プロローグ―乙姫就任―
美しい容姿の男が窓辺で小さくため息を吐いた。
なぜだろうか――――そこは美しい景色が望める場所だというのに……
「乙姫―――――」
憎んでいるのか慈しんでいるのか分からないように男はその名を呼んでいた。
ああ、あの髪に肌に……何より自分を映すあの瞳がこの胸に残る。
彼女は清らかな水そのものだ。
美しくしなやかで優しいが、時に荒々しく鋭くもある。
夢のような美女――――そう誰かが例えたのを思い出す。
嗚呼、もう遠い日なのだ―――
何もかもが――――………
男は再び、窓辺から美しい世界を見つめた。
※ ※
日本古来より様々な神話が現代に語り継がれているが、その姿を目にするものは多くはない。
日本には多くの神が祀られており、様々な信仰がある。
例えば、四海竜王。
その名の通り四海を治めるとされる四人の竜王のことである。
四人の竜王は、水中の主であり、幾千もの眷属の龍達を龍宮に抱え、長い間この地を水の中から支えていた。
四海竜王とは、東海龍王で蒼龍の敖廣、南海龍王で赤龍の敖紹、西海龍王で白龍の敖閏、北海龍王で黒龍の敖炎のことを指す。
敖廣は龍種の長であり、暗闇を司り、騎獣は青観疏。
敖紹は炎と冷気を司り、騎獣は紅飛廉。
敖閏は風と音を司り、騎獣は白麒麟。
敖炎は雨と雷を司り、騎獣は火眼黒俊猊。
そして、この四海竜王の中で唯一異質なのが何色にも染まっていない白龍の敖閏であった。
敖閏は四海竜王で唯一の女であり、血の気が多く争いを好む龍族のなかで中立的立場で物事を冷静に考えられる存在である。
そのため、実質龍族の軍師として君臨している。
また、そのことから皆彼女のことを親しみを込め、”乙姫”と呼び、龍宮の女王として崇められていた。
何にも染まらぬ”白”の乙姫だからこそ新たな眷属を生み出せることができる謂わば龍族の母なる存在であり、その他の竜王や騎獣は彼女の守護の役目を担っている。
今の”乙姫”は前任の敖廣の三女であり幼名を善女という。
しかし、この乙姫は突然の前乙姫の死により、急遽選ばれた者で右も左も分からず実質、その他の竜王が彼女を支えながら政を行っていた。
そして、前乙姫が死するきっかけとなったのが、龍族の天敵である空を統べる鳥族の金翅鳥である。
彼らは、口から金の火を吹き、赤い翼を広げると336万里にも達するとされる龍の捕食者。
龍族と鳥族は長年、相いれぬ存在として対立してきた。
――王の名は”迦楼羅天”
この迦楼羅という男は非常に頭が良く、昔から人間に取り入るのが上手かった。
龍族は短気な者が多く、人間界に適応出来るものは少ない。
それゆえに、目につきにくい深海にその宮を構えたのだ。
しかし、深海からでは地上の様子は伺えない。
どうしても、金翅鳥に見つかり易い地上に出向かなけらばならない事もある。
”世は三つの力が均衡することによって保たれる”と前乙姫は説かれた。
そう、どれが強過ぎてもいけない。
もともとは、乱暴だとされる龍族がこの均衡を壊してしまうことがしばしばであり、よく地上によからぬ天災をもたらしたものだが、前任の乙姫が就任してからは彼女の教えの元、竜王や配下たちは世の均衡を護るため尽力していた。
しかし、あの男が迦楼羅天に就いてからはその口の上手さから人間を誑かし、天界では飽き足らず地上にまでその力を伸ばし始めたのがきっかけで次第に均衡は崩れ去っていった。
本来、暗黙の了解として地上には踏み入れないようになっていたのだが、その決まりを迦楼羅は犯した。
前乙姫は”就任したばかりの若い迦楼羅天が若さゆえにした過ち”だと、他の竜王も連れずに迦楼羅を説得しに向かったのだが、迦楼羅はそんな乙姫の言葉に耳を傾けず、乙姫をその場で斬捨てあろうことか、龍族への宣戦布告としてその首を龍宮に届けた。
龍族の長であった善女の父が責任を感じ自害したため、彼女の兄が敖廣に就任した。
父を死に追いやった迦楼羅を酷く憎み戦争を仕掛けようとした兄を宥めたのが善女であった。
善女は前乙姫の弟子のひとりであり、考え方も前乙姫と非常に似通っているところがあった為、前乙姫の気持ちを組み兄を止めたのだ。
「迦楼羅の所業は確かに許しがたい。
しかし、我々のすべき事は仇討ちではないと私は考えます。」
「乙姫様を殺され、父を殺され、仇討ちをせず何をしろというのだ、善女!」
龍族の男としての血が色濃い彼女の兄はよもや復讐に燃えていた。
迦楼羅を撃ち負かすことこそが乙姫や父へのせめてもの報いであると信じて疑わない。
「金翅鳥を滅せば、じきに世の均衡は失われるでしょう。
金翅鳥の未来はおろか、世に生きる全ての未来を奪う責を負う覚悟が貴方にあるのですか?
