約束
結局そこで,今回の講義はお開きとなった。フレイアによれば,
「あれを感じられるのは魔法の素養のある者だけ。程度も人によって様々だから,軽いめまい程度で済んじゃう人のほうが圧倒的ね」
とのこと。ごく普通の者はいつもと変わらぬ生活を送っているはずで,特にすぐ触れ回る必要もないのだという。
「魔獣の群れがいきなり転移してくるなんてのも現実的じゃないしね。とりあえずここ二,三日の間は大丈夫」
と…思う,とフレイアは付け加え,第三軍の方に顔を出してみる,おそらく本国と協議しているはずだから,と言って出て行った。
(やはり…早めに解消しておいた方がいいよな…)
シャルルは少しだけ迷ったが,結局エリィのところへ行くことにした。疑うわけではないが何が起こるか分からない。具体的にどう言おうか考えがまとまったわけでもなかったが,フレイアの言う通り正直に話すのが一番ではないかと結論付けた。
「エリィ,居るか?」
ドアをノックする。ややあって扉が開き,中からエリィの気まずいような怒ったような何とも言えない複雑な顔。
「…何?」
「あー…いや…話したいことがあって…時間,いいかな?」
「…うん」
どうぞ,とエリィは扉を開けたが,何となく中に入るのも気まずいような気がして,結局シャルルは彼女を食堂へ誘った。時間はそれなりに遅く,誰もいないがらんとした食堂の,それでも隅の席を選んで座る。灯りは最小限だけにする。暗い室内の一角に,そこだけがぼんやりと浮かび上がる。
「…で,話って?」
単刀直入に聞いて来る。いつもとあまりに違うその様子にどう接していいか分からずまごつくが,ええい,ままよと腹を括ってこちらも単刀直入に本題に入る。
「どう見ても君の様子が変なんだが,俺のせいなのか?」
「…どうして,そう思うの?」
「今日の戦いで,俺が前衛に出てから変わったような気がしたんだ。それで…」
「…じゃぁどうして,それで私は変わったの?」
「…さぁ」
「…それじゃ私は,意味不明にへそを曲げる痛い子,ってこと?」
溜息をつくエリィ。
「そういうわけじゃないんだが…」
「私の中では,結構大事な理由なんだけど…あなたにはさっぱりワケが分からない,って事でしょ?」
「…すまん」
「すまん,じゃないわよ…!ありえない!」
(う…)
激高するエリィにチクリ,と心が痛む。しかし彼女はすぐ元の複雑な表情に戻る。
「じゃぁ…訊くけど」
「お…おう…」
「あなたは,どうして私を庇ってくれるの?」
「…え?いや,それは…ノーブルに頼まれたし,ハーディにも…」
「じゃぁ…どうしてノーブルやハーディとの約束を守ろうとするの?」
「…え?いや,それは…彼らが君の事を大切に思っているのがよく分かったから,その想いは無駄にしたくないと…」
「じゃぁ…どうして無駄にしたくないの?」
「…え?いや,それは…」
そこで言葉に詰まる。ねぇ,どうして?と繰り返してくるエリィ。
「それは…俺自身も,君の無事を優先したかった…から…」
「じゃぁ…どうしてあなたは,私の無事をそうまでして優先してくれるの?」
「それは…」
絶望感と虚無感で自棄になった男の気まぐれ,どこで終わっても良い旅のちょっとした酔狂,というのが最も妥当な結論。しかしそれを言うわけにはいかないし,本当にそうかと言われれば何かがひっかかるような気もする。あるいは先日考えたとおり自分がエリィに好意を持っているからか?しかしここでそう言ってしまっていいのか…?
