登場
うららかな日差しが優しく降り注ぎ,心地よい風が吹き抜けていく。
手足には砂の感触。どうやら自分は横になっているらしい。
「う…ん?」
男は,ゆっくりと目を開けた。
眼前に広がるは,空。目だけを動かしてみると,ぐるりとそれを囲むように木々が見える。
身体には痛みは無い。まず両足を少しだけ動かしてみるが,特に問題はないようだ。
次に両手。目の前にかざして何度か握る動作を繰り返す。無事を確認した後,ペタペタと頭や首を触ってみるが特に異常はないようだ。
男は両手を支えにして,ゆっくりと上体を起こした。
「…?」
そこではじめて,自分の置かれた状況が普通でないことを悟る。周囲を見る限りは森林と言うべき場所なのだが,自分を中心にしてすり鉢状のくぼみができており,そこだけが砂地となっているのだ。木々も,よく見れば円形に開けているというよりは何かになぎ倒された体である。
「落ちて…来た?のか?」
冷静に考えてみてそう考えるのが妥当な有様だが,これだけのことをやって自分の身体が全くの無傷というのはいかにもおかしい。
「俺はどうして…うっ!」
そこで男は激しい頭の痛みに襲われた。顔を歪め,じっとその痛みをやり過ごす。落ち着いたところで,男は重大な事実に気づいた。
「俺は…誰なんだ?」
記憶が全くない。残っていた記憶らしきものは,得体のしれない絶望感と虚無感だった。その原因を突き止めようとしてその都度頭痛に襲われ,何度目かで男はそれを諦めた。
「まぁ…やむをえんか…」
男は立ち上がった。この不可解な有様はいくら考えたところで分からなそうだし,究明したところで何かが変わるわけでもないだろう。この心境にこじつけるなら,飛び降り自殺でも図ったのかもしれない。などと無責任に考えて,男はそれ以上その件を考えるのをやめた。
男は適当に方向を決めると,ゆっくりと歩き出した。すり鉢を抜け,森の中へと分け入っていく。それでどうなるというわけでもないがともかく状況は確認したい。無理に死ななくても放っておけばいずれ死ぬ。そんな思いだった。
しばらく森の中を進んでいくと,水音が聞こえてきた。近くに川があるらしい。軽く汗ばんでもいたので,まずはそこまで出て休憩することにする。
「!」
その時だった。地響きのような音が耳に飛び込んでくる。そちらをみると,牙を生やした四足歩行の獣が藪の中から飛び出してきた。まっすぐこちらに突進してくる。
直撃を食らえばひとたまりもない,と死を覚悟した瞬間に異変は起こった。耳の奥でキィン…と音が響き,猛然と突進してきていたはずの獣の動きがひどくゆっくりになる。
(なんだ…?)
ともかくまずは突進の方向を変えて危機を脱しなければ。頭の向きを変えればおそらくそちらに行くはずだ。そう考えると狙いを定め,渾身の右回し蹴りを獣の横面へ叩き込む。
お世辞にも美しい蹴りとは言えないが,ひどくゆっくりな動きの獣に,それなりの速度で命中するそれを見るのは不思議な感覚だった。
方向を逸らされた獣は不幸にも,すぐ側にあった木に頭を叩きつけて失神した。緊張を解くと耳鳴りのようでもあるあの音は消え,世界はまたもとの速度を取り戻す。
「ふぅ…勘弁してほしいな,こういうのは…」
その時,獣が現れたあたりから,何者かが飛び出してきた。
「え?」
意外な邂逅に,お互いがしばし固まる。現れたのは若い娘のように見えるが,男はその格好に絶句した。
「こ,こいつを追ってきたのか?君は?」
なんとなく気まずくなって視線だけを逸らし,問いかける。
「え,ええそうよ。あなたが…仕留めたの?」
とりあえず敵意はなさそうだと判断したのか,娘は警戒を解いて近寄ってくる。
「なりゆきでな。こちらに向かって突っ込んできたので,やむなく…」
幾分逃げ腰になりながら,視線を逸らしたまま答える。何のためらいもなく寄ってくるところを見ると,普通の格好なのだろうか?半裸といって差し支えなく,健康的な肢体が惜しげもなく露出している。
記憶を失った男にはそれすらも分からなかった。
「そう…」
娘はちょっと困ったような声を上げる。
「…ね,虫のいい話なんだけど,私たちと山分けということでどうかしら。あなたはこれを捕まえた。私たちがこれを調理する,ってことで」
どうやら仲間がいるらしい。食料調達係といったところか。仲間は近くにいるのだろうか,この娘が単独でこの獣を相手にしていたとは到底思えない。
「あぁ,それなら問題は無い。ただ身を守っただけだから,好きにしてくれていい」
「ダメよ」
「え?」
「それじゃ申し訳ないもの。ね,一緒に来て」
律儀というか強引というか。面倒なことにならなければいいが,と心の中でつぶやく。
