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――あれから数十分後
背後で水音がする。
俺は周囲に気をくばるふりをしつつ、木立越しに背後を盗み見た。
そこに見えるのは、栗色の髪と白い裸身。
エルリアーナのものだ。
騎士を務めるだけあって、引き締まっている。しかし、それなりに女性らしい、柔らかな曲線を描く身体だ。
残念ながら、こちらに背中を向けて……。
ん? 何だ、あれ……。
背中に走る、いく筋かの傷跡らしきもの。それは、姫巫女であるエルリアーナには似つかわしくないものであった。
彼女の過去に、何があったのだろうか?
ガンディール王国や聖地エルズミスにおいて、アルセス聖堂騎士団は厄介者扱いだったはず。にもかかわらず、姫巫女である彼女が騎士団に加入しているわけだ。やはり、ガンディール王国の滅亡が関わっているのか?
その時何が起きたのか?
おそらくそれは、触れてはいけないものだ。
……見なかったことにしよう。
俺は罪悪感を覚えつつ、正面に向き直った。
ここは、セルキア神殿近くの小川。
そこでエルリアーナのスボンと下着を洗濯し、身体を洗っているのだ。
濡れたままではかわいそうだしな。
俺はというと、彼女に背を向けて見張りなどしている。
この辺りでも、獣とかが出る可能性があるからな。
ちなみに騎士団の連中は、先生のかけた暗示を受け、おとなしく帰っていった。
俺達は騎士団の手持ちから旅に必要なものを失敬……もとい、借り受けて準備を整えた。
馬や携帯食料などである。咲川先生からも金貨を何枚かもらった。
そうして俺達は旅の準備を整えた。
準備が整ったのを確認すると、先生は何やらエルリアに耳打ちしていた。
口元がニヤついてるんだが……。
一方のエルリアは少し困ったような顔をしていた。
何の話だ? 少々イヤな予感もしないでもないが……
それが終わると、先生はどこかに転移して行った。
どこへ行くんだろうか? 聞いたが答えてはくれなかった。
……申し訳なさそうに、濡れたズボンをどうにかしたいとエルリアーナが言い出したのは、そのあとのことであった。
どうやら鎧はグレードアップしたけど、鎧下はそのままだったらしい……。
――しばしのち
背後で水から上がる気配があった。
そして、衣擦れの音。
いかん。つい頭の中でその光景を想像してしまった。ちょっと年上の綺麗な女性が服を着る音は、少々刺激が強い。
次いで、鎧を着る音。
しばらくして、音が止んだ。着終わったのかな?
「もういいかい?」
「大丈夫です。ちょっと下が心許ないですが……」
服を着終わったようなので、振り返る。
上半身には鎧をまとい、下半身は半分に折ったマントを巻いてスカート代わりにしている。手に持っているのは、洗い終えた下着とズボンだ。
「えっと……」
兜を外した彼女の顔は初めてみた。
跳ね上げられた面頬のためによく見えなかったが、鳶色の綺麗な瞳が印象的な可愛らしい顔だ。かなり整った美しい顔立ちと言える。……そういえば、どことなく女神アゼリアに似てるかな?
「えっ……何ですか? まさか、まだ臭う……」
彼女は顔を真っ赤にし、うろたえた。
その仕草も以外と可愛いらしい。
もっと冷静沈着な人だと思っていた。
もしかしたらあの騎士団の中にいたことで、かなり無理をしていたのかもしれない。
「いや……何でもないよ。それより、それをそこいらに干したら、食事にしよう」
「はい!」
元気のいい返事だ。
俺達は川辺の大きな石に並んで腰掛け、携帯食料を口にした。
小麦粉やら肉やらを混ぜ合わせて焼き、干して固めた代物と、幾つかのドライフルーツだ。
あまり美味いものではないが、腹はふくれる。
現在は午前六時。
……スマホの時計によれば、だが。しかしここは、すでに太陽が高く上がっている。日本よりもプラス三、四時間ぐらい進んでいるのかな?だとすれば、九時か十時ぐらい。遅い朝食だな。
「ワタリ様は、アゼリア様と親しいのですか?」
ドライフルーツをかじりながら、エルリアーナが問うてきた。
「彰人でいいよ。う〜ん……親しいってわけじゃないけど、顔見知りではある」
隣のクラスの担任であり、俺のクラスの数学の担当というだけで、それ以上のものではない。
