応は何だ?
「つまりじゃな…」
察して,ハーディはぽりぽりと頬をかきながら言う。
「嬢ちゃんが責任を感じて取り乱しとるだけじゃ。ちいっとお主がうめくたびに『目を覚まして!死なないで!』と…」
「責任だって?何の?」
「だ,だって!私が,私が我を忘れて突出さえしなければ!隙さえ作らなければ!」
ボロボロと涙をこぼすエリィ。チクリ,と心の底がうずく。
「あー…責任を言うなら俺のせいだと思うがな…完全に声をかけるタイミングを誤ったからこその隙だろう?」
それにそもそも,突出してしまったのは彼女にブレーキをかけきれなかった自分の責任である。だがそれは彼女には言えない。
「…」
泣き顔のまま黙って首を横に振るエリィ。少なくとも今は,何をどう言っても聞きそうにない。
「…まぁ,お主には別の意味でいろいろ責任を取ってもらわねばならぬよ」
また頬をかきながらハーディが言う。
「はっきり言って,ここまで嬢ちゃんが取り乱したのは初めてじゃ」
まぁそもそも誰かに一方的に身代わりされるのも初めてならその相手に倒れられるのも初めてで,どう対処していいか分からんからじゃろうが…と心の中で付け加える。
「ともかく落ち着かんことにはどうにもならん。しかし儂らが何をいってもこの有様じゃ」
チクリ,チクリ,と心が痛む。
「お主の側を離れようともせん。お主が目覚めたらどうにかなるかとも思ったがどうにもならんようじゃ。だから責任もって,お主が何とかするんじゃ」
儂ももう行くぞ,と背中を向け出ていくハーディ。ここまでの経緯を察する。おそらくはじめはそれなりの数がここに居た。しかし大したこともないので解散することになった。ところが誰が何を言ってもエリィが動こうとしない。一人減り二人減りするなかで,彼が最後まで残っていたのだろう。
(これは…なんとも…)
心の痛みに苛まれながら思う。しがらみを減らしたつもりが,余計に面倒なことになってしまっている。だが確かにハーディの言い分はもっともだ。自分がやるしかあるまい。どうしたら落ち着かせられるか…。
「…」
ダメージは火傷だけ,という言葉を思い出し,まずは大したことないとアピールしてみる事にする。先ほど抱きつかれて痛んだのは,左腕と胴体。ちらりと見やると包帯が巻かれている。いっぽう右腕は無事なようだ。それを支えにして,なるべく痛まないようにそろそろと上体を起こす。
「あ!だ,ダメよまだ寝てないと…!」
驚きの表情を見せおろおろするエリィ。それなりに痛みも感じるが,微塵もそんな様子を彼女に見せるわけにはいかない。
「なぁに,ただの火傷なんだ。ハーディだって数日で完全復調する程度と言っていただろう?」
起き上がると,足の様子を確認する。真っ先に焼かれた右は膝から下がすべて包帯。こちらは多少酷そうだ。一方の左は太腿のあたりに巻かれている程度。ちょっとだけ動かしてみるがそれほど痛みはない。
ふと,部屋の隅に置かれた杖に気づく。
「あれは…松葉杖か」
「治癒術師が…歩くときは大事をとって使った方が良いって…」
なるほど,要はその程度のダメージということだ。ややもすれば,取り乱すエリィに気圧されて大事に大事を重ねただけなのかもしれない。痛み損には間違いないが,意識を取り戻すまでにここまで軽減されていたことをまずは幸運としよう。足をそろそろと横に動かし,ベッドに腰掛ける体勢になる。
「うん,思ったより軽傷のようだな。注意さえしていれば痛みもそれほどない」
努めて気楽に言う。それでも心配そうな表情のエリィ。
「俺は,どのくらい寝ていたんだ?」
「えっと…半日強ってところかしら」
ということは,もう夜か。戦闘開始は午前の早い時間だったはずだ。待てよ…とふと気になって尋ねる。
「食事は,摂ったのか?」
首を振るエリィ。やはりか。ということは昼も夜も食べずにずっと居たということだ。またチクリチクリと心が痛む。他人を左右したくないなどと格好をつけていながらここまで責任を感じさせてしまうとは。我ながら情けない。その後ろめたさからか,自分でも驚くほど優しい声が出た。
「ダメじゃないか。身体に毒だぞ」
「…でも…」
「そこまで俺の事を心配してくれたのは凄く嬉しい」
「…えっ?」
(…なっ?)