…私にはありません。
乙姫様が護ろうとした世界を乙姫様のためと銘打って危機に晒すこと等出来ません。
乙姫様の覚悟を…尊いお命を、どうか無駄にはしませぬよう―」
妹の言葉に最早返す言葉がなかった。
そして、彼は妹の成長と”乙姫”としての素質を感じていた。
「それでは、お前ならばどうするのだ?」
「私なら…いえ、乙姫様ならあの時のように迦楼羅をお止めになるでしょう。
私は乙姫様ではないので、具体的な方法とまでは思いつきませんが…」
兄は妹の言葉を重く胸に留めていた。
そう、乙姫からの言葉のように――。
そして、暫くして後任の乙姫を決めるため、竜王たちが集められた。
「次期乙姫にはやはり乙姫様の一番年の弟子にするべきなのではないのか?」
深い意味などない。
ただ、年上なので経験が豊富だろうという理由だけで推薦しただけだった。
「いや、」
皆が頷きかけていたところで、敖廣が口を開いた。
「これはこれは、若き長よ。
何か名案でもございますのかな?」
竜王の中で最年長である、敖紹が少し馬鹿にしたように敖廣を見やった。
どうせ、若造の敖廣など威勢がいいだけでロクな案などないくせに、目だとうと名乗り出たのであろうと思っていたからだ。
「乙姫には我が妹の善女を推薦する。」
「「!!」」
これには、敖紹と敖炎も驚いた。
まさか、自分の実妹を推薦しようとは夢にも思わなかったからだ。
「これはこれは、なんと言いますか…お身内を推薦とは、」
「そうだ、敖廣…笑えんぞ。」
二人は冗談だろうとタカをくくっていたが、敖廣は至って真面目に答えた。
「冗談で乙姫様の後任などと口にはしない。
俺が見るに贔屓なしでこの龍族の行く末を見据えられる力を持つのはおそらく善女を除いてはおらんだろう。
あいつは龍族の癖に争いを嫌うのだ。
まるで乙姫様のようではないか…確かにあやつは若い。
しかし、若いからといってその素質を潰す浅はかな考えは龍族を滅ぼすぞ」
二人は何も言えなかった。
確かに彼女は少し皆と違っていたから。
父が箱入りで育てたということもあるだろうが、それ以上に良く乙姫の話を熱心に聞いていたのは彼女だけだった。
龍族の女たちは乙姫になるべく素質を潰してしまわないように幼い頃から皆一貫して乙姫からご教授を賜ることになっている。
しかし、大抵のものが派手好きで争い好きなため、本気で聞いているものは少ない。
そんな中で、熱心に乙姫の言葉をその胸に止めようと大きな目を広げ乙姫を見ているのだから皆の記憶にも色濃く残る存在であったのは確かだ。
そのため、乙姫も彼女を気に入り良く二人で話している姿も幾度も見てきた。
皆もいずれは善女が乙姫になるだろうとは思っていたが…それにしても若すぎる。
それゆえに頷けないでいた。
確かに年をくっているからといって賢いとは言わないが、どうしても舐められる傾向にあるのだ。
それが、乱暴者の龍族となれば尚更。
そうでなくとも、無駄な争いを避けるためと龍族の実権を”乙姫”という女に任せること自体を良しとしない輩もいる。
「足りぬところがあるのなら我々が補えばいい。
我々男共は血の気が多すぎるのだ、いくら頭で考えていても手が先に出る。」
確かにそれはそうだ。
今この時ですら、頭の中は打倒迦楼羅一色である。
「彼女の騎獣には、莉白をつければ良い。」
敖廣の提案に敖紹と敖炎は難色を示す。
このふたりは莉白にはどうもいい思い出がないのだ。
「しかし、あやつは飄々としておるし、何よりやる気というものが伺えん。