「分かりました、アキト様。私もエルリアで良いです。それにしても、顔見知りですか……。でも凄いです。上位の神官ですら、声を聞くことは出来ても、そのお姿を見たことがある人は、ほとんどいないのです」
「そういうもんかな……。先……アゼリア様は、向こうでは学校の教師をやってるんだ」
「ああ、だから『先生』って……。でも、どんな学校なのです? アゼリア様が教えているということは、使徒や勇者を育てる学校なのですか?」
「いや、普通の学校だよ。アゼリア様は正体を隠して普通の人間としてふるまってたしさ」
「そうなのですか……。でも、何故アゼリア様は異界に行かれているのでしょう?」
「う〜ん、あの人がなんで俺達の世界に来ていたのかは、結局聞きそびれちゃったな」
うかつに聞くとヤバそうな雰囲気だったし。
「そうですか……」
「そうだ、この世界のことを教えてくれないかな。どうやら俺の知識は17,8年くらい古いらしいんだ」
「第十一次魔王戦役の頃ですね」
「あ、やっぱりあるんだ、そういうの」
魔王戦役か……。ゲームだと、プレイヤーは女神アゼリアに選ばれた勇者となって魔王を倒すために旅立つというシナリオだった。それがここでは魔王戦役と呼ばれているのだろう。そういえば、ゲームの世界では一万年前から光と闇の戦いが続いていたという設定だったが、十数年前に行われた戦いが、その十一回目という事か。
「ええ。突然魔王ユーリルがエルズミスの大神殿に現れ、宣戦布告したことをきっかけに始まった戦乱です。まずは大陸の東西にある二つの大国が魔王軍に対抗すべく挙兵しようとしました。しかし、西の大国リーマス共和国は自壊、ガンディール王国のみが魔王軍に対抗できる状態でした」
この辺はゲームのアバンで語られる。
「で、ガンディールは勇者を旅立たせた、と。ヴァルスとかいう名前だっけ?」
「ええ。姫巫女であるエルマーヤは女神の神託を元に、勇者ヴァルスラーナを選び出しました」
「なるほどな……」
妙に長いディフォルト名だと思ってたが、この世界の実在の人物だったか。
「ええ。彼は当時勇者として名高かった将軍イルムザール様の長子でした」
イルムザール……当時大陸最強と言われた剣士の一人。幾多もの試練を乗り越えた勇者だ。
にしても、エルリアの表情が一瞬うっとりとしたのが気にかかるんだが。
……まぁいいや。
「確か、志半ばで倒れるんだったよね?」
「ええ……。残念ながら、異界より現れた魔物と戦い、倒れられたと聞いています」
彼女の声色に、悲しみの色が混じった。
イルムザールとは知り合い? にしては、年齢が合わんのだよな。
それよりも、気になることが一つ。
「ん? ……魔王の手下ではなくて?」
俺が知る彼は、魔王の手下と相打ちになったはずだ。ゲーム中では、だが。
「ええ。……その、げーむとやらではそうなっているのですか?」
「うん。そのゲームを作ったのは、もともとこの世界にいた人らしいんだ。で、17.8年ぐらい前に死んで、俺のいた世界に転生してたらしい。もしかしたら、その人の勘違いかもしれないね」
「この世界にいた人、ですか……。もしかしたら、魔王戦役で亡くなった人かもしれませんね」
「一応、勇者と四人の仲間に魔王が倒されるところまではゲームで描かれてるんだけど、結果はあってる?」
「ええ。でも……市井で語られる伝承では、勇者の仲間は、元剣闘士アレオス、大司祭ローベルト、魔女ヴァレンティーナの三人でした」
「へぇ……」
三人の名も、ゲームと同じ。ゲーム中だと、選択次第でNPCの異界人剣士が加わることもあるんだが、これはオリジナルか?
「でも、私達神殿の関係者はもう一人、名前を告げずに去っていった剣士がいたということを知っています。もしかしたら、そのげーむを作った方は、神殿関係者だったのかもしれませんね」
「そうなんだ……」
ふ〜む。ゲーム中の剣士もデフォルト名は無かったな。
と、その時、忍び寄る“何か”の気配を感じた。川のすぐそばにある茂みの中だ。
「エルリア……」
「いますね。何者かはわかりませんが……こちらには好意的な相手ではなさそうです」
彼女はうなずくとドライフルーツを石の上に置いて立ち上がり、ヘルメットをかぶると剣を抜いた。
俺もそれに従う。
「アキト様、私の後ろに!」
「あ、ああ」
とはいえただ守ってもらうのも気がひける。いつでも援護できるよう、心の準備をしておこう。
「……来る!」
エルリアの鋭い声。
同時に茂みの中から小さな影が幾つか飛び出した。