観測停止域
少しだけ、不思議な世界を覗いていただければ幸いです。
妻と娘が事故で死んでから、神崎遼は写真を飾るのをやめた。
飾らなくなったのは、悲しすぎたからではない。
逆だった。
飾っているあいだ、ふたりはそこにいた。
テーブルの上の笑顔が、神崎の視線を受けるたびに、確かにそこに存在した。
だから怖くなった。
自分が目を離した瞬間に、彼女たちがどうなるのかが。
量子力学には、こういう原理がある。
粒子は観測されるまで状態が決まらない。
見られた瞬間に初めて現実になる。
神崎はその一文を、妻が死んだ翌年に読んだ。
学会資料の束を整理していて、偶然だった。
だが、ページをめくることができなかった。
では、
誰も見ていなかった瞬間に死んだ人間は。
誰かの記憶の中にある笑顔は。
誰も開かない写真の中の目は。
そこに在るのか。
在らないのか。
教科書は答えない。
だから神崎は、自分で考えることにした。
最初の違和感は些細だった。
午後三時十七分。
研究室の壁掛け時計の秒針が、一秒だけ逆に動いた。
次の瞬間には、何事もなかったように進み続けていた。
誰にも言わなかった。
二度目は翌週。
実験ログの数値が変わっていた。
昨夜、自分で入力した値が別の数字に置き換わっている。
バックアップにも同じ数字が残っていた。
記録のほうが、神崎の記憶よりも整合していた。
三度目は、後輩の高橋とすれ違ったときだった。
「先生、昨日の測定データ、ありがとうございました」
昨日、神崎は一日中研究室にいた。
廊下にすら出ていない。
「……ああ」
そう答えた。
その夜、行動記録を確認した。
午後二時十四分から十九分まで。
五分間だけ、記録がない。
空白だった。
神崎が見つめたのは、観測と観測のあいだだった。
誰も見ていない。
機械も記録しない。
その瞬間。
ある夜、彼は実験室のカメラをすべて停止した。
センサーを落とし、ネットワークを切り、録音機器も外した。
現実を測る手段を、一つずつ消していく。
電気を消す。
完全な暗闇。
床に座り、目を閉じた。
呼吸を整える。
心拍だけがやけに大きく響く。
五分。
十分。
十五分。
失敗かもしれない――そう思ったとき。
音が消えた。
いや、消えたのではない。
遠ざかった。
空調の音も、外の車の音も、自分の呼吸さえも。
世界そのものが、一歩、後ろへ退いたようだった。
そして。
何かがいた。
見えない。
聞こえない。
だが確かに、そこにいる。
思考の手前に触れられているような感覚。
考えるより先に、意味だけが流れ込む。
恐怖は、遅れてくることすらできなかった。
――お前たちが現実と呼んでいるものは、観測によって固定されている。
知っている、と神崎は思う。
――違う。
言葉ではない応答。
――お前たちが思っているより、ずっと文字通りの意味で。
その瞬間、娘の顔が浮かんだ。
最後に見た顔ではない。
写真の中の、笑顔だった。
引き出しの奥にしまったままの写真。
何ヶ月も見ていない。
もし、誰も覚えていなければ。
もし、誰も見ていなければ。
あの笑顔は、本当に存在したと言えるのか。
――お前たちがいなければ、ここには何もない。
「我々が消えたら」
思考だけが返る。
わずかな沈黙。
ほんの一瞬、神崎はその先を拒んだ。
それでも。
――試したことがない。
それだけだった。
神崎は電気をつけた。
カメラを起動した。
センサーを戻した。
世界は何事もなかったように帰ってくる。
空調の音。
廊下の足音。
窓を叩く雨。
床に座ったまま、神崎は自分の手を見る。
この目が見ている。
だから世界はここにある。
では。
誰も見なくなったら。
翌朝、神崎は記録を書こうとした。
だが書けなかった。
言葉にした瞬間、それは別のものになる気がした。
観測が状態を固定するように、言語化は解釈を固定する。
彼が触れたのは、その手前だった。
結局、ノートに一行だけ記した。
観測されていないとき、何かがいる。
それだけ書いて閉じた。
午後、高橋が言った。
「観測できないなら、存在しないんじゃないですか? 量子論的には」
神崎は答えなかった。
引き出しの奥の写真を思い出していた。
誰も見ていないとき。
あの中で、彼女は笑っているのか。
数週間後、研究室は閉鎖された。
予算削減――書類にはそうあった。
だが神崎は、その通知を三か月前の日付で読んだ記憶があった。
封筒の折れ目の位置まで思い出せた。
それについて考えることを、やめた。
段ボールに私物を詰める。
机の引き出しを開く。
ノートがある。
一行だけのノート。
神崎はそれを手に取り、開かずに、元の場所へ戻した。
読まれない記録は、存在していると言えるのだろうか。
その下に、写真があった。
娘の写真だった。
神崎はそれを取り出す。
しばらく見つめる。
見つめているあいだ、彼女はそこにいた。
確かにいた。
神崎は写真を、段ボールの一番上に置いた。
それが消えないようにするみたいに。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




