二十五話
冬子は布団の上ではね起きた。
見開かれた目に映るのは、一人暮らしをしている自分の部屋。
一人きりの部屋に広がる静寂を荒い呼吸がかき乱す。
耳元でうるさく鳴る心臓の音に、冬子は自分がまだ生きていることを実感した。したけれど、ぼうっとなった頭はうまく働かない。
思うように動かない体をぎこちなく丸めて、身の内から聞こえる鼓動にすがりつく。
じっと動かず息も止めて、固く目をつむる。
乱れた呼吸音がやむと、聞こえるのは自らの脈動のみ。
「……ふーーーっ」
しばらくそのまま丸まってから、冬子は長く息を吐く。
ゆっくりと体を起こしたときには、心臓も落ち着きを取り戻していた。
冬子は力を込めすぎて白くなっていた指先が、いつもの肌の色を取り戻していくのをじっと見つめる。
特別にきれいなわけでもない、ただ頼りないだけの自分の手。
「枯れて、ない……」
思わずつぶやき、さっきの枯れ枝のような腕を思い出して血の気が引いた。
左のひじから指先までをなでさする。腕、腹、顔、背中、足と体中の傷つけられた箇所を触ってみる。
「どこも痛くない」
枯れていた左腕は暖かく、柔らかい。感覚もあるし、冬子の意思に従ってきちんと動く。どこにも痛みはなく、体のいたるところに触れた指先に血がつくこともない。
けれど、それを確認しても冬子はほっと息をつくことはできなかった。
痛かった。怖かった。逃げ出したかったのに、何もできずにただ頭を抱えてしゃがみこんで、立ち上がることもできなかった。
傷ひとつない指先がかたかたと震えだす。
のどの奥がぐうっと狭まり、目から鼻から熱い液体がこぼれ出す。
怖かった。
冬子は布団の上にうずくまる。
強くなんてなくていい。戦える力なんてもういらない。
カノを助けたい気持ちが無くなったわけではないけれど、逃げ出したい気持ちのほうがはるかに強い。
しょせん自分には無理だったのだ。現に特別な力を貰った非現実的な世界でさえ、手ひどく負けている。そんな人間が誰かのヒーローになるなんて、そんなものは子どもの戯言でしかなかった。
冬子の中で、自分に対する否定の感情ばかりが膨らんでいく。
強い人間になどなれない、何ができるわけでもないと、自分のことなどとうに見限ったと思っていたのに、心のどこかにかすかな期待を残していたらしい。
自分の未練がましさに、冬子は呆れてしまう。
高いところにあった太陽が姿を消し、部屋の中に冷えた空気がじわりじわりと溜まっていく。薄暗くなっていく部屋で冬子は布団にうずくまったまま震えているのだった。
翌日、月曜日。冬子の不調は誰の目にも明らかだった。
終始うつむき加減で、講義の間じゅうほとんど身動ぎもせずに座っている。ノートはとっているが意欲的に話を聞いているようには見えず、常に上の空か、なにかを考え込んでいるような様子である。
予告どおりに行われた小テストは淡々と解いていたものの、同じ講義を受ける女子学生が出来栄えを尋ねても歯切れの悪い返事しか返ってこない。前回の講義時に見せた自信ありげな態度は、かけらも見られなかった。
周囲の心配の声に弱々しく応える姿を見て、挨拶を交わす仲になっていた男子学生が何かあったのか、と声をかけるも反応はにぶい。
いつもであれば声をかけられた時点で挙動が不審になり、いくぶん慌てた様子で応対する冬子がうつむき加減ではあるが取り乱さずに返事をするのだ。冷静というには反応が悪いが、常の彼女とは明らかに違う。
ぼうっとしているかと思えば、黙って考え混む。そんなことを繰り返している。
週のはじめはそんな状態であったが、中頃からはそこに変に明るい態度が加わった。
一人でいるときはうつむいて考え込んでいる様子を見せる冬子だが、心配した学友が声をかけるといつになく明るい調子で口数が多くなる。
しかし話している内容はうわすべりし、ろくな会話にならない。
