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観測停止域

掲載日:2026/06/22

少しだけ、不思議な世界を覗いていただければ幸いです。

妻と娘が事故で死んでから、神崎遼は写真を飾るのをやめた。


飾らなくなったのは、悲しすぎたからではない。


逆だった。


飾っているあいだ、ふたりはそこにいた。


テーブルの上の笑顔が、神崎の視線を受けるたびに、確かにそこに存在した。


だから怖くなった。


自分が目を離した瞬間に、彼女たちがどうなるのかが。


 


量子力学には、こういう原理がある。


粒子は観測されるまで状態が決まらない。


見られた瞬間に初めて現実になる。


 


神崎はその一文を、妻が死んだ翌年に読んだ。


学会資料の束を整理していて、偶然だった。


だが、ページをめくることができなかった。


 


では、


誰も見ていなかった瞬間に死んだ人間は。


 


誰かの記憶の中にある笑顔は。


 


誰も開かない写真の中の目は。


 


そこに在るのか。


在らないのか。


 


教科書は答えない。


だから神崎は、自分で考えることにした。


 


最初の違和感は些細だった。


 


午後三時十七分。


 


研究室の壁掛け時計の秒針が、一秒だけ逆に動いた。


次の瞬間には、何事もなかったように進み続けていた。


 


誰にも言わなかった。


 


二度目は翌週。


 


実験ログの数値が変わっていた。


昨夜、自分で入力した値が別の数字に置き換わっている。


バックアップにも同じ数字が残っていた。


記録のほうが、神崎の記憶よりも整合していた。


 


三度目は、後輩の高橋とすれ違ったときだった。


 


「先生、昨日の測定データ、ありがとうございました」


 


昨日、神崎は一日中研究室にいた。


廊下にすら出ていない。


 


「……ああ」


 


そう答えた。


 


その夜、行動記録を確認した。


午後二時十四分から十九分まで。


五分間だけ、記録がない。


 


空白だった。


 


神崎が見つめたのは、観測と観測のあいだだった。


 


誰も見ていない。


 


機械も記録しない。


 


その瞬間。


 


ある夜、彼は実験室のカメラをすべて停止した。


センサーを落とし、ネットワークを切り、録音機器も外した。


 


現実を測る手段を、一つずつ消していく。


 


電気を消す。


 


完全な暗闇。


 


床に座り、目を閉じた。


 


呼吸を整える。


心拍だけがやけに大きく響く。


 


五分。


 


十分。


 


十五分。


 


失敗かもしれない――そう思ったとき。


 


音が消えた。


 


いや、消えたのではない。


遠ざかった。


 


空調の音も、外の車の音も、自分の呼吸さえも。


 


世界そのものが、一歩、後ろへ退いたようだった。


 


そして。


 


何かがいた。


 


見えない。


 


聞こえない。


 


だが確かに、そこにいる。


 


思考の手前に触れられているような感覚。


考えるより先に、意味だけが流れ込む。


 


恐怖は、遅れてくることすらできなかった。


 


――お前たちが現実と呼んでいるものは、観測によって固定されている。


 


知っている、と神崎は思う。


 


――違う。


 


言葉ではない応答。


 


――お前たちが思っているより、ずっと文字通りの意味で。


 


その瞬間、娘の顔が浮かんだ。


 


最後に見た顔ではない。


 


写真の中の、笑顔だった。


 


引き出しの奥にしまったままの写真。


何ヶ月も見ていない。


 


もし、誰も覚えていなければ。


 


もし、誰も見ていなければ。


 


あの笑顔は、本当に存在したと言えるのか。


 


――お前たちがいなければ、ここには何もない。


 


「我々が消えたら」


 


思考だけが返る。


 


わずかな沈黙。


 


ほんの一瞬、神崎はその先を拒んだ。


 


それでも。


 


――試したことがない。


 


それだけだった。


 


神崎は電気をつけた。


カメラを起動した。


センサーを戻した。


 


世界は何事もなかったように帰ってくる。


 


空調の音。


 


廊下の足音。


 


窓を叩く雨。


 


床に座ったまま、神崎は自分の手を見る。


 


この目が見ている。


 


だから世界はここにある。


 


では。


 


誰も見なくなったら。


 


翌朝、神崎は記録を書こうとした。


 


だが書けなかった。


 


言葉にした瞬間、それは別のものになる気がした。


 


観測が状態を固定するように、言語化は解釈を固定する。


 


彼が触れたのは、その手前だった。


 


結局、ノートに一行だけ記した。


 


観測されていないとき、何かがいる。


 


それだけ書いて閉じた。


 


午後、高橋が言った。


 


「観測できないなら、存在しないんじゃないですか? 量子論的には」


 


神崎は答えなかった。


 


引き出しの奥の写真を思い出していた。


 


誰も見ていないとき。


 


あの中で、彼女は笑っているのか。


 


数週間後、研究室は閉鎖された。


 


予算削減――書類にはそうあった。


 


だが神崎は、その通知を三か月前の日付で読んだ記憶があった。


封筒の折れ目の位置まで思い出せた。


 


それについて考えることを、やめた。


 


段ボールに私物を詰める。


机の引き出しを開く。


 


ノートがある。


 


一行だけのノート。


 


神崎はそれを手に取り、開かずに、元の場所へ戻した。


 


読まれない記録は、存在していると言えるのだろうか。


 


その下に、写真があった。


 


娘の写真だった。


 


神崎はそれを取り出す。


 


しばらく見つめる。


 


見つめているあいだ、彼女はそこにいた。


 


確かにいた。


 


神崎は写真を、段ボールの一番上に置いた。


 


それが消えないようにするみたいに。




最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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