「ところで,一つ質問していいか?」
「何?」
「ここらあたりでは,君のその格好は普通なのか?」
「え?…あ…」
そこで,悲鳴。娘は両腕で身体をかき抱き,真っ赤になってそれを隠そうとする。残念な娘なのだろうか。ますます面倒そうなのに関わった,とまた心の中でつぶやく。
「こ,これには深いわけがあって…!」
「まぁ,そのままじゃお互い落ち着かんな」
上着を脱ぐ。
「え?え?」
うろたえる娘には構わず,続けて下。シャツと短パンの姿になって,脱いだ服を娘に投げた。
「とりあえずこれを着るといい」
「でも…」
「いいから。事情は後で聞く」
「あ,ありがとう…」
娘が服を着る気配を感じながら,何を酔狂なことをやっているんだろう,と半ばうんざりした。
「ごめんなさいね,いろいろと…」
服を着ると娘は獣に止めを刺し,どこにそんな力があるのか,ひょいと獣を担ぎ上げた。もしかすると単独で食料調達をしていたのかも知れない,と思いながら後に続く。
「しかし,なぜあんな格好で?」
「仲間がギャンブル狂いで…負けが込んで,私たちまで身ぐるみはがれちゃったのよ」
「それは…大変だったな」
「あ,自己紹介がまだだったわね。私はエリィ。あなたは?」
「俺か?…あー…」
記憶がないのに名前も分かるわけがない。だが名前がないのもいろいろと不都合かもしれない。しばし迷った末に,適当に心に浮かんだ単語を並べた。
「…シャルルだ。シャルル=ナズル」
エリィと名乗った娘は,よく言えば面倒見の良い性格なのかもしれない。面倒ごとは遠慮したいシャルルの内心になどお構いなしで質問をぶつけてきた。
「見慣れない格好だけど,旅の人?」
軽い世間話なのだろうが,記憶がないので答えようもない。
「分からない。気づいたら近くに寝ていたんだ。記憶もなくなっているようだ」
早々に取り繕うのも面倒になり,淡々と,しかし興味を持たれそうな情報は省いて正直に答える。
「ご,ごめんなさい…」
「いや,気にしないでくれ」
「これから,どうするつもり?」
「んー…」
生きられるだけ生きて,生きられなくなったら死ぬつもりだ,などと答えたら何を言われるか分かったものではない。面倒だと思いつつ無難な答えを探す。しかしすぐに,ろくに記憶がないので取り繕う余地も見当たらないことに気づく。
「正直なところ,分からん」
「それじゃぁ…何か思い出すまで私たちと一緒に居たら?」
しまった,と迂闊さを悔いる。お約束の流れではないか。獲物も獲ってもらったし遠慮しないで,と勝手に話を進めながら前を行くエリィの背にお節介な,と心の中で毒づく。
そうこうしているうちに開けた場所へ出た。仲間とのキャンプ地なのであろう,テントのようなものもある。エリィは獣を降ろすと,ナイフを持ち出してきて捌きはじめた。
他にすることもないので近くに腰を下ろし,その様子を眺める。
「仲間は今どうしているんだ?」
「金策に出ているわ。うまくいって,せめて装備だけでも取り戻してくれるといいんだけれど…この服も早く返さないとね」
申し訳なさそうに苦笑する。
「装備?」
「私たちは冒険者なの。時々傭兵みたいなこともやってるわ。装備さえあれば,このご時世だし」
「そうか…」
あいづちをうちながら,しかしシャルルは心の中では全く別の事を考えていた。成り行きで貸してしまった服を早々に,しかも無難に取り戻し,なるべく早くしがらみを断ち切っておきたい。
「持ち合わせがあればいいんだが身一つだったしな…中には何か入っていないか?」
貸した服のポケットを指さす。ごそごそとさぐり,エリィは何かをつかみ出した。
「入っていたのはこれくらいで…」
手を開くとそこには大きめのコインが数枚。しかしそれを見て彼女は目を丸くした。
「こ,これ…もしかして,銀じゃない!?」
裏返したり指で弾いてみたり,じっくりと眺める。
「珍しいものなのか?」
「銀は魔法の触媒にも使われる貴重な金属よ。特に今は戦時だから,余計に価値が上がっているわ。専門家じゃないと分からないけれど,高純度のものならこれだけで数か月は楽に暮らせる」
「ほう…」
なぜ自分がそんなものを持っていたのか,それは分からないのでどうでもいい。しかしこれで,しがらみを断つことができる。
「なら,それで君たちの装備を取り戻そう」
「えっ!?」
エリィはまた目を丸くした。
「でもこれはあなたの…」
「なぁに,細かいことは気にしなくていい。金策が成功すれば返してもらえばいいし。しなくとも,装備さえあればなんとでもなるのだろう?」
乗り気でないエリィを言葉巧みに説得し,食材の仕込みを区切りのいいところで切り上げると,2人は街へと向かった。