四十四話
冬子は風の吹き出る隙間に指先をねじ込む。そのまま力を込めて、持ち上げた。
がりがり、ごりごりと岩が擦れるような音を立て、隙間が広がる。冬子は鼻息を荒くして、さらに力を込めた。
ぱらぱらと土くれなのかうろこのかけらなのか判別のつかない物をこぼしながら、ゆっくりとシンの頭が持ち上がる。
角の下に巨大な頭が姿を表した。さえぎるものを無くして、鼻の穴から吹き出る風が強くなる。風に飛ばされないよう、隊長とネスクが顔の横に移動する。
冬子が手をかけた隙間は、魔獣の眉毛に当たる突出した部分であったらしい。陽の元にさらされても、その下にある目はかたく閉じられている。
あごまで引きずり出したところで、冬子は支える箇所を変えた。魔獣を持ち上げたまま自分が移動し、あご下に入り込んで頭を背負うようにして動かす。ようやくシンの頭をすっかり引きずり出すと、とぐろを巻く体の上にできるだけそっと下ろした。
重い荷物を下ろした冬子は、一仕事終えて肩をぐるりと回す。
隊長とネスクは、巨大な魔獣の巨大な頭を並んで見上げている。
「いやー、これだけでかいと感心するなあ」
ひたいに手をかざしたネスクが、楽しげに言う。隊長は閉じたままの目や口をひとしきり眺め、ふところから取り出した紙に何かを書きつける。それから鼻の穴をのぞきこんだり、口端に生えた二本のひげを観察したりと忙しい。
「隊長、いろいろいじってみてもいいですか?」
放っておいたら際限なく観察していそうな隊長の様子に、冬子は待つのをやめて声をかける。
真剣な表情で手を動かしていた隊長は、少し黙って頷いた。
「……うむ、やっていいぞ。まあ、ゆっくりでいいからな。時間はあるから、焦らなくていいからな」
頷きはしたものの、まだまだ観察して書き留めたいことがあるのだろう。何度もゆっくりやれ、と念を押し、名残惜しげに顔の前から少し下がった場所で観察を続けている。
「おれも一緒にやろっと」
うきうきと言うネスクと二人で、思い思いに魔獣の頭部を調べていく。
ネスクはひげにぶら下がり、冬子はまぶたをこじ開けようと上に引っ張り下に引っ張りする。二本の角をそれぞれ攻撃してみたり、口に武器をねじ込んでこじ開けようともした。
冬子に拾ってこさせた石を魔獣の鼻に詰めたネスクが、吹き飛ばされた石を慌てて避ける。それを横目に他にいじれる箇所はないかと探していた冬子は、ふと気がついた。
あごの下にあるうろこの中に、一枚だけ形の違ううろこがあった。
近寄ってまじまじと見ながら、冬子は龍について調べた事を思い出していた。
龍のあごの下にあるという、逆鱗。触れた者は龍に殺される。他にも龍の弱点である、との記述もあった。
どの情報が正しいのかいまひとつわからなかったが、いずれにしろ逆鱗に触れられた龍は何かしらの反応を返していた。
そもそもが空想上の生き物である龍の情報だ。姿かたちが似ているとはいえ、こちらの魔獣に適応されるかどうか不明である。それでも、試してみる価値はあるだろう。
冬子はそうっと手を伸ばし、一枚だけ形の違うそのうろこを掴んで引っ張った。
「あ」
大した力を入れてもいないのに、うろこはぼろりと取れて冬子の手の中に収まった。あまりの呆気なさに冬子がぽかんと口を開けたとき、足元がぶるぶると震え始める。
隊長とネスクは揺れる足場に思わずしゃがみ込み、冬子は慌ててあごの下から這い出した。三人が驚いて見つめる中、シンが体を震わせて目を開ける。
固く閉じられたまぶたの下、現れた瞳は緑色。きらめく透明感のある優しい緑は、芽吹いたばかりの双葉の色だ。
白目のない新芽色の瞳が空を映して輝いたかと思うと、シンはずるりとはい上がった。とぐろを巻いていた体をゆるりとほどき、固いはずのうろこをしゃらしゃらと鳴らして空へと登る。
そよぐたてがみをつかみ損ねた隊長は、ずるずると落ちていく。ネスクはくねる魔獣の背を器用に移動し、落ちる隊長を捕まえて地上に着地した。
冬子はとっさに手近にあった角をつかんで、落下をまぬがれる。
シンは頭に冬子を乗せたまま、ぐんぐん空へとのぼってゆく。巻いていたとぐろをほどいて、さらにその周囲に長く伸びていた身体もぞろぞろと地を離れていく。
小高い丘はすぐに消え、その丘のふもとにいた隊長たちの足元にあった緑も続いて空へのぼってゆく。さらにその周囲に広がる草原も空へと続き、カノを乗せたユウが驚きあちらこちらへと逃げ回る。大地に長く伸び広がっていたシンの身体が浮き上がる。どうにか巻き込まれずに逃れたユウが、むき出しの地面を恐々と歩いていく。
角につかまったまま高く高くのぼった冬子は、あたり一帯に広がる草原が消え去るのを見ていた。風に吹かれてそよぐ草木の全てが、シンの身体であったと知った。
剥き出しになった地面が一面に広がる光景に冬子が圧倒されているうちに、何かがひらひらと視界を舞った。
長い長い身体の全てを空に登らせたシンが、その身に生えたうろこを落としていた。あれほど硬くしっかりとくっ付いていたうろこが、枯れ葉が散るようにほろほろと落ちて空に舞い、消えていく。
音もなく始まった崩壊は、みるみるうちに冬子のつかまる魔獣の頭部にも及んだ。そして足場をなくし、掴まる所を失った冬子は、空から落ちた。