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毛根シネマティック・ユニバース(MCU)~秘密結社事件記録~

秘密結社、妙な鼻毛男を知る

作者: kawauso2017
掲載日:2026/10/03

秘密結社、妙な鼻毛男を知る


 ここは、とある業界が息を潜める秘密結社。


 かつてカツラを製作していた者たちが集う、薄暗い地下室である。


 定例会議の開始まで、まだ少し時間があった。


 長い机の一番奥では、会長が腕を組んで目を閉じている。


 その近くには、技術主任と藤田幹部。


 机の端では、若い構成員が端末を眺めていた。


「……ん?」


 構成員が、小さく声を上げた。


「どうした」


 技術主任が顔を向ける。


「いえ、ちょっと妙なニュースが」


「妙な?」


「最近、鼻毛カッターばかり裏返してる奴がいるらしいんです」


「……は?」


 技術主任が眉をひそめた。


 構成員は端末の画面を机の上に投影した。


 白い裏面がずらりと並んだ棚の写真。


 見事に角度が揃っている。


「家電量販店の鼻毛カッター売り場で、商品が全部裏返されてるそうです。複数の店で」


「盗まれたのか?」


「盗まれてません」


「壊されたのか?」


「壊されてません」


「では、何をされたんだ」


「裏返されて、元の場所に戻されてます」


「……戻されている?」


「はい。きちんと」


 技術主任は、写真をしばらく見つめた。


「何が目的なんだ」


 構成員は画面をスクロールした。


「ネットでは色々言われてますが……」


 少し言いよどむ。


「鼻毛を切る文化への抗議らしいです」


「……なんだそれ」


 技術主任が、心の底からそう言った。


「いえ、そういう説がある、というだけで。コメントにも『草』って付いてますし」


「草」


「はい」


「……ネットでは、鼻毛テロと呼ばれているそうです」


「テロ」


 藤田幹部が、ゆっくりと口を開いた。


「鼻毛カッターを裏返すことが、テロ」


「はい」


「何も壊さず」


「はい」


「何も盗らず」


「はい」


「ただ、裏返して戻す」


「はい」


 藤田幹部は、写真の中の整然とした白い棚を眺めた。


「……几帳面な男だな」


「男かどうかは、わかってないそうです」


「そうか」


 藤田幹部はそれ以上何も言わず、自分の湯呑みに手を伸ばした。


     ◇


「つまり、その人物は」


 技術主任が腕を組む。


「毛を切るな、と言いたいわけか」


「そういうことになりますね。説が正しければ、ですが」


「我々とは、方向が逆だな」


「逆ですね」


 室内に、なんとも言えない沈黙が落ちた。


 そのとき。


 ずっと目を閉じていた会長が、静かに口を開いた。


「妙な奴だな」


 全員が会長を見た。


 会長は、投影された写真を見つめていた。


 白い裏面。


 揃った角度。


 起こされた商品。


 隠されていない値札。


「誰にも頼まれず」


 会長は言った。


「誰にも理解されず」


 一拍置く。


「それでも、毛のために動いている」


「……」


「面白いヤツではある」


 構成員が、おずおずと尋ねた。


「調べますか?」


 会長は首を横に振った。


「放っておけ」


 そして、投影を手で払うように消した。


「我々には、我々の戦いがある」


「はっ」


「では、定例会議を始める」


 会長が立ち上がる。


 全員が姿勢を正した。


「カツラに未来を!」


「ジーク・ボールドネス!」


「ジーク・ボールドネス!」


 地下室に声が響く。


 鼻毛カッターの話は、それきり誰の口にも上らなかった。


 ただ。


 会議が終わって、皆が帰り支度を始めた頃。


 会長が一度だけ、誰にともなく呟いた。


「……鼻毛、か」


 それを聞いた者は、いなかった。


     ◇


 同じ頃。


 迫田は、駅前の家電量販店にいた。


 最初に抗議を始めた、あの店である。


 初心に返るつもりだった。


 エスカレーターを上がる。


 三階。


 理美容家電コーナー。


 鼻毛カッターの棚の前に立つ。


「……ん?」


 迫田は、違和感を覚えた。


 何かが違う。


 棚には、いつも通り鼻毛カッターが並んでいる。


 爽やかな笑顔。


 すっきりとした鼻。


『気になるあの一本、根こそぎ』


 いつもの光景だ。


 迫田は、いつものように一つ手に取った。


 裏返す。


『気になるあの一本、根こそぎ』


「……」


 笑顔があった。


 迫田は、もう一度裏返した。


『気になるあの一本、根こそぎ』


 笑顔があった。


 もう一度。


 笑顔。


 もう一度。


 笑顔。


 表も。


 裏も。


 同じ笑顔だった。


 よく見ると、裏側の隅に、仕様表とバーコードが小さく縮められて印刷されている。


 隣の商品を取る。


 裏返す。


 笑顔。


 その隣。


 笑顔。


 迫田は棚から一歩下がった。


 棚の脇に、新しいPOPが貼られていた。


『リニューアル! 両面デザインパッケージ』


『どちらから見ても、スッキリ。』


「……」


 迫田は動かなかった。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


「……裏が」


 声がかすれた。


「裏が、ない」


     ◇


 後で知ったことだが。


 鼻毛テロの話題を受けて、いくつかのメーカーがパッケージを変更したらしい。


『裏返されても売り場の見栄えが損なわれないよう配慮した』


 ネットニュースには、そう書かれていた。


 記事のコメント欄には、


『企業の対応が早い』


『鼻毛テロ、完全敗北』


『テロリスト、息してる?』


 などと並んでいた。


 迫田は、それを読まなかった。


 読む必要がなかった。


 あの棚を見た時点で、すべてわかっていた。


     ◇


 迫田は、長いこと棚の前に立っていた。


 両面に笑顔のある鼻毛カッター。


 どちらを向けても、同じ顔でこちらを見ている。


 迫田は、手にしていた一つを、元の場所へ戻した。


 表か裏かは、もうわからなかった。


 角度だけは、揃えた。


 盗まなかった。


 壊さなかった。


 隠さなかった。


 持ち去らなかった。


 撤去しなかった。


 店員さんにも、迷惑をかけなかった。


 ……いや、たぶん、少しはかけた。


 迫田は棚に向かって、小さく頭を下げた。


 それから、売り場を後にした。


 誰にも負けなかった。


 誰にも勝たなかった。


 ただ、終わった。


 抗議とは、そういうものなのかもしれない。


     ◇


 帰る前に、迫田は季節家電の売り場へ寄った。


 空気清浄機の交換フィルター。


 ずっと、買い忘れていたものだ。


 レジで会計を済ませる。


 袋を提げて、店を出る。


 夕方の風が吹いていた。


 気持ちのいい風だった。


 迫田は、ほんの少しだけ。


 油断した。


「――ッ」


 鼻の奥に、何かが入った。


 くしゃみが出た。


 一回。


 二回。


 三回。


 迫田は立ち止まり、袋を持っていないほうの手で鼻を押さえた。


 何が入ったのかは、考えないことにした。


 知らないほうがいいこともある。


 迫田は、暮れかけた空を見上げた。


「……鼻毛さえあれば」


 その言葉を、迫田はこの先、何度呟くことになるのだろう。


 本人にも、まだわからなかった。


 ――これは遠い未来のお話。


 人類は、鼻毛を切る道具を限りなく進化させた。


 そして同時に。


 その裏側を、たった一人で見つめ続けた男がいたことを。


 その名前を。


 誰も知らない。


残酷描写:鼻へ何者かが侵入し蹂躙され尽くします。


前日譚第3話

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