紅文
よくある話で御座います。
あんまりじゃあありませんか
私を残して逝ってしまわれるなんて
コツコツという扉を叩く音の後「お姉様、よろしいですか」と小さな声。
「なぁに?」
書物から目を上げると、カチャリと扉が開き、ほんの少し不機嫌そうな顔をした妹の蝶子が、不機嫌そうな声で客人の来訪を告げたので御座います。
「……東城様がいらっしゃられました」
「まぁ、優一郎様が?一体どうなさったのかしら」
読んでいた頁にしおりを挟み、五十鈴はいそいそと姿見を覗いて乱れてなどいない髪を直し、客間へと足早に向かうので御座いますが、そんな姉の姿に蝶子は更に不機嫌顔。蝶子にとって五十鈴は自慢の姉。少々頑固な蝶子をいつでも諌めつつも優しく理解を示してくれている五十鈴を慕っているので御座います。
反面、母方の縁戚にあたる東城家嫡男、優一郎を蝶子は苦手としておりました。いつでも人好きのする笑みを浮かべ、気質も優しく嫌う者など無いと云う周囲の者とは異なり、蝶子はどうしても優一郎に良い印象を持つ事が出来ないので御座います。
その五十鈴と優一郎の縁談話が上がっているのを数日前に祖母から聞いて、殊更に蝶子は不機嫌。五十鈴は幼い頃に一目会ったその時から優一郎を好ましく思っていた様で、その話に飛び上がらんばかりに喜んでいるのですけれど。
五十鈴の部屋の右隣にある自分の部屋に戻り、寝台に腰を下ろすと大きく溜息。そのまま上半身を横たえると、シャボンの良い匂いがして、ほんの少し、気持が落ち着いたので御座います。
「そういえば…」
蝶子は優一郎が懇意にしているという友人、女学生達に眉目秀麗と評判の中務光輝の事を思い出したので御座います。その光輝の妹御は同じ教室で学んでいる華月。
やれ何処其処の書生が素敵だの、やれ何処其処の華族の嫡男が麗しいなど、綺羅綺羅しい噂好きな学友達とは少し違い、いつも話の輪から何処か一歩退いた様にしているその印象。その所為かとても落ち着いて見え、けれどだからと云って大人しいと云うのではない、学友から一目も二目も置かれている華月。
「そう……華月様は、どう思っているのかしら」
自慢の兄の友人だという東城優一郎の事を。他の者と同じ様に優一郎を好ましく思っているので御座いましょうか。それとも蝶子と同じ様に思っているので御座いましょうか。
「……馬鹿な事を」
蝶子は自分の考えの愚かさに苦笑い。他の者と同じ考えだったら何だと云うのか。自分と同じだったら何だと云うのか。別に蔑みたい訳でも仲間意識を持ちたい訳でもなし。でも、どう思っているのかをただ聞いてみたいという衝動に駆られてしまうのも事実。
「……あの方なら、どう云うのかしら」
いつの間にか転た寝をしていた蝶子の耳に、パタパタと廊下を早足で歩く音が聞こえ、そして隣の部屋の扉が少々高い音を立てて閉じられたので御座います。
「……お姉様?」
いつもは淑やかな五十鈴が高い物音を立てるのはとても珍しい事。何が起こったのかと蝶子は身を起こして部屋を出て、隣の五十鈴の部屋の扉をコツコツと叩き、お姉様、と控えめに声を掛けたので御座いますが、返事は無し。
「お姉様、如何なさいましたの?」
蝶子がそっと扉を開くと、顔を両の手で覆い肩を震わせている五十鈴が床に座り込んでいたのが目に飛び込んで来たので御座います。
「お姉様?どうなさったの?何か御座いましたの?」
「蝶子ちゃん……優一郎様が……優一郎様が戦地へ行かれると云うの……!」
「え?」
優一郎は近々出兵する事になった旨を、この大ノ宮家に知らせに来たので御座います。それを聞いた父母は五十鈴との祝言を急いたので御座います。ですが優一郎はその人好きのする優しい容貌を殊更に優しく微笑ませ、こう云ったのだそうで御座います。
『――そう急く事は無いのではないでしょうか?……僕が帰ってからでも良いのではありませんか。直ぐに戻って来られるならばそれでよし。もし長々帰って来られないなら尚更に。僕は五十鈴さんに『僕』という枷を作りたくはないのです。人の心は自由じゃあなければなりませんから』
そう云って五十鈴の手を取ったので御座います。
――まぁ!なんて優等生で御立派なお言葉だこと!
