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三十一話

 優しくも力強く背中を押してくれたドウソのおかげで、冬子はルゴールのテントの前まで来ることができた。

 ためらえばまた背を向けてしまいそうで、足を止めずにそのまま布の扉をめくって中に入る。

 夕暮れ時で、テントの中はすでに薄暗い。そんな中、ひとつきりのランプにぼんやりと照らされて座る少年の背中が見えた。

「……カノちゃん」

 冬子が控えめな声で呼びかけると、来訪者に気が付いていなかったのだろう。カノは肩をびくりと震わせて振り向いた。

 その目に冬子をとらえた瞬間、明かりのせいだけでなく暗かった表情が一転して、みるみる輝きだす。

「ふゆちゃん!」

 きらきらと輝く笑顔になったカノが、飛び跳ねるように本の山を越えて冬子の元へ駆けてきた。

 そのまま飛び込んできたカノを慌てて冬子は抱きとめる。

「良かった、ふゆちゃん。帰ってきてくれた」

 目に涙を浮かべたカノが、嬉しそうに言う。

 あまりにも喜ばれるものだから冬子はなんとなく恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちになって、笑い返した。

「ごめんね、カノちゃん。わたし頑張るから。弱いかもしれないけど、負けちゃうときもあるかもしれないけど、もう少し頑張ってみるから」

 待っていてくれてありがとう、と冬子が言ったとき、すぐ後ろの布がめくれてルゴールが顔を出す。

「なんじゃ、もう帰ってきたんか」

 冬子の姿を見たルゴールは顔をしかめて、二人にテントの奥に行くようにあごで促す。

「入り口で遊んどると邪魔じゃ。じゃれ合うなら奥に行け」

 冬子とカノが言われたとおりに奥に移動すると、首だけを覗かせていたルゴールがテントの中に入ってきた。

 手には盆を持っており、盆に並んだ食器にはまだ温かい食事が乗っているのだろう。白い湯気が立っている。

 夕食を運んできたのか、と冬子が見ていると盆を置いたルゴールがやかんを持ってカノを呼んだ。

「やかんを持って行き忘れたから、茶がないんじゃ。ちょいとこれを持って、貰ってきてくれ」

 そう言いながらやかんを渡されたカノは、テントの中央にあるストーブを見て首を傾げつつも扉をめくって出て行く。

「今日の当番はネスクじゃから、茶菓子もねだってくるといいわい」

 カノの背中にそう言ってから、ルゴールは冬子に向き直る。彼がときおり見せる真面目な顔をしているのに気が付いて、冬子はそっと姿勢を正した。

「帰ってきたんじゃな」

 確認するように言ったルゴールに、冬子は頷く。

「お前さんは、それでいいんじゃな」

 再び冬子が頷くのをじっと見つめてから、彼は静かに息を吐いた。

「……そうか」

 疲れたようにこぼして、ゆっくりと頭を下げる。驚く冬子の前で、頭を下げたまま途切れがちに喋る。

「一人で戦わせて、すまんかった。もう戦わんでいいとは、言ってやれん。すまん……」

 苦しげに言って、ルゴールは頭を下げ続けた。

 ルゴールの謝罪は、カノが戻ってくるまで続いた。

 片手に湯気を立てるやかんを下げ、もう一方に茶菓子が乗った皿を持って手が使えなかったカノは、テントの前でごめんくださいと言ったのだ。その遠慮がちな声に、冬子は心底ほっとした。

 大の大人に頭を下げられたことなど無かった冬子は驚き戸惑っていた。そのため、カノを室内に招き入れた隊長がすっかりいつもの調子に戻ったことに安心した。

 夕食を摂るから早く帰れ、と素気無く言われても気にならない。それどころか、にこにこ笑って手を振ったものだから、カノが涙目になってしまった。

 必ずまた来ると約束をして、ようやくうなずいてくれた。別れ際にまだ寂しげな顔をしていた少年を思い出しながら、冬子はこぶしを強く握る。

「必ず、助けるよ」




 

 翌日、月曜日。

 様子のおかしい冬子にどう接するか、と悩みながらやってきた大学の学友たちは、拍子抜けした。

 元気付けよう、相談に乗ろうと意気込んで会ってみれば、当の本人が上機嫌なのだ。

 気遣い損をしたと文句を言う者もいれば、悩みが解消されたなら良かったと言う者もいた。

 講義の合間に声をかけてくれた誰もが、安心したような顔をしている。彼らに感謝と謝罪を伝えながら、冬子は静かに驚いていた。

 自分で思う以上に多くの人が冬子のことを気にかけてくれていたのだ。嬉しい驚きに、胸が暖かくなる冬子だった。

 人間関係については明るい気持ちになれたが、前回の試験はあまり芳しくない結果に終わった。

 心ここに在らず、という有り様で挑んだのだから当然ではある。しかし、見直しをするとささいな間違いがいくつもあり、冬子はとても悔しく思う。

 一度、もう少しやれたはずだと思えると、他の講義にも気合いを入れて取り組むことができた。

 ただ座って漫然と過ごしていた時間が、一気に忙しなくなる。しかしその忙しなさは不愉快なものではなく、むしろ身の引き締まる思いといえるものであった。

 大学生活が生き生きとしてくると、それ以外の部分でもやる気をもって活動したくなってくる。

 冬子は手始めに、日曜日にまとめて片付けていた家事のうち、洗濯に関しては毎日行うことにした。そのために起床時間を早めたところ、朝食を食べる時間ができた。

 雨の日には洗濯ができないため二度寝してしまったが、週に一、二回ならばそんな日があってもいいだろう。

 大学でも私生活でも順風満帆といった調子の冬子だが、さすがにアルバイト先ではそうはいかなかった。

 小言ばかり言うパートのおばちゃんは、相変わらずやかましく小言を聞かせてくれる。仕事も以前よりやる気を持って取り組んでいるが、要領の良い他のアルバイトの子のようにはうまくできないこともある。

 けれど冬子は、そこでまあいいやと思うことを止めた。

 自分のどこが要領を悪くさせているのか考えて他のアルバイトの仕事ぶりにも気を配り、おばちゃんの小言からも何かヒントになる言葉はないかと聞くことにした。

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