事あるごとに問題を起こしては前任の白麒麟にこっぴどく怒られておったではないか。」
敖炎が嫌そうに答える。
敖炎も莉白にはかなり迷惑をかけられたうちの一人であるから、納得し難いのであろう。
それに加え、莉白という男はどうも、反省をしないというか、物事を深く考えていないように見て取れるところがある。
「あやつは、才はあるがそれが正しいところに使われているとは思えんからな。」
敖紹が可笑しそうに笑う。
しかし、決して莉白のことを本当に嫌いなわけではない。
確かに、度々騒動を起こす困った奴ではあるが何処か憎めないところがあるのは確かなのだ。
「そうそう、あやつが術の練習と称して白麒麟の宮を派手に壊したときは驚いた。」
「ああ、浄水の練習で何故、宮が壊れるのかと思ったほどだ。」
敖廣がその時の様子を思いだし”困ったやつだ”と笑う。
浄水とは、龍族の術の中で一番簡単とされる術であり、ただ単に不浄と化してしまった水を浄化するものである。
それに訓練といえば、小さな瓶の中の僅かな水を浄化させるだけなのだが…莉白という男の手にかかれば、立派な白麒麟の宮を破壊させる大事となるのだ。
「やはり、血筋は悪くないが莉白に白麒麟の任は重かろう。」
敖紹が首を横に振る。
今までの行いから考えれば、順応で賢くあらねばならない白麒麟に一番程遠い存在であるようにしか思えない。
そんな男を、ましてや若く勝手が分からぬ”乙姫”の騎獣になど考えられなかった。
あやつを従えられるのは、最早、よほどの腕利きの猛獣使いでないといけないだろう。
生半可な奴では、あの剽軽さからすぐにこちらが手玉に取られてしまう。
「いや──
莉白には”あれ”があるではないか」
その言葉に二人の表情が強ばる。
それは長い間、龍族の中でも触れたくない話だった。
それは、莉白を白麒麟にし難いもうひとつの理由でもあった。
「しかし、”あの力”は紙一重とも呼べる代物じゃぞ。」
敖廣が窓際に立ち地上を見つめた。
美しい真珠が七色の光を放ち、この深い海の底でも暗いと感じることはなかった。
しかし、乙姫なき今、海底を照らす白い真珠も光が弱まっているように思える。
「だからこそ、あやつしかおらん。
今の龍族の危機を打ち砕けるのはあやつのような男なのかも知れん。」
敖廣の言葉にふたりも思うところがあったのかそれ以上は何も言わなかった。
心のどこかで二人も思っていたのかも知れない…”もしやあの男なら”と──
「異論はないな。
乙姫には我が妹である善女を、
そして…騎獣・白麒麟には莉白を任命するとしよう。」
新たな世界の安寧の為、龍族の未来はこの二人に託されることとなった。
若すぎる筆頭に、癖のある従者。
決して、適任とは言い難いが今はこの二人に任せるしかないのかも知れない。
そんな考えが三人の頭を過ぎっていた。
※ ※
深海にも関わらず色とりどりの華が彼女を囲んでいた。
彼女は惜しげもなく真珠が施されている美しい着物を身にまとい玉座に座る。
その女は、流れるような美しい菫色の髪と瞳、陶器のように白い肌。
それに加え、長い睫毛にパッチリとした瞳…まさに女神といったような容姿の女性。
歳は、人間で言う二十歳くらいであろうか…
「兄様、私…」
「情けない声を出すのではない。
お前は今日から我々の筆頭となるのだからな。」
彼女は憂鬱でしかなかった。
まさか自分が乙姫になるなんて夢にも思わなかった。
いや、いつかはと乙姫様に言われていたがまだ若い善女はずっと先の話だと思っていたからだ。
「待たせちゃいました?