蝶子ははらはらと涙を落とす五十鈴の言葉に、そう心の中で呆れた様に思っておりましたが、口からは「東城様はお姉様の事を本当に大切に思われているのね」などと云う言葉が。優一郎を批判する事を周囲の人間は良とはしないので。蝶子のその言葉に五十鈴は更に涙を落とすので御座います。
そんな五十鈴とは反対に蝶子の心は冷めて行き。それでも蝶子は五十鈴に精一杯の笑顔で云うので御座います。
「お姉様、東城様が早く無事にお帰りになられるよう、祈りましょう。ね、お姉様」
「……そうね……それが良いわね…」
心裏腹な、その言葉を五十鈴に云うので御座います。
……多分、心の奥底から真に願うなら、呪詛の方が叶うのかもしれない……そう蝶子は思うので御座います。それとも、ただ自分の憎悪が思いの他強かったのでしょうか。
東城優一郎は、死んだのです。
戦地で無惨な肉塊と化したので御座います。皆が悲しみ、皆が涙した東城優一郎の無言の帰還。だけれど、その骨すら、本人の物かも正直解らず仕舞い。その様な状態で、誰が本当に優一郎が鬼籍に入った、などと信じられるのでしょう。
しかも、東城優一郎は強運の持ち主。数多くの武勇伝も持っているので御座います。もしや難を逃れているのでは……と誰もが考え、いつの日かひょっこり戦地から舞い戻ってくるに違いない……などと考えているので御座います。
蝶子は一向にその様には思えなかったので御座いますが。
だって。死んだと云うのなら、そうなのでしょう?
「ねぇ……蝶子ちゃん……優一郎様は、本当にもう帰っては来ないのかしら……だぁれも知らない異国で、死んでしまったのかしら……」
知らせを受けてから、めっきり床に伏せってしまっている五十鈴に、蝶子はその痩せた手を取り微笑むので御座います。
「お姉様、皆が云っています。東城様はきっとお帰りになられると。だから、信じて待ちましょう。ね?お姉様。元気になって下さいませ。そうでないと、東城様がお帰りになられた時、蝶子が叱られてしまいますわ?」
「いやぁね、優一郎様は蝶子ちゃんを叱ったりするもんですか。あの人は本当に本当に心の優しい人だもの。それに蝶子ちゃんを本当の妹のように思っていてくれてよ?そんな蝶子ちゃんを叱ったりする事など、決してないわ?」
ころころと笑う五十鈴を蝶子は内心哀れに思うので御座います。何故、お姉様は東城様に心を奪われてしまわれたのかしら……と。そうじゃなければ、この様な事にはならなかったのだろうと思うと、蝶子は悔やんでも悔やみ切れないので御座います。
それに蝶子だって、自らのこの様な醜き心根を知る事など、無かったので御座います。……五十鈴の、その盲愛の哀れさを知る事も無かったので御座います。
……憎むべきは、東城優一郎。そして……その名を持つ、蝶子にとってはまるで邪鬼の様な東城優一郎は、更なる追い打ちを、掛けたので御座います。
東城の家から遺品が届いたのは、その訃報から数日後で御座いました。それは、戦地で上官に薦められ書くらしい、覚悟の上の最期の手紙との事。それを手に、五十鈴は自室へと。
どうせ、気障な東城優一郎のこと。歯の浮くような甘言をつらつらと書き連ねているに違いありませんわ。
そう思いつつ、五十鈴の部屋の扉を叩いたので御座います。
「お姉様……よろしくて?」
「蝶子ちゃん?どうぞ?お入りなさいな」
許しを得て、部屋にそっと身を滑らせて、床についている五十鈴の傍へと。
「お姉様……これを」
「なぁに?お手紙……?」
「ええ……東城様から、お姉様へと宛てられた文だそうです」
「まぁ!優一郎様から!?」
まるで、蝶子から奪い取るかの様に其れを手にした五十鈴に、蝶子は姉への『哀れ』と東城優一郎への『憎悪』にその身の内を焦がしながら、静かに部屋を出たので御座います。多分、五十鈴は蝶子が部屋を出た事にすら、気付いていないのではないのでしょうか。
其れに寂しさを感じている其の時。珍しい客人が蝶子を尋ねて来たので御座います。
「……まぁ、華月様?如何なさいましたの?」
今日、女学校を欠席していた、中務華月の姿に蝶子は驚いたように目を丸くしたので御座います。