「もういいよ…。別に,あなたを困らせたいわけじゃないから…。ううん,実際は困らせてるよね。自分でも,私今嫌な子だ,って…」
悲しそうな表情で言うエリィ。チクリ,とまた心が痛む。正直に,というフレイアの言葉が蘇る。
「…すまん。正直に言うと…自分でも,どうしたらいいのか分からないんだ。確かにこれだ,と言えるほどはっきり見えているわけでもない。それを言ってしまっていいのかという思いもある。だが…決して…」
「おかしくないの?あなたが私を庇ってくれるのは,ありえないことじゃないってこと?そう信じていいってこと?」
「…そうだ」
「じゃぁ…やっぱりおかしいわよ。私が怒っている理由が分からないなんて,ありえない」
「…?」
「私が,そんなあなたの無事を願うのはそんなにおかしいことなの?ありえないことなの?」
「!」
「私を庇おうとしてどんどん無茶をするあなたを心配するのは,変なの?ねぇ…答えてよ」
「いや…俺の事は心配しなくても…」
「おかしいよ!それいろいろおかしい!心配させて悪かったって,言ったじゃない!次はもっと上手くやるって,言ったじゃない!」
「いや…上手くはやったと…」
「認めない!全然上手くないよっ!私,すごく心配したんだからねっ!」
チクリ,また心が痛む。
「何よ,あの指示…いくら私の安全を優先してるからって,後方なんて…ひどいよ…」
「いや…しかし…」
「私…これじゃ,お姫様だよ…無力で,他人に任せてばかりで,心配ばかりで…ねぇ,私にお姫様をやれって事なの?もう戦うなって事なの?」
「…」
「私…どうしていいか分からないよ…胸が苦しいよ…こんなのはじめてだよ…」
「…すまん,悪かった…」
「ねぇ…本当に,あなたを信じていいの?私,このままでいいの?」
「…」
「…ごめん。言い過ぎた。あなたにだっていろいろ事情があって,それでも私の事を真っ先に考えてくれてるのに…私,やっぱり嫌な子だ…こんな,だまし討ちみたいなこと…」
「…だまし討ち?」
ひっかかる。エリィは泣き笑いのような顔で,しかしとんでもないことを口にした。
「うん…だまし討ち。さっきまで,フレイアと話をしていたでしょ?私,その話聞いていたのよ…」
「なん…だっ…て…?」
「実際は…聞かされたんだけど…。部屋で横になっていたら,突然『これは禁断症状~』とかいう声が聞こえてきて…」
「…やられた…」
こめかみを押さえる。おそらく精霊を使って,自分たちの会話がエリィに筒抜けになるようにしていたのだろう。
「…どのへんから?」
「『聞いた過去には,全てを賭けてでも責任を取れ』から…」
「…なるほど」
要はすべて聞かれていたということか。やれやれ,と肩をすくめる。しかしいろいろと腑には落ちた。自分でそれに近い話を振っておきながらあそこでフレイアが突然落ち着きをなくしたのも,エリィまで縛ってしまうことを恐れたとすれば無理もない事だ。あの意味深な笑いも,最後の言葉も,これを意味していたわけだ。
「すぐ抗議しに行こうと思ったんだけど…つい…だから,あなたがどんな気持ちでいるかは分かった。でも…それで余計に腹が立って,余計に自分が情けなくなって…それで…私は…」
(これも…だよな)
気まずいような,怒ったような,泣き出しそうなこの表情も,要は裏を知ってしまったからということだ。
「私…嫌な子だ…自分の身を自分で守る事も出来なくて…それなのに,あなたの…生き死にまで…左右して…」
「!!」
ズキン,と心が激しく痛む。自分の責任すらまともに取れないくせに,他人の運命を左右する…絶対に避けたいと思っていたはずなのに,よりによって他人にそれを強いてしまっていたわけだ。今更ながらに気づき,自分の迂闊さを悔いる。このとき誰かが通りかかったら,二人が全く同じ表情でいることに驚いたかもしれない。
「…すまない。苦しい思いをさせてしまったようだ…」
かろうじて,それだけを絞り出す。精いっぱいの優しい表情をつくったつもりだが,それは先ほどのエリィと同じ泣き笑いのような顔になる。
「…で,でもそれはあなたのほうが…」
「…」
「…シャルル…?」
「…少し,休憩しよう。状況を整理する時間が欲しい…」
◇
「ふぅ…」
僅かな明かりだけを頼りにしてカウンターまで行き,グラスへ水を注いでぐいっと一息に飲み干す。エリィは椅子に座ったまま,幾分うつむき加減で黙っている。
(もう少し…時間を置くべきだったな…)