いやー、正装ってなかなかないもので着方が分からなくってですね、」
にっこり笑った男に善女と敖廣はめいっぱい顔を歪ませる。
その莉白と呼ばれた男は、なんというか全体的にのんびりとした印象の男だ。
顔立ちは整ってはいるのだが、覇気というか生き物としての大切なものをどこかに忘れてきたような…謂わば阿呆に見える。
とても、残な男だ…何かが足りない。
「お前は…善女くらい緊張感を持て!」
「まぁまぁ、そんな怖い顔してちゃいけませんよ、敖廣さん。
そんなにお固く縮こまっていても上手くいくものも行かないですよ。
ほら善女なんて能面みたいな顔じゃありませんか、そんな顔面が残念な”乙姫様”に遣えるなんて嫌ですよ。」
笑う男に善女もだんだんと腹がたってきた。
「莉白!
貴方は昔からぬけた男だと思っていましたが…貴方が私の騎獣なんて頭が痛い…
それに、顔面が残念とは…他意を感じるのですが…」
彼女は小さくため息をつくが莉白はいつものようにヘラヘラした様子のままだ。
「まぁ、いいじゃないですか。
善女みたいな我が儘なお姫様には私くらいが丁度いいですよ。
ほら、他の方だと過労で死んじゃいますから。」
「誰が我が儘ですか、誰が…」
”あれ? 自覚ないですか??”
と笑った莉白の頭に真っ白な扇が炸裂する。
「いったぁ…ほら乱暴じゃないですか~。
誰ですか、争いに無縁だからって乙姫様にしちゃった人はー」
「貴方がいなけらば怒りませんし、無縁です。」
そんな二人のやり取りを見ていて敖廣はやはりいいコンビだと確信した。
莉白という男は一見物腰柔らかい男のように見えるが、その洞察力と才能は龍族の中でもずば抜けている。
若い龍族の中ではおそらくトップクラスだ。
そして何より、若い女の善女を軽視することなく皆に平等に接するその態度が龍族の中では異質だった。
それは恐らく彼もまたあの”乙姫”の近くで育ったからであろう。
怒りを抑える術を知っている。
なにより、自身の父を見てきた莉白であるからこそ騎獣・白麒麟として新たな乙姫に忠誠を誓うことが出来ると敖廣は確信していた。
※ ※
「白くなりましたね。」
善女の菫色だった髪と瞳は真っ白に色が抜けている。
これが四海竜王の一角である西海龍王・白龍の敖閏になるということだ。
「お前もだろう。
私たちはこれからこの海域を…いや、乙姫となったからには、」
善女は乙姫としての威厳を持たせるためか、それとも元々あった気質なのか、その口調は龍族の上に立つものらしく少々荒々しくなっていた。
こころがけて多少無理をしているのだろう、そんなところが少し可愛らしいと莉白は感じてしまう。
莉白は優しい微笑みを向ける。
これから、遣える主を気遣うように。
「分かってますよ、貴女の決意は誰よりも…私は貴女の刃です。
離れる事のない契約です。」
彼女が不安そうに莉白を見つめていた。
いくら、そうなるだろうと思っていたとしても、いくらその相手が乙姫だとしても自身が縛られるなどいい気分ではないだろう。
「貴女は本当に龍族らしくない。
素質はあるんでしょうけど、私は反対です。」
善女は莉白の言葉に困ったように笑う。
「お前も大概だな。
人の心配をするのだから向いていないのではないか?」
善女の言葉に”いいえ”と莉白が首を横に振り、優しい笑みを向けて彼女の前に跪いた。
「貴女を護るのが、貴女の願いを叶えるのが私の役目であり私の願いなんですよ。」
真っ白になった二人が地上を見つめた。
これから守るべき地がそこにある。
見たこともないその地を龍族たちはどうして護ろうとするのか、まだ二人はその真意を知らなかった。
それでも、それが使命であるかのように疑わず守り抜くことをこの日決めたのだ。
初めまして、誠人と申します。
処女作ですので至らぬ点も多々あるとは思いますが、どうか末永くお付き合いください。
設定がやや多いですが、少しだけ我慢してもらえると嬉しいです。
よろしくお願いします。
感想やご意見、貰えるとありがたいです。