「蝶子様……不躾で申し訳無いのだけれど……貴方のお姉様、五十鈴様は東城のご子息様の許嫁……でしたわよね?」
今は聞きたくもない其の名に、蝶子は思わず「其れが何か」と少々棘を含んだ声で答えたので御座います。しかし、一見失礼極まりない蝶子の態度に、華月はそっと微笑んだので御座います。けれど、直ぐに表情を改め、真摯な目で云うので御座います。
「……では、蝶子様。信じられぬと思いますが、華月の言葉に一時、耳をお貸し下さいませ。東城様が名誉の戦死をなさったのは、勿論ご存知よね?」
「……ええ」
「では、お手紙等は……」
「手紙?」
「ええ、五十鈴様に東城様からの文か何か、届けられたのではありませんか?」
「今先刻、届きましたけれど……其れが?」
其れを聞き、さぁっ、と華月の顔色が変わりました。
「其れを五十鈴様に見せてはいけません!」
「え?」
「東城様が、戦死されたと東城家に知らせる電報が届いた其の時、東城様の妹様が息を引き取られました。そして……昨日……兄の光輝の下へ、東城様よりの文が使いの者によって届けられました」
「……お兄様へ?」
「兄は、東城様からの文を読んで……ふらりと家を出て行きました……そして、入水したので御座います」
そう云うと、くっ、と涙を堪えるかの様に華月は顔を歪めたので御座います。けれど、其れを振り払うかの様に顔を上げ、そして華月は云うのです。
「もし、五十鈴様に文が届いたなら、見せてはいけません。私の勝手極まりない考えです。もしかすると唯の暗鬼に囚われているに過ぎないのかもしれません。ですがご自分の御妹様や親友の兄を道行にしたのなら……あの男……東城優一郎なら……!」
そこまで華月が云った時、蝶子の唇がわなわなと震えている事に華月は気付いたので御座います。
「……蝶子様、まさか」
「一緒にいらして、華月様!」
蝶子が何故華月の手を引いたのか、解りませぬ。けれど、蝶子は華月の手をしっかりと握り、五十鈴の部屋へと急いだので御座います。
「お姉様……お姉様!」
扉を叩いても、内からは何の反応も返っては参りませぬ。
「お姉様!」
其の蝶子の剣幕に、家人が「どうしたのだ」と集まって参る程。
「蝶子様、行きましょう!」
華月の言葉に蝶子は扉を開き……そして。目に飛び込んできた、深紅。
「……い、いやぁぁぁぁっ!」
其処には、床を紅に染めて横たわっている五十鈴がおりました。左の手には優一郎からの文。右の手には剃刀が。
そして。其の白く美しい首筋からは、紅。
「お姉様!」
「……ふふふ」
蝶子が五十鈴の傍に駆け寄ると、まだ意識があったので御座います。
「お姉様、何故この様な!」
「蝶子、ちゃん?どうしたの……そんな顔をして……ホラ、優一郎様よ?……御無事だったの……うふふ…」
文を蝶子へと掲げ、幼い子供の様な笑顔で云う五十鈴の首筋からは紅が溢れ出し。華月が其の部分を布で押さえるので御座います。そして茫然としている家人に「早くお医者様を!」と叫ぶので御座います。
「……ふふふ……優一郎、様……」
運が良かったので御座いましょうか。五十鈴は一命を取り留めたので御座います。……ですが。
今は『五十鈴』という抜け殻だけになってしまったので御座います。其の御霊は、五十鈴の内からは抜けてしまったかの様なので御座います。
籐の椅子に座り、首には真白な包帯。その顔には優しい笑顔すら浮かんでおりますのに。けれど、ただ微笑んでいるだけ、なので御座います。
「お姉様……」
姉を慕う妹の声も、今は其の耳には届いてはいないので御座います。
「お返事を下さいませ……」
静かに、微笑むばかり。
五十鈴に宛てられた東城優一郎からの文には、こう書かれておりました。
『――もしもの時の為に文をしたためておく様に云われたので仕方なく、此れを書いています。
もしもの時等、僕には全く考えられないのですが。
もう直ぐ、貴女の元へ帰ります――』
その手紙はいつもいつも、五十鈴の着物の胸に仕舞われて居ります。
そうして、いつもいつも、五十鈴は微笑んでおります。
そんな五十鈴の手をとって、蝶子はあの日華月が呟いた言葉に思いを馳せるので御座います。
『東城優一郎……まるで悪鬼のような男……!』
終