驚いた表情を見せるエリィ。しかしシャルルもまた,予想外に飛び出した自分の言葉に驚いていた。しかも,止まらない。
「だが,なぜ俺があんな無茶をしたのか,その気持ちも分かってほしい。…君の無事が何より大切だったからだ」
(待て…待て待て俺,何言ってるんだ?いや理屈上間違ってないが…明らかに何かおかしいだろ)
「…!でも,あれは…あれはその,私が初陣のあなたをそれとなくフォローするための…」
赤面しながらごにょごにょと口ごもるエリィ。なるほどノーブルとエリィの間ではそういう話になっていたのか。それなのに突出したら余計に責任を感じるのも無理はない,と内心で苦笑する。だがそこに意識が向いていては状況は改善しない。後ろは聞こえなかったフリをしてシャルルは言葉を返す。
「あれ…?ノーブルの言葉のことか?それは関係ない。いや,むしろ都合よく利用させてもらった。俺自身が,君の安全を願っていたんだ。それなのに君にこんな負担を強いてしまったとは…」
「あ…あの…えと…ごめんなさい?…」
いよいよ予想外の展開にうろたえるエリィ。しかしそれはシャルルも同じであった。だがどこをどう修正すればいいのかも分からぬまま,そのままの流れで言葉は続いていく。
「いや…謝るのは俺の方だ。心配させてしまって,悪かった。…次はもっと上手くやるさ」
「…ううん,私の為に…ありがとう」
しばらくの沈黙を置いた後,何かが吹っ切れたようで,にっこりと笑うエリィ。その表情に引き込まれそうになって,慌ててシャルルは視線を逸らす。
「ところで…さすがに今日はじっとしていたいんだが,もし良かったら食事をここまで持ってきてくれないか?食うものは食って,少しでも早く体を治さないと…」
「うん,そうだね。…ね,私もここで食べていいかな?」
「ああ」
ちょっと待ってて,と言い残しエリィは部屋を出ていく。一人になったところで幾分冷静さを取り戻し,シャルルは成り行きを振り返った。
ハーディからの宿題は,まずクリアしたとみていいだろう。エリィは落ち着きを取り戻した,それは間違いない。何をどう吹っ切ったのかは分からないがそこはまず本題には関係ない。
ノーブルとの約束は守られているはずだ。エリィはまだ無事である。同意していようがただ利用しているだけであろうが,そこは本筋には関係ない。何か言われたらむしろお前が悪いと言ってやろう。
エリィが余計に責任を感じてしまった原因の一つには間違いないのだ。エリィの安全を最優先する事は…これも間違いないはずだ。何か起これば自分の責任で,それは何を措いても回避したい。寝覚めも悪い。だから彼女の安全を願っているし,負担を強いることは自分の首を絞めることだ。だから今回の件に関しては自分が悪く,次はもっと上手くやらねばならない…。
(理屈上は,間違ってないよな…すると,あとは…)
あの言葉。エリィが心配してくれていたことを「嬉しい」と言ったあれだ。あれが全てを妙な方向へ誘導したように思える。しかし,ではあの言葉に嘘があったのだろうか。しばらく考えた末に,彼は「無い」という結論に至った。しかしだとすれば,妙な方向ではないということになるのだろうか。
(…ばかばかしい)
そこで肩をすくめて,溜息を一つ。妙だろうが妙でなかろうが,間違ったことはしていない。彼女は彼女の意思で動く。自分が彼女に好意を持っていようがいまいが,世界は自分とは関係なく動いていくのだ。
いやそれいろいろおかしいだろ,たとえばノエルが聞いたら間違いなくそう突っ込むような結論に,しかしシャルルはそれなりに納得して,それきりそれを意識の外へ追い払う。
(そういえば…)
あれは何だったのだろう。夢…にしてはリアル過ぎたような気もする。気を失ったことをきっかけに,失われた記憶の扉がほんの少しだけ開いたのだろうか。だが,すでにそのほとんどは再び記憶から失われている。そこから考えればやはり夢だったのだろうか。唯一覚えていたのは自分の名の由来だが,それも信憑性には乏しい。アラウドが言っていたあれが意識の片隅に残っていて,それが夢になっただけなのではないだろうか。
しかし結局,その件もそこまで,それきりとなってしまった。
「お待たせ」
エリィが,可動式のテーブルを押して戻ってくる。上には,圧倒的な物量。呆気に取られて見ていると,赤面しながら慌てて弁解する。
「あ…そ,その…安心したらお腹すいちゃって。あなたもきっとお腹ぺこぺこなんじゃないかと…」
「…ありがとう」
ふっ,と微笑が漏れる。
「…それじゃ,気合いを入れて食おうか。まだまだ先は長いからな」