二十六話
目を見開いた冬子の前には、カノとルゴール隊長。
その後ろには、イーラとネスクの姿もある。
テント内に沈黙が落ちる。
瞳をうるませたカノが一歩前に出て口を開きかけたとき、緊張していた空気に綻びができ、冬子はその隙間を縫うようにして出入り口めがけて駆け出した。
カノ、ルゴール、イーラそしてネスクの横を一気にすり抜けて、そのままの勢いで布扉を跳ね上げてくぐる。
外に出た冬子は、速度を上げて強く強く地を蹴った。
土ぼこりを巻き上げながら空高く跳躍する。
一瞬で遠ざかる野営地。
耳元で風がうなり、地上ははるか下に見える。けれど、冬子の胸にはじめて空を跳んだときのような爽快感は訪れない。
逃げ出した。
彼らがなにか口にする前に、自らが前回の完全な敗北に言い訳をはじめる前に、逃げ出した。
もう戦いたくない。最強になんてなれなくていいからその役割から逃げ出そう、と。
それが、この一週間ずっと考え続けて冬子が出した答えであった。
本当は、この世界に再び喚ばれることがないように願っていた。
そのためにいつもは着ない服を着て、いつもとは違う行動を取ろうとあまり興味のないファッション雑誌を買ったのだ。そして眠らなければ呼ばれないかもしれないと考え、徹夜して読破したのに、意味はなかった。
もう喚ばれたくない。喚ばれないためにどうしたら良いか、そればかりを考えていた冬子は来てしまったときのことを考えていなかった。
そして、心の準備もできていないところにカノや隊長たちの顔を見て、混乱した。混乱して、とっさに浮かんだ逃げてしまいたいという思いのままに飛び出してきてしまった。
逃げた。逃げてしまった。
その考えだけが頭の中を巡り、冬子の足は止まらない。
しばらくそのまま進み続け、ふと人でにぎわう道を見つけた。
道から外れたところに着地して、冬子はそっと人の流れに乗る。
この辺りは普段から人通りが多いのだろうか、街へと続く坂道は広く、固く踏みならされている。
道のまわりには丈の低い草が生い茂り、延々と葉のない木が坂に沿って並んでいる。いずれも見上げるほどの高さだが、植物に詳しくない冬子には桜の木に似ているということしかわからない。花が咲いていればわかるけど、と目をこらすが枝に見えるのはつぼみばかり。花の時期には少し早いようだ。
ルゴール隊長たちの野営地とは明らかに異なる風景に、いつの間にやらずいぶんと遠くへ来てしまっていたようだと冬子は考える。
隊長たちの国は山あいにあると言っていたから、ここは違う街なのだろう。
今はまだ彼らと向き合うことを考えられない冬子は、思考を放棄してふらふらと街に向かって坂を登って行った。
坂を登っていくと、坂の両脇に立っていた木がそこらじゅうに乱立するようになる。いずれも葉のない木ではあるが、絡み合うように伸ばされた枝によって陽光は遮られている。
けれども薄暗くならないのは、それぞれの木につけられた小さな明かりのおかげだろう。どういう原理か不明だが、火の玉のような見た目をしたその明かりは、剥き出しでゆらゆらと揺れながら木を燃やすこともなくそこにある。
優しいオレンジの明かりに照らされた木々の合間に、ちらほらと建物が見えた。いずれも木造で、木の陰に隠れるようにして建っている。木そのものの色をした質素な造りの建物は、木が立ち並ぶ風景に埋もれて目立たない。
もしもこの木がすべて桜だったならば、花が開いたときはさぞや見事だろうと思いながら冬子は足を進めた。
どうやらこの街は丘の斜面にあるらしく、歩けども歩けども坂が終わらない。
一緒に歩いてきた人々は定宿でもあるのか、それぞれに木々の間に消えていく。
あてもなく歩き続ける冬子は、どんどん坂を登る。
坂を登りながら、まったくスカートというのは運動に適さないものだと冬子は思う。
動く際にはめくれ上がる心配をしなければならないし、歩けば足に絡まってくる。立っているだけなのに風にまで配慮しなければならないとは、どういうことか。人が着ているのを見る分には可愛いと思うが、自分で着ると不便さばかりが気にかかる。
そんなことを考えながら視線を足元に落とした冬子の目に、歩くたびにひらひらとひるがえる花柄のスカートが映る。どういう原理か、冬子は昨日の夜中に着た花柄のワンピースとスリッパを身につけてこちらの世界にいるのだった。
どうやら喚ばれたときの服装がそのまま適用されるらしく、ワンピースにスリッパというちぐはぐな格好をしている。いつもパジャマがわりのシャツだったのは、その服装で寝ているからだったのかと納得した。
今度から日曜日は早めに起きて、ジャージにでも着替えておこうかな。室内で靴を履くのは嫌だから、それは引き続き隊長のテントに用意しておいてもらおう、とそこまで考えて冬子は首をふる。
もう戦うのは嫌だと、逃げ出してきたばかりだ。
冬子が戦わなくて良くなり、カノも帰ることができて、ついでに隊長たちの新しい国づくりもうまくいく良い案はないものか、と考えながら歩き続けていると、前方にひときわ大きな木が見えた。
ひと目見ただけで、それがこの丘の街を守る神なのだとわかる。
巨大なだけでなく、どこか優美さを持った美しい木に吸い寄せられるように冬子は坂の頂上を目指していった。