悔やまれる。もう少し考えを整理してから,訪ねるべきだった。あの決断にはそれなりの理由もあったし納得もしていた。だが今にして思えば勢い任せの,いや,自分の思いになど無関係に世の中は動いていくという醒めた思いがあったのも事実だ。
その思いはある意味正しかった。自分の全く予り知らぬところで,情報はエリィに筒抜けとなっていたのだ。だがある意味では間違っていた。それがエリィを混乱させ苦しめることになったのだから。さらに言うなら,エリィはその混乱を整理する間もなく,混乱させた当人によってこの場へ引きずり出されてしまっている。
(…あまり時間をかけるわけにもいかないな…)
原因を作ってしまった自分が何とかするしかない。自分からこの場を設けておいて時間が欲しいなどと寝言を言っている引け目もある。チクチクと胸を刺し続ける痛みから逃げるように,視線をエリィとは逆方向へ向けて状況を整理する。
(まず…エリィの知らないこちらの状況としては…)
自分が絶望感と虚無感を持って行動していること。簡単に言えば自棄になっているわけで,これも問題を結構ややこしくしているのかもしれない。だが言ったところで状況が改善するとは到底考えられないのでとりあえず無視するしかない。
次に,例のアレだ。新しい何かが来ればそれなりの脅威にはなるが,これまで見た分に関しては悉く対応可能で自分にはさしたる問題も無い。ところがアレを知らない者からはかなりの死地に飛び込んでいるように見えるわけで,エリィを苦しめていることにもこれが大いに関係している気がする。
しかしこれはどうみても特殊な何かだ。言ったところで信じてもらえるとは限らないし,余計な何かを招く可能性も捨てきれない。とりあえずこれも放置しておくしかなさそうだ。いっそそれでもエリィにだけは全てを打ち明けて…と考えてそれを追い払う。この状況を招いたのはまさにそのせいだ。フレイアの禁断症状という不可抗力があってすらこれなのだから,当の本人が直接言ってしまう事の与える影響は計り知れない。
「…結局,どう現状に折り合いをつけるか,か…」
小さくつぶやく。是非はともかく公開しても構わない情報はすべて公開済みとなっているわけだから,余計な事を考える必要も無い。さっきのやりとりで嘘をつかなかったおかげで,とりあえず修羅場にもならずに済みそうだ。まぁ別の意味で修羅場だがそこは目をつぶろう,と目をつぶって苦笑する。
「さて…」
目をつぶったまま考えに集中する。全体的な結論として拙速ではあったが,収穫がなかったわけではない。エリィが不機嫌だった理由は分かった。要は,自分にはどうしようもないところで話が進んでしまったところに問題があるということだ。
「結局俺が押し付けたんだよな,いろいろと…」
溜息を一つ。禁断症状さえなければ,もしかしてただ怒られて,謝って,それで済んだのかも知れない。しかし少なくともアレのおかげで,エリィは間違いなく自分に向けられているのが善意だと判断したはずだ。単純な怒りは収まる。ところが今度は逆に,少なくとも申し訳ない,悪くするとそれに報いたいという思いが生まれる。生まれるが,あの布陣ではそれを形にすることもできない。しかし形にしようとすれば,それは彼女が前線に立つことを意味し,向けられた善意への否定となる。
「行き場の無い思い…か」
自嘲の笑みを漏らす。何をどう思ったところでどうにもならない。世界は自分とは無関係に動いていく…。自分ならば絶望感と虚無感を感じるであろう状況へ,結果として彼女を追い込んでしまったわけだ。我ながら…と言いかけ,いかん…と口を真一文字に結びなおす。そんな自虐は一人の時にいくらでもできる。今は彼女だけでも何とかすることを考えなければ。
「…待てよ」
結局,こちらも向こうの運命を左右したくない,向こうもこちらの運命を左右したくない。となれば,最善の解決法はお互いがお互いを縛らない事になるのか…?それはつまり,”風”の流儀そのもの…?
「いやいや,待て待て…」
それでは結局責任の放棄ではないか。
「だが…」
なぜ責任を果たす?それは義務なのか?義務だとすれば,それはハーディ達が俺を縛っているのか?いやそんなことはありえない。ハーディも言っていたとおり,気にする必要はないのだ。”風”の流儀にも反する。
「俺…か?」
自分で自分を縛っているだけか?特に多くを期待されたわけでもなく,特に何かを求められたわけでもないのに,自分が勝手にそう思い込んで応えようとしているのか?
「いや…」
それが全てでは無い筈だ。少なくともそこまで義理立てするほどの何かも無い…筈だ。もしあるとするなら,それは自分がそうしたいと思ったからそうしているだけの話で,自分がエリィを…。
「落ち着け俺,落ち着け…」
頭を振る。自分の思いは関係ない。いや,現状ではむしろそれがエリィを縛っている。では何故そんな思いが出るのかと言えば,しがらみに捕まったせいだ。自分も縛り,相手も縛る。そんなしがらみなど…。
「やはり…ここは…」
これ以上しがらみがお互いを苦しめる前に,姿を消すべきなのでは。やはりそれが最善という気がしてきた。自分の結論を確認するようにつぶやく。
「…フレイアはああ言っていたが,しっかり理由を説明すれば納得してくれるのでは…」
「…ごめん無理」
「…は?」
すぐ近くで声。目を開くと,すぐ側に声の主。
「エ…!?」
後ずさる。
「い…いつから?」
「『さて…』のあたりからかな。その…お水飲もうとして来たんだけど,邪魔しちゃ悪いかなと思って…」
「…あー」
我ながら迂闊さを呪う。要は正面を塞いで,ずっと邪魔していたというわけだ。座っていた場所とは逆の方向,つまりシャルルの正面に居たのは,回り込もうとでもしたのだろう。
「すまん…」
「ううん。一生懸命考えてくれてるんだ,と思って…嬉しかったよ」
「…」
チクリ,とまた心が痛む。しかしそこで,エリィの様子が先ほどまでとはずいぶん違う事に気づく。気まずそうな様子は変わらないが,何かを決めて,納得したような表情だ。
「…エリィ?」
「シャルル,あのね…私,考えたんだけど…」
言いながら一歩前に踏み出し,距離を詰める。僅かな灯りを映して輝く,エリィの瞳。その瞳に引き込まれそうになって思わずまた後ずさる。
「考えた…何を…?」
声が上ずっている,気がする。相手にもそれと伝わっているのではないだろうか,と些末的な心配。
「あのね…私…これ以上あなたに迷惑をかけるわけにはいかないと思うんだ。だから…」
「だから…?」
「あなたは…あなたの思うとおりにすればいい」
そこで,にっこりと笑うエリィ。
「…えっ?」
「ノーブルとかね,ハーディとかね。気持ちは分かるし嬉しいんだけど。でもあなたがそれに縛られて無理するのはおかしいよ」
「いや…それは…俺の…」
「…もしそんなの関係なく,あなたが私の事を心配してくれるのなら,…嬉しい…」
そこでまた一歩前に踏み出す。
「お,おう…」
後ずさる。
「でも…やっぱり私,お姫様って性に合わないみたい」
そこでぺろりと舌を出すエリィ。しかしすぐに真剣な表情に戻る。
「だから…私も私の思うとおりにする。それが”風”のやり方だしね」
決意に溢れる瞳。気圧される。
「そ…そうか…なら…」
「ね…シャルル」
遮るように口を開き,また一歩前へ踏み出す。灯りに近くなってきたせいか,エリィの瞳の輝きは増している。
「な…何だ?」
また,後ずさる。
「あなたは…私のこと,どう思ってるの…?」
「!?…ど,どういう…」
「私は…あなたにとって,居ないほうがいい邪魔な存在…?」
真剣な表情に悲しみの影が差す。
「私,あなたにとって迷惑,かな…?」
その表情のままさらに一歩踏み出すエリィ。後ずさろうとした足が,卓に止められる。
「ね…どうかな…?」
「…いや,そんなことはない」
「…ほんとうに?嘘じゃない?信じていい?」
顔を寄せてきて,囁く。至近距離に,まっすぐな瞳。
「…あぁ,間違いない」
「…そう」
言うと,エリィはすっと離れ,迷いのない晴れ晴れした声で言った。
「じゃぁ決まりね。あなたはあなたの好きにする。私も私の好きにする。あなたがしたくなければしなくていい。私もしたくなければしない」
「あ,あぁ…」
拍子抜けしたような,どこかホッとしたような,そんな心境。先ほど言いかけて遮られた言葉を,ならば…と再び口に出す。
「俺は…俺がここにこれ以上居れば君を苦しめる事に…」
「ならないわよ」
しかしすぐさまエリィは答える。
「…は?」
「好きにやらせてもらうもの。苦しむわけないじゃない」
くすくすと笑うエリィ。そしてまた踏み込んでくる。
「あなたが姿を消すのはあなたの自由」
「む…」
「私があなたをさがして追いかけるのは私の自由」
「な…」
地の果てまで追っかけられる,というフレイアの言葉が蘇る。でも…と言って悲しそうな表情に戻り,顔を寄せてきてエリィは囁く。
「私もあなたに迷惑はかけたくない。迷惑になったらはっきり言ってちょうだい。そしたら…あきらめるから…」
違和感。しかしいつもの刺すような痛みではない。まるで指先でそっと触られたかのような,かすかな刺激。口をついて,言葉が出た。
「…お互いに,な…」
「…えっ?」
目を丸くするエリィ。
「あ,いやその,迷惑をかけたくないから,迷惑なら迷惑とはっきり言ってくれってそういう…あ…」
慌てて視線を逸らしたシャルルは,入り口からこちらの様子を伺っている見知った姿に気づく。
「…」
異変に気付いたエリィもその方向を見て絶句する。その見知った姿,フレイアは,片手で笑みのこぼれそうな口を押えながらもう片方の手で拳を作ると,親指を上に立てる仕草を見せ,そのまま引っ込んだ。ハッと我に返るエリィ。
「ちょ…ちょっとフレイア待ちなさい!元はといえばあなたが…!!」
叫びながらバタバタと食堂を駆け出ていく。一人残されたシャルルは,肩をすくめて溜息を一つ。
「まぁ…いいけどな」
苦笑交じりにそう言って,撤収の準備にとりかかった。