そっとしておけば一人で考え込んでしまう。
相談に乗ろうにも本人に話す気が見あたらない。
どうしたものかと、冬子の周囲が気をもむ週となったのだった。
結局、大学の友人たちが手をこまねいているうちに土曜日になる。
相変わらず様子のおかしい冬子であったが、週に一度のアルバイトを休みはしなかった。
覇気はないものの、考え込んで仕事に差し支えることもない。苦手に思っていたパートのおばちゃんなど、もはや悩みの種とも感じていない様子で、機械的に仕事をこなしていく。
仕事の途中、おばちゃんに捕まっていつものごとく小言を食らうも冬子の反応はにぶい。
何を言われても顔をしかめたりむっとすることもなく、相づちを打つ声の調子も一定だ。
仕事に対する誠意が見えない、遊び気分で来ているなら迷惑だ、やる気がないならやめてほしいなどと言われても、冬子は腹を立てたり悲しげな顔をするどころか深くうなづいてその通りだ、と同意までしてみせる。
どうにも手ごたえのない相手に飽きたのか、それとも様子のおかしい冬子に困惑したのか、おばちゃんは早々に小言を切り上げると仕事に戻っていった。
「誠意がない、遊び気分は迷惑……やる気がないなら、やめるべき、だよね……」
残された冬子は、言われた言葉を繰り返してひとつうなづくと、止まっていた手を動かし始めるのであった。
土曜日、アルバイトを終えた冬子は二十四時間営業の飲食店に向かった。
安さが売りのその店の食事は、たいしておいしいとも思えなかったが、明るい店内にいられるだけで十分だ。客でごった返すほどではないがそこそこ混んでいて、ほどよく騒がしい点も今の冬子には嬉しいところである。
注文をして数分で提供された食事をできるだけゆっくり時間をかけて、食べていく。
食後には、お茶を飲みながら携帯電話をいじる。
冬子は飲食店には食べるために行くのだと考えているため、いつもであれば食後はすぐに立ち去るのだが、今日はできるだけ長く居座りたかった。
随所に置かれた水入れから自由におかわりできる水を注いではすすり、時間を稼ぐ。
しかし、客の入れ替わりが激しいその店では長居しづらく、あきらめて一時間ほどで席を立つ。
夕食を済ませてしまえばもう用事はないのだが、部屋に帰りたくない冬子はぶらぶらと歩き回り、遅くまで開いている大型スーパーのフードコートで携帯電話をいじったり、コンビニで雑誌を眺めたりして時間をつぶす。
思いつく限りの寄り道をしたが、コンビニを後にしたのは深夜二時。日曜日の朝を迎えるには、まだまだ長い。
「……はあ、帰るか」
冬子はため息をついて、携帯電話をポケットにしまう。行く当てはなくなり、仕事に、道草に、立ち読みにと酷使した足も痛む。
最後のあがきと、冬子はできるだけゆっくり歩き、コンビニの袋をゆらゆらさせながら家路についた。
部屋に帰ると、冬子はすべての明かりをつけた。玄関、キッチン、風呂、トイレ、それから部屋の電気と電気スタンドまで、すべての照明が狭い室内を明るく照らす。
部屋の隅の暗がりに、ふと吸い込まれてあの世界へ行ってしまうような気がしたのだ。
そうしておいてからさっとシャワーを浴びた冬子は、いつもの白いシャツではなく花柄のワンピースをたんすの奥から引っ張り出した。
一目惚れして買ったものの、ひざ上丈のスカートを着て出かける先もなく、しまいこまれていたものだ。
ワンピースについていたおりじわを伸ばして着た冬子は、コンビニで買ってきたファッション誌数冊を机に広げた。
いつもは着ない服を着て、いつもは読まない本を読んで、カノのことを頭のすみに追いやり夜を過ごす。
買ってきた雑誌の端から端まですべて読み終えて、疲れた目をふとあげればカーテンのすき間から薄青い空が見える。
寝不足でぼやける頭を軽く振り、冬子は立ち上がる。目を閉じてあくびをひとつ、し終える前にぐらりと意識がゆれて、驚きに目を